6.もう知っていること

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6.もう知っていること

 穏やかな顔だった、と父は語った。 「三十年前のあの日、姉さんはあるひとをかばって死んだんだ」 「……どういうこと」 「そのひとは学校のクラスメートでね、姉さんとはあまり接点はなかったらしい。人気者でみなに好かれていた。あの日、そのひとの恋人がそのひとを殺して、自分も死のうとした。無理心中しようとしたんだ」 「心中って……」 「一緒に死のうとしたんだよ」  父は小さく笑った。 「大好きで大好きで、大好きだから、生きて離れるくらいなら、一緒に死ぬ、そう思うこともあるんだよ」 「それは」  かさねさんの気持ちを読んだ京子には、吉村が気になる京子には、わかった。 「まだ十八歳だってのにな。いや、十八歳だから、そう思い詰めてしまったんだろうな」 「でも、かさねさんは直接は、そのふたりに関係なかったんでしょ」 「ああ、姉さんがどうしてあんなことをしたのか、わかる者はいなかった。わかってるのは、恋人を殺そうとした人の前に飛び込んで、そのひとをかばおうとしたことくらいだ」 「かさねさんは」  そうだ、かさねさんは恋をしていた。一生に一度の恋をしていた。 「でも、どうして、そのふたりは心中しようとしたの? 恋人同士だったんでしょ。将来、結婚だってできたのに。病気になったの?」 「……結婚はできないんだよ」  父は言った。 「姉さんがかばったひとも、殺そうとしたひとも、女性だった。十八歳の女の子だったんだよ。だからどんなに想っても、ずっと一緒にはいられない、そう思い詰めてしまったんだろう。当時は、今以上に偏見もあったし、理解がなかったからね」 「お、女の子……?」  ――どこと言われても困ってしまうけど、一番は指先かな。きれいな、形。ピアノを弾いてるところをいつか見られたらいいな。  ――え、相手はピアノ弾けるの? うわ、ロマンチックだなー。 「かさねさんが好きだったのは……」  京子の言葉が途切れた。  それは行きすぎた友情なのだろうか、それとも、ありふれた愛情なのだろうか。京子は自然と、「恋」と考えていたが、そう受け止めていたが、それでよかったのだろうか。 「おじいちゃんもおばあちゃんも俺も、いろいろ言われたよ。ひとを守って亡くなったっていうのに、相手が女の子だってことで、ね」 「守った……」  京子は繰り返した。そうか、かさねさんは命を賭けてあのひとを守ったのか。友情でもいい、愛情でもいい、その感情の名前なんてなんでもいい。ただ純粋な想い。生死を賭ける想い。かさねさんは臆病じゃなかった。告白しなかったのは、やっぱり保身からじゃなかった。そう思ったら、そう考えたら、京子は腹落ちして納得できた。涙が出てきた。 「だから、さっきのおまえの言葉には救われたよ」  父は濡れた声で言った。 「想っててもいい。それくらい、ゆるしてあげよう。本当にささやかなちいさな願いなんだから……おまえはそう言ったな。俺はずっと、忘れないのは罪だと思ってた。前を向けないのは、いけないことだと思っていた。頑張って忘れようとしていた。それが生きるってことだと思っていた。けど、想っていても、想い続けていてもいいんだな」 「……そうだよ」  京子は涙を両手で拭きながら答えた。 「きっと、前を向くことと想い続けることは矛盾しないんだよ。かさねさんがそのひとを想ったことも、お父さんがお母さんを想ってることも、みんな、全部あってもいいんだよ」 「……まいったな、俺は子供のおまえに救われたよ」 「わたしは、かさねさんに救われた、きっと」  いまのわたしがそう思えるのは、あのワープロがあったから。かさねさんの想いを追いかけたから。 「お父さん、ワープロの中の文書、見た?」 「いや、つらくて開けることもできなかった」 「かさねさんはね……」  京子は言葉が喉に詰まって、続けるのが難しくなった。かさねさんがひとを好きになったこと。『隣』をとられて絶望したこと。そのひとを守って、死んだこと。全部が、今この瞬間のかさねさんと京子を作っていた。 「たぶん、かさねさんは、お父さんと話したいこと、いっぱいあったと思う」 「そうだな、俺も、たくさん話せばよかったと思うよ。不思議だな、弟の俺よりも、一度も会ったことがないおまえのほうが姉さんをよく知ってるみたいだな」 「……わたしたち、秘密の庭があったから」  そこは本当に自由な場所で、かさねさんは思っていることを全部、京子に話してくれた。かさねさんは京子を知らないが、京子はかさねさんを知っていた。のぞかせてもらった。 「わたし、きっと、かさねさんの最期の言葉を知ってるよ。かさねさんはね、お父さん」  京子は微笑んで言った。 「最後に、大好きって言ったんだよ。あなたが大好き、って」 「そうだな、人間の、ちいさな願いだもんな」  父はそう言うと台所から出ていった。京子も涙をぬぐいながら、立ち上がる。そうだ、ちいさな、ささやかな願いだ。 「あの庭から、ずっと見ていてくれるよ……」  あなたを想っている。この瞬間も、過去も未来も、心をかさねて。
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