メモリーズ

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メモリーズ

1.  一年の仕事を終えて自宅に戻ると、娘がテレビにかじりついていた。それ自体はいつものことだが、娘が見ているテレビ番組がドラマやバラエティとは違うことに、目がいった。 「どうしたんだ? ドラマじゃないなんて珍しいな」  思わず話しかける。このごろはもう父親である私とはなかなか話しても視線を合わせてもくれないが、このときばかりは違った。 「うん。この間から見れるようになったスカパー」  視線はやはり合わせてくれなかったが、娘は一応、私に答えた。それで思い出した。先日、どうしても水原征爾(みずはらせいじ)のライブが見たいから数ヶ月だけ、スカパーを契約して欲しいと私に頼んできたのだ。  水原征爾は、最近では増えてきた歌手と俳優を同時にこなすタレントのハシリのような存在で、今では歌手としても俳優としても確固たる地位を築いている。スカパーでは水原征爾のデビュー十五周年を記念して、彼が今まで出演したドラマや映画の特集をしていた。おまけとして、その特集の最後の日に録画ではあるがライブが放映される。生放送ではなくとも、地方に住んでいてライブに行くことができない娘にとっては、どうしても見てみたい水原征爾の「生」の姿なのだろう。  チューナーとアンテナは、妻の甥っ子がくじの景品で当てたがいらないというので、設置料込みで食事をご馳走してやって手に入ることになっているという。毎月数千円の視聴料はバカにならない出費ではあるが、妻も乗り気だったため、契約することにしたのだ。ただし、リビングでのみ見ること。これが私の出した条件だった。お金を払っている番組を自室のテレビで見られたらたまらない。娘は最初は渋ったが、私が譲らないのを見て、しぶしぶ条件を受け入れた。 「で、こいつのどこがいいんだ?」 「全部」  なおも話しかける私に、娘はとげとげしい声で答えた。ちょうど、曲の間奏部分だったため、話してくれたらしい。 「全部ってお前なあ」  もうお父さんうるさい黙って、セイの声が聞こえないでしょ、と娘は私に冷たい視線と言葉を浴びせかけた。それ以降は私も話しかけるのをやめて、妻が出してきた夕食をとることに専念した。  私にはいったいどこがいいのかよくわからない歌を、彼は歌い、ギターを弾いていた。 『こんな大切な日を、俺と一緒に過ごしてくれてありがとう。この年末年始はちょっと故郷に帰って、ゆっくりして、またみんなのところに帰ってきます。来年の一発目は、またここからだから、みんな、よろしく』  夕飯も終え、お茶を飲んで一服していると、テレビの中の彼がそんなことを言っていた。どうやら、クリスマスイブの日にあったライブの録画放映らしい。 「ねえお母さん。セイってさ、この街出身なんだって。どっかでばったり出会ったりとか、ないかなあ」 「どれだけ人口いると思ってんのよ、バカねえ」  目の前の私を無視して、娘はキッチンの奥にいた妻に話しかける。父親など寂しいものだ。その時、玄関のチャイムが鳴った。妻が、こんな夜分にいったい誰よとぶつくさ言いながら玄関に向かった。  お茶を飲み終えた私は、いつもと同じようにさっさと自室に引っ込むことにする。 「あ、あらあらあらあらまあ」  妻が玄関先で変な声を出している。不審に思って私は自室に戻る途中の廊下を曲がって、玄関を覗いた。突然の来客は、私の顔を見てほっとしたような 顔を見せた。 「突然すみません。電話番号とか覚えてなくて……。あ、課長、元気ですか」  目の前ではにかむ男は、娘がテレビにかじりついている原因、スカパーに金を払うはめになった元凶、水原征爾だった。 「水原……。久しぶりだな。けど、外に出よう」  まだ着替えていなかったことを幸いに、私は車のキーを手にとって靴を履いた。背後では妻が娘を手招きする声が聞こえていた。 2.  水原征爾は、私の昔の部下だった。  私が課長になりたての頃、高卒新人として入社してきた。最初は営業部に配属されたのだが、鼻っ柱が強く、営業部長とやりあい、私がいた現場にまわされてきたのだ。当時の私の部下は、四人。小さな印刷会社の生産管理部で、彼は久しぶりの新人だった。  うちの会社で最初に営業に配属されたということは、会社としては期待度が高かったということだ。にもかかわらず配属先になじむことを拒否し、部長と喧嘩をして飛ばされた新人など、どれだけ面倒な男なのだろうかという暗澹たる気分で、私は彼のこの部署初出勤の日に臨んだ。  