邂逅

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邂逅

靴紐がね、切れてしまったんだ。 だからボクはもう、歩けないんだ。 男は言った。その視線に釣られて下を見ると、古びたスニーカーの靴紐は確かにぷっつりと切れていた。 そうそうあることではない。 だって一昔前の草履の鼻緒じゃあるまいし、現代のスニーカーの靴紐がこうも見事に切れてしまうなんて。余程の粗悪品でもそうそうあることではない。 それなのに僕は男の言うことに何の疑問も抱かずに、じゃあ、と手を差し伸べた。 負ぶっていきましょうか、と。 明らかに男の方が背が高く体格的には僕の方が小柄ではあるが、それでも力には自信があった。身体が小さい分馬鹿にされることがないようにと、人一倍空手を頑張ってきたからだ。 差し出された手を見て、やがて男はふるふると首を振った。 何色と言うのだろう、黒の中に深い翠を携えた艶のある髪が揺れる。 それならば、と僕は差し出した手を引っ込めようとした。すると男は徐にそんな僕の手を掴んで、自分の顔の方に引き寄せる。 それに釣られて、僕も少し前屈みになった。何だろうと思う暇も無く、指先に少し柔らかな感触が掠める。 まるで祈るように肩膝をついて僕の指先にキスを落としたその男は、名残惜しそうにするりと手を離した。 深い夜のような静寂が辺りを包む。 僕も彼も、向かい合ったまま何も話さなかった。 やがて髪と同じような、けれどそれよりも少し明るい翠色の瞳を細めて、桜のような唇がゆっくりと開いた。 ボクはもう歩けないから、きみはもう行ってくれて構わない。 ボクの分までとは言わないけれど、きみのゆけるところまで行ってくれたならそれでもう満足だから、と。 それを聞いた僕は何だか腹が立った。そうして直ぐに、嫌だと返した。 綺麗な翡翠が丸く見開かれる。やがてふはっと、吹き出す声が聞こえた。 男の反応などお構い無しに、僕は彼の腕をぐいと引いて自分の背に乗せ歩き出した。やはり重いが、何故だか置いていくことに比べればずっと軽いと思えた。 抵抗することも無く、男は僕にされるがままになっている。長い足がぶらぶら揺れるのを見ると、まるで幼い子供をおんぶしているような気分になった。 小柄な僕が背の高い彼を負ぶさってただ無言で歩く。何て珍妙な光景だろうか。 ふと、似たような感覚を以前味わったことがあるような気がした。桜が舞い散る中で、僕が誰かを負ぶさって歩いているような。 けれど今は、桜どころか木など一本も生えていない固い固いアスファルトの上。 ねぇ。 耳元でひどく穏やかな声がする。 振り返りもせずに何ですか、と呟くと、ふふふっと嬉しそうな笑い声がまだ寒い空に飛んでいった。 きみはやっぱり、変わらないね。 男が呟いた。 初対面の彼が以前の僕を知っている筈がない。何を言っているんだと思ったけれど、僕はただ、そうですかね、とだけ返した。 あぁ。変わらない。変わっていないよ。 きみは絶対、ボクを置いていったりはしないんだ。だからボクも、決めたんだ。 ぎゅっと、僕にしがみ付く腕に力が込もった。すうっと匂いを確かめるように、僕の耳の後ろに鼻が当たる感覚がする。そのまま首筋に顔が埋められ、柔らかく深い翠が頬を擽る。 決めたんだ。 今度きみを見つけたら、もう絶対離さないって。 ひとりだけに背負わせるようなことは絶対しないって。 試してゴメンね、重かったでしょう。 消え入るような声でそう囁くと、僕の背中に乗ったまま男は眠った。 彼は、夢を見ているのだろうか。酔っ払っているのだろうか。そういえば住所を聞き忘れてしまった。 男の放った言葉の意味なんて分からずに、僕はそのまま自分のアパートへ向かった。 背中の温もりにただ、安心しながら。
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