トロイメライ

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トロイメライ

「星空は、海ってやつに似てるね」 まるで満天の星空にはしゃぐ子供みたいな幼さで、隣に座る青年は笑った。 釣られて俺も空を見上げてみたけれど、正直それ程綺麗ではないし、星空と形容していいのか微妙なくらいにしか星は見えない。 都会にしては良く見える方だと思うけれどそれでも、流れ星でも見つけたかのような喜びを隠しもしない彼を俺は不審に思った。それもそうか、だってさっき出逢ったばかりだもんな。 バイト帰りに人気の無い階段で空を見上げるこの青年の後ろ姿を見つけてしまってから、何故か同じタイミングで俺を見つけてしまった彼に呼び止められて今ここにいる。 男二人、もうすぐ日が変わろうかという時間帯に、川沿いの段差の低い階段でただ空を見上げて。 辺りのお店ももうとっくに閉店していて街灯もまばらだ。俺達を照らすものといえばその頼り無い街灯の欠片とたまに雲間から覗く月明かりくらい。 それなのに、どうして彼の瞳はこんなにも明るいのだろう。自分から光を放っているみたいに、きらきらしてて眩しいな。 「ね、何でだろうね」 隣に座る青年はずうっと眺めていた星空から漸く俺に視線を移して、また嬉しそうに微笑った。 横顔でしか確認出来なかった青年の顔は正面から見てもやっぱり人形のように整って美しかった。…げーのーじん、だろうか。 俺はそういうのに疎いからもしそうだと言われても成る程と納得してしまうし、こんな人気の無い場所でいるのも何となく分かるけれど。 彼の言葉に何も返事をしないでいると、不意にその綺麗なお顔が近づいて来た。驚いて、咄嗟に少し後退さってしまうがそれでも彼は気にする素振りも無い。 …ハーフ、なのかな。都会の星空よりもずっと暗くくすんでいるだろう俺の目を覗き込む彼の瞳は、不思議な色に輝いている。 青や緑や、薄い紫。それらがオーロラみたいにユラユラ揺らめいて小さな星の中で瞬いていた。息をすることも忘れて、思わず見惚れてしまう。 「駄目だよ、息はしなきゃ。この身体ってそういうものでしょう?」 パチンッと両頬を叩かれて我に返ると、目の前の青年はそれでも目を逸らすことなく薄い唇を歪めて微笑んだままだった。 「良かった。また光が灯ったね」 「………?」 さっきから聞いていると、こいつの言う事には不可解な点が多い。バイト帰りで疲れているせいもあるかも知れないが、言っている意味がいまいち良く分からないのだ。 「あーゴメン。もしかして僕の言葉通じてない?おっかしいなぁ…。この辺りはこの言語で合ってるハズなんだけど、うーん…。ちょっと待ってね」 何やらもごもごと口を動かしあーでもないこーでもないと悩む青年はやっぱりハーフなのかも知れない。 英語は何となく分かったけれどその他にもフランス語らしき言葉や、中国語やらドイツ語やら、何処の国の言語か分からない言葉が彼の口から次々発せられた。一体何ヶ国語話せるっていうんだこの美形は。 青年はその一つ一つの言語が俺に通じているか確認するように、言葉を発してはまたオーロラみたいな瞳をじいっとこちらに向けてくる。 段々と不安そうな色を帯びてきたその光に遂に耐え切れなくなって、俺はやっと口を開いた。 「あのー、大丈夫ですよ日本語で。見ての通り俺、生粋のジャパニーズなんで」 「そっか良かった!なら僕の言ってること分かる?通じてるってことだよね!あー…でもホント、ここは言葉が多くてちょっと不便だなぁ…」 うん、言葉は通じている。けれどやっぱり、意味は通じていない。さっきからこのヒトは何を言っているんだ?という疑問符が頭から消えてくれない。 あぁ、もしかして。 色んな言葉を話せるみたいだし顔は日本人っぽいけどハーフかも知れないし、さっきの「海ってやつ」という言葉から察するに内陸の国から来た海外の観光客かも知れないな。 「あの…もしかして外国の方とか…ですか?」 「ん?僕のこと?」 「他に居ませんけど…」 辺りを何度見回してもここには俺達二人。二人だけの、どこか奇妙な空間があるのみだ。 「僕ね!ガイコク…うーん、まぁ外から来たっていう点では、似たようなもんかな!」 「…?外」 「外!」 そう言って青年はまた星空に視線を変えた。あ、オーロラが見え辛くなっちゃったな。 そのちょっとした寂しさを紛らわすように、俺も視線を空へと向ける。