ところが、やってきたのは好青年としか形容しようがない男だった。  嫌なことは嫌、できないことはできない、とはっきりモノをいう。だが、きちんと向き合って何故その仕事が必要かを説けば、仕事のやり方を丁寧に教えてやれば、彼は完璧に仕事をこなした。  営業部長は体育会系、軍隊方式で「仕事は体に叩き込め、体で覚えろ」が口癖の、古いタイプだ。彼とはソリがあわないであろう事は、すぐにわかった。ルックスのよさから女子社員にも人気があり、そういうところも「ちゃらちゃらしている」と受け取られたのだろう。  だが、私と彼は気が合い、いつしか彼は生産管理部になくてはならない存在となった。 「ご無沙汰してます。お元気そうで、何よりです」  車に乗り込むと、彼は手にしていた紙袋から菓子の箱を出して、後部座席に置いた。 「これ、東京で今人気のロールケーキです。俺は甘いの、だめなんで食べたことはないんですが、事務所のスタッフとかみんなおいしいって言ってますから、奥さんとどうぞ。あれ? 課長、結婚されてましたよね」 「してるよ。さっき玄関で応対したの、誰だと思ってるんだよ」  私は苦笑して、彼が東京へ行ってすぐに結婚したことを話した。ついでに、今はもう課長ではなくて事業部長なんだが、と言おうとして、その言葉をひっこめた。 「ちょうど、水原のライブ放映を娘が見てたとこだよ」 「ああ……。クリスマスイブのアリーナライブ」  彼はそのライブのことを思い出したのか、感慨深そうに吐き出した。 「CD買ってきたりしてさ、水原にはうちもずいぶん散財させられてる」  ハハ、と彼は力なく笑った。 「よかった、課長はきっといらないと思ったんですけど、一応と思ってCDとブルーレイ、持ってきたんです。よければお嬢さんに差し上げてください」 「バーカ、お前、最新アルバムを娘はついこないだ買ってきたばかりだって。遅いんだよ、水原」 「じゃあ、サインでもしておきましょうか」 「それがいいや。ダッシュボードにサインペン入ってるから、それ使え」  上司命令だ、というと彼は了解です、と笑った。菓子が入っていた紙袋から、CDとブルーレイを取り出し包装を外す。ダッシュボードから出したサインペンで、ジャケットにサインをしている。  私は、彼が故郷に帰ってきたら連れて行こうと思っていた場所へ、車を走らせていた。  田舎の夜道は暗い。国道であっても、パチンコ屋や食べ物屋がある場所を過ぎると途端に心もとない街灯だけの薄暗い道になる。十二月になってから降った雪が、国道脇の田んぼに落されて黒く山になっている。時折すれ違う対向車のライトにまぶしそうに目をしかめて、サインを終えた彼は窓の外を眺めていた。 「帰ってくるの、何年ぶりだ?」 「十六年ぶりです。東京行ってから、一度も帰ってきてないから」 「そうか、ご両親、お元気なのか」 「ええ、おかげさまで。両親ともに今は東京にいます」 「それなら、里帰りってわけでもないよな。なんでまた突然帰ってきたんだ」 「少し疲れたから……。ですかね。走り続けてきて、この年になって急に一度立ち止まってみたくなって。そしたらなんだか、課長とかみんな元気かなって突然故郷が恋しくなったんです」  当たり障りのない会話を続けた。私は彼がいつ「その」話をするか待っていた。こちらから会話の口火を切ってやれるほど、私も人間ができていないということだ。 やがて、彼が言いにくそうに口を開いた。 「課長……あの、彼女は……」 「――死んだよ」 「え」  紙袋の中には、ロールケーキの箱とCDとブルーレイがもうひとそろえ入っていた。それを見逃さなかった私は、単刀直入に真実を告げることにした。 「鏑木杏子(かぶらぎきょうこ)。死んだよ。もう十年経つな」  彼を含めて五人いた部下の紅一点の名前を口にするのは、十年ぶりだった。 3.  彼女が死んでから、誰もが、彼女のことは心の奥底に封印していた。次に彼女の名前を口にするのは、彼女の思い出を語るのは、彼が帰郷した時だ。私たち四人と、彼女の学生時代の友人という女性数人だけのちっぽけな葬儀の後、誰からともなく言い出して、決まった。  彼女が時折ふらりとやってきては酒と少しの肴を頼んでいたという、屋台に毛が生えたような小さな店に、葬儀帰りに立ち寄った。北陸の寒い冬の、冷たい風が入り口の引き戸を叩くと店全体が揺れる、そんなうらぶれた店だった。