アメ

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アメ

「アメが、降りそうですねぇ」 「へ?」 真っ青に広がる空を見上げて、そのヒトは言った。 天気雨でも降るというのだろうか。そんな気配は微塵も無いし、今朝見た天気予報でも降水確率はゼロパーセントだったはずだ。 「これはきっと、オオアメになりそうだ」 通り過ぎようと思った。外回りで疲れた僕が何故、わざわざ他人のおかしな天気予報を聞くために立ち止まらなければならないのか。 今日はもう直帰していいと先程会社から連絡があった。折角いつもより早く帰れるのだから、こんなところで謎の予報に耳を傾けている場合ではない。 帰ったら何をしようか。掃除やら洗濯やら、やるべきことはいくらでもあるけれどやっぱり何もせずにまた眠ってしまうのだろうな。 固い地面を踏みしめて一歩踏み出した。コツリ、と心地良い音が鳴る。割と最近買い替えたばかりの靴を見やると、急に辺りが暗く翳り出した。そうして少し赤みのあるアスファルトにぽつりぽつりと、丸い模様が出来ては消えていくではないか。 買ったばかりの靴が弾いた輝きを見て、それが水だと漸く認識した。 …雨? あぁ最悪だ。天気予報は嘘つきだ。ほんのついさっきまであれだけ晴れ渡っていたのに、雨雲なんてどこにも見当たらなかったのに、どうしていきなり降り出したんだろう。 傘なんて勿論持っていないし、雨宿りが出来そうな場所までは少し距離がある。どうしようか戸惑っている内に地面の水玉模様も濃く塗り潰されていき、水を弾く靴すら飛び越えて靴下まで水が染み込んで来た。 このままではスーツも書類が入った鞄も為す術無く濡れてしまう一方だ。走るか。せめてオフィス街まで出るか、駅までは濡れても耐えるしかない。鞄は死守しないとだけど…。 よし、と足に力を入れた時、ぐいと強く肩を掴まれ引き止められた。ぽすっと背中に何かが当たる感触がして、思わず「わっ」と声が漏れる。 ふわりと香る、ペトリコール。 雨が上がった後の緑のような、幼い頃に慣れ親しんだあの匂いがした、気がした。 しかし今はそんな余韻に浸っている場合ではない。まだ雨は強く降り続いているし、このままではびしょ濡れだ。何だってこんな急いでいる時に…。 肩に置かれた手は離される気配が全く無く、僕はじろりと背後にいる人物に目をやった。 さっきの、変なヒトだ。 ただの戯れ言だと思っていたけれど、まさかこのヒトの予報が当たるとは欠片も思っていなかった。それにしても何故、このヒトは雨が降ることが分かったんだろう。 何故、このヒトは全く濡れていないのだろう…。 「大丈夫ですよ」 僕よりも少し高いところから声が降ってくる。 何が、と問う前にそのヒトはふふっと微笑って答えた。 「あなたも濡れないように、守ってあげるから」 意味が分からなかったけれど、彼の言った後によくよく見てみれば僕も彼同様全く濡れていないことに気付く。先程少しだけ水が染み込んだ靴下はまだちょっと気持ち悪かったけれど、それ以外はスーツも鞄も、真っ先に濡れるはずの髪も全く濡れていなかった。 おかしい。靴みたいに僕は雨を弾けるはずなんてないのに。 おかしい。だって彼も僕も傘なんて差していないのに。 まるで雨が僕らの周りだけ避けて降っているようだ。ぽつぽつと降り続く水の音だけが、辺りに響いていた。 僕の肩から漸く手を離した彼はぐるりと向きを変えさせて、真正面から僕を抱き込んだ。あの匂いが、少し濃くなる。 余りにも突然のことで理解が追い付かないことだらけだけれど、不思議と嫌じゃない。押し返そうとも逃げ出そうとも思うことなく、僕は何故か彼の腕の中の温もりに安心していた。 あぁ、温度はあるんだ。 よくよく感覚を研ぎ澄ましてみると、トクトクという鼓動も感じる。それらのことに、何故だか僕は酷く安堵した。 このヒトは、生き物なんだ。そう確認出来たから。 やっぱり今日の僕はどうかしている。見ず知らずの筈の他人に抱き竦められても抵抗ひとつする気がしない。それどころか離される事を嫌だとさえ感じ始めている。 …思っているより疲れが溜まっているのかもしれない。 「アメの後はね、」 耳元に唇を寄せた彼が甘過ぎる声で囁いた。僕はその僅かな振動をただ何となく鼓膜に受け取りながら、続きを待った。 「アメが止むんですよ」 当たり前のことだ。雨が降り終わったら雨が止んだってことだろう。やっぱりこいつは変なヒトなんだ。 「そうしたらね、」 続きがあった。心地良い声をもっと聴いていたくて、雨音の中で僕は耳を澄ます。 「また青空が広がるでしょう。空気が綺麗になって、草花が喜んで、そうしてもし運がよければ、虹が見えるかもしれない」 彼が言う光景が容易に想像出来て、僕は少し笑ってしまった。何て当たり前で、穏やかで愛おしい光景だろう。そんな事誰だって分かることだけれど、余りにも当たり前過ぎて考えるまでも無いことだけれど、だからこそ時として考えることすら忘れてしまうことだった。実際僕も彼に言われるまで忘れていた。 時には雨が降ること、雨上がりは空気が綺麗なこと、草花には雨が必要なこと、たまに虹が出ること。 雲ひとつ無い青空は綺麗でとても気持ちが良いけれど、それは雨が降るからこそ存在し得る景色であること。 「そうして晴れてもまた、アメは降るんです」 耳元で彼が続ける。甘い甘い、どろりとした振動が僕の全身を駆け巡る。 「でもね、忘れないで。アメだって美しいんだってこと。アメは悪役じゃない。降っている時にしか見えない景色が、音が光がたくさんあって、それらはとても美しいんです」 だから、アメを嫌わないでね。 いつの間にかすっかり止んでまた元通り晴れ渡った空が、眩しいくらいの陽の光を僕らに投げつけている。さっきまでの雨音がもう愛おしい、なんて。 そっと身体を離されて、初めてちゃんと顔を見合わせた。 そのヒトの瞳は雨上がりの空みたいに深く青く晴れ渡っていて、雫を携えた草のように瑞々しく潤っていた。 「…きれい」 ぼそりと零れ落ちた僕の本音と同時に、白い頬を伝った雫。 それは今まで見た中で一番綺麗なアメだった。
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