星空と海が似ているとは…どういうことだろう。 深海と似ているなぁとテレビを観ながら何となく思った事はあるけれど、そういう単純なことだろうか。それとも彼の言葉にはもっと、哲学的な意味が含まれているのかな…? 「きみは、よく考えるヒトだねぇ。すきだよ、そういうの」 黙っていただけなのに、何故か褒められてしまった…。もしかして思ったことが口に出ていたのかな。空は見上げたままだから顔は見えなかったけれど、隣でまた彼が微笑った気がした。 「そうだ!紅茶飲む?」 「え」 「アールグレイ。ここに来てからの僕のお気に入りなんだぁ」 「あ、っと…俺も好きです。紅茶」 「そう?ちょっと待ってね」 一体何処から出したんだ。なんて野暮な疑問を抱くのはもうやめた方がいいだろうか。俺の座っているのと反対側に置いていたのかな。 さして鞄らしいものも持っていない青年はどこからともなくプラスチック製らしいタンブラーを取り出すと、またどこから出てきたのか分からない二人分のカップにとくとくと透き通った茶色い液体を注ぎ込んだ。 ふわりと香る、アールグレイの匂い。俺の好きな香りの一つで、気分が少しうきうきする。注がれた紅茶は冷水で作ったのだろうか、カップ越しに伝わる温度も程よく冷たくて気持ち良かった。 「ありがとう、ございます」 「良かった、喜んでくれて」 ふっと細められる目が眩しくて、思わず手元のカップに目線を落とす。するとちょうど雲から顔を出した半月が、カップの表面に映り込んでいた。 「ここの衛星はひとつだけなのに、とても明るいね」 「…?月のことですか」 「そう、月って言うんだっけ。時間と共に満ち欠けして、無くなったと思ったらまた真ん丸くなってそれを繰り返して。本当に不思議だ」 「そうですね。不思議ですね」 あ、美味しい。市販のやつなのかな。どこのメーカーだろう。こんなに美味しい紅茶は初めてかもしれない。 カップを握って、暫くの静寂。聞こえてくるのは遠くで最終の電車が走る音と、たまに通る車の音。それから、隣の青年のふっと漏らす吐息。 さあっと、夏らしく湿り気のある風が緩やかに吹き抜けていく。俺と、隣の別の体温の間を縫って。 …この青年に果たして体温はあるのだろうか。そんな意味の分からない考えが浮かんだのも、やはり疲れていたからなのかも知れない。 「触ってみる?手、貸してあげる」 また突然身体が近づいて来たかと思うと、階段に置いていた左手が不意に持ち上げられてぎゅうと握られてしまった。 驚いて身動ぎするも、彼は気にするどころか指と指を絡めて手を握り直してくる。一体何を考えてるんだこいつ…は…?あれ? 「…つめ、たい?」 「今は夜ってやつで太陽が隠れてるけど、それでも暑いでしょう?だからこの方がいいかなと思って」 「えと、あの………え?」 「暑い時には冷たいほうが気持ち良いんでしょ?」 「あぁ、まぁ」 「ふふっ。きみの手は…えと、あ!そうだ。『あったかい』ね」 「あったかい…ですか」 「うん。…きみのココロそのものみたいだ」 「俺の…ココロ?」 オーロラが揺らめく。あ、薄いピンクが見えた。淡い水色に黄色、深海の底から見上げたみたいな眩しい青…。 指に力が込められたまま、その色とりどりの輝きが近づいてやがてぼやけてしまった。と同時に自身の唇に受け取った、柔らかい感触。 「おーろら?ってなんだろ。とりあえず海は見てみたいなぁ。深海ってのも見れるかなぁ…。あぁ、見たいものがたくさんだ!」 ぽかんとする俺を余所に、青年は今までで一番嬉しそうな笑顔を向けて繋いでいない方の手で俺の頬を撫でた。あれ、冷たくない。普通のヒトの温度みたいに、今度は温かい。 「ね?付き合ってくれるでしょう?」 「………はい?」 「見たいものは沢山ある。だけど僕ね、一番してみたかったことがあるんだ。そのためにここまで来たんだよ。…きみとならそれが叶うかもしれない」 やっぱり外国の人なのかな。でも何か、何か別の空気が彼の周りだけを揺蕩っている気がする。早朝の山の空気みたいな、舞い落ちる雪の結晶みたいな、凛と澄んだ空気。穏やかでとても心地が良い空気だ。 「良かった。きみも気に入ってくれたのなら決まりだね。こんなに早く見つけられるとは思わなかったよ」 「あの、一番の目的って」 「…たったひとりを」 視界一杯に広がったオーロラが、また揺らめいていた。
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