私たちは彼女のために、彼女が好んで飲んだという日本酒を頼んだ。 「そうか、死んじまったかい。いつかはこうなるんじゃないかと思っていたんだ」  店の親父も彼女のことを覚えていて、酒をもう一本、つけてくれた。弔い酒だ、飲んでやってくんな、とぽつんとこぼして、親父はしばし天井を見上げた。  私たちは言葉もなく、ただコップ酒を口に運ぶだけだった。彼女が好んだぬる燗の酒が喉を通っていくたび、彼女の思い出がこみ上げてきて、泣けた。 「あいつには、知らせないんですか、課長」 「知らせてどうするんだ。杏(あん)も、黙っていて欲しいと思ってるさ」 ――あんこって言われてからかわれたから、嫌なんですよね、この名前  彼女が嫌がったその呼び方が結局、会社での彼女の通称になってしまった。あんこ、あん、と呼ばれて誰からも好かれていた。名前の通り、あんずの花のように肌が白かった。甘さと酸味が共存するあんずの実同様、ロマンチックな少女の顔とさばけた姉御の顔を兼ね備えた女性だった。 「なんでこんなことに……。課長は知ってたんですか? 杏が風俗してたなんてこと」 「――知ってたよ。風俗で働いてたことも、薬やってたことも」  課員の責める視線が突き刺さった。何故止めなかった、何故しかるべき措置をとらなかった、何故、何故。みんなが言いたいことは、無言だったが痛いほど伝わってきた。 「力不足だ、すまない」  私は何度も止めたし、何度も病院へ送った。けれどそのたび、彼女は逃げ出した。私が説得しに行くたび、彼女は笑って言うのだ。 ――いいんです、今、幸せだから  こんなになってなにが幸せなのだ、と私は怒鳴った。私の人生の中で、こんなに腹が立ち、こんな調子で怒鳴り、そしてこんなに自分の無力さを感じたことはなかった。  風俗でたぶらかされたチンピラの情婦として、六畳一間のアパートで暮らしていた彼女は、男に殴られた痕を隠そうともせず、テレビの画面を見つめ、安っぽいドレスの肩紐をたくしあげていた。彼女のこの現実の、いったいどこに幸せがあるのか、私には理解できなかった。  そして悔しかった。みんなに愛された彼女が、しみったれた安っぽい女に成り下がってしまったことが。できることならもう一度、昔の彼女に戻って欲しかった。そしてやり直して欲しかった。そのための援助なら惜しまないつもりだった。 ――いいんです。私、今、幸せなんです  そうやって再び笑う彼女の瞳には、弱々しいながらも、光があった。光の元が何なのか、私にはわからなかった。  そのうちにチンピラが酒の匂いをさせて戻ってきて、私を見つけると彼女を殴りつけた。俺以外の男を引っ張り込むんじゃねえよ、とかそんなことを叫びながら、乱暴に彼女を裸にむしっていった。男女の甘く重い匂いが部屋にたちこめた。帰らなくてはと思いながらも、私の足は硬直して動かなかった。怒りと悲しみと少しの侮蔑の気持ちとそれに対する自責の念が入り混じって、どうにもならなかった。  ふいに、それまで生気のない目で男に組み敷かれていた彼女が微笑んだ。その顔にぞっとして、彼女の視線の先を見ると、水原征爾がステージに立ち歌う準備をしていた。テレビから彼の歌声が聞こえてくると、彼女はそっとまぶたを閉じた。  私は必死の思いで動かない足を床から引き剥がして、嘔吐しそうになりながら家に帰った。  もう彼女が現在を生きていないことを知った私は、それ以上彼女が麻薬に溺れていくのを止めることはしなかった。彼女の中で張り詰めていた糸が、彼が夢をかなえた瞬間にぷつりと切れたように、私と彼女をつないでいた上司と部下という糸も、切れたのだ。  いや、とっくに彼女のほうでは切っていたのだろう。そういえば、彼女が退職したのは、彼が俳優としても歌手としても時代の最前線に躍り出た年の終わりだった。その時にはもう、彼女は私たちとの縁を自ら断ち切る決心をしていたのだ。そして、こんな死に方をすることも覚悟していたのだろう。  小さな箱に納まってしまった彼女の骨は、焼いた後、ほとんど残らなかった。かろうじて残っていた灰のような骨を、私たちはかき集めて骨壷に入れたのだった。麻薬中毒だったから仕方ないとはいえ、あまりに小さく、あまりに軽い彼女の最期の姿は、私たちの涙を誘った。 「杏の骨、どうします」 「母親がいるらしいから、渡してくるさ」 「葬式にも来ない母親ですよ?」  本来なら喪主を務めるべき人物である彼女の母親は、結局通夜にも葬儀にもこなかった。電話をしても出ない。母親としての責任から逃げたのだ。仕方なく私が喪主として、彼女を送り出した。 「けど、母親は母親だ。その事実は変えられない」  私はそう言ったが、本音はもちろん行きたくなかった。わびしい葬儀を終えた後、ワケありに違いない彼女の母のワケを見たくない。だが、行かないわけにはいかないだろう。それに、彼女の母に会いたくない一方で、私は彼女の骨を自分の手元に置いておきたくなかった。 「知らせないっていうことで、いいんですよね」  最初に知らせないのかと訊いた男が、再び言った。 「あいつが帰ってきたら。帰ってきて、もしも誰かを訪ねたら、その時に知らせよう」  私はそう言って、コップの酒を飲み干した。すきま風のせいでコートを脱ぐこともできない店の空気で、コップの中の酒はすでに冷え切っていた。 4.  後日、私は彼女の遺品を母親に渡そうと、警察から受け取った遺留物の中にあったキーホルダーを手に、チンピラの部屋に向かった。二本ぶらさがっている鍵のうちの一本を差し込もうとしたが、合わなかった。もう一本を使うと、安普請のドアは軽々と開いた。チンピラは、彼女の死亡と同時に麻薬売買の罪で逮捕されていたため、部屋には誰もいなかった。  遺品らしい遺品も見つからなかった。クレーンゲームの景品のぬいぐるみや、腕時計、めがねといった日用品を紙袋に入れ、私は押入れを開けた。薄い布団が押し込んであり、彼女とチンピラの衣服が透明のケースに詰め込まれていた。そのケースを押入れから出し、中を開けてみたが、ぺらぺらの生地の安っぽい服、派手な柄の品のない服ばかりで、それを遺品として母親に渡すのはためらわれた。ケースをもう一度押し入れにしまおうとして、その奥にまだもうひとつケースがあるのを発見した。こちらは透明ではなく、中身が何か外からはわからなかった。  興味がわいて私はそのケースの引き出しを開けた。中には、彼女が私の部下だった頃に使っていたさまざまなものが収められていた。印刷の技術解説本や文房具、古いチラシ、同じく古いカタログの見本。水原征爾が最初に手がけたチラシと、退職する寸前に作ったカタログだった。  陽に焼け古びて変色したチラシをケースから取り出すと、その下に写真集があった。「水原征爾ファースト写真集」、彼が売れ出した頃に唯一出した写真集だった。ファーストがラストになったわけだが、そのせいで今ではかなり値が張るものになっているらしい。娘がネットオークションで落札したい、とわめいて、妻と喧嘩になったほどの金額だ。  おそるおそる私は写真集を手に取った。もう一冊、同じものがその下から出てきた。一冊は新品同様に包まれたまま出てきた。そしてもう一冊、一番下にしまわれていた方は、紙にしわが寄っていた。手垢と、涙に濡れたせいだというのは、すぐにわかった。  表紙で笑う水原征爾の顔は、カッターで切り刻まれている。裏からセロテープで補修してあるが、テープのせいで紙はさらによれ、ひきつけを起こしたような顔になっていた。表紙を開くと、古ぼけた写真がひらりと落ちた。この街にいた頃の彼の写真だった。彼女の部屋で撮られたと思しい写真の中の彼は、彼女だけを見つめて、まっすぐ彼女に優しい視線を送っている。今では日本中の女性を夢中にさせている写真の男は、この時は間違いなく、彼女のものだったのだ。ケースの底をよく見ると、乱暴にハサミで細かに切られた彼の写真が大量にあった。どれもこの街にいたときに撮られた写真のようだった。  色あせて細切れになった写真には、彼と彼女が仲良く暮らしていた頃の思い出がつまっていた。それを全て切断しひねり捨てようとした彼女の姿が、目の前に浮かび上がる。他にもそのケースには、彼のアルバムやシングルCDが紙袋にくるんで入れてあった。 「ばかやろう、杏。お前は本物のばかだ」  押入れの一番奥のさらに奥に、封印されている水原征爾。  私は恐ろしくなって全てをケースにしまい、部屋を出た。  外に出てドアに鍵をかけ、やっと息をついた。それから私は彼女の母親のところへ紙袋の遺品を持っていった。 「怖くて……。すみませんでした」  スナックを経営しているという母親は、自分と同じ道に踏み込んでしまった娘の成れの果てを見るのが恐ろしく、どうしても足が動かなかったのだと言った。骨壷と位牌、そして紙袋ひとつの遺品を抱きかかえ、母親は化粧が落ちることも厭わずに泣き始めた。私は黙って母親の元を辞した。  それで、私と彼女をつないでいた最後の糸が切れた。  そこからの十年間、私も私の元部下たちも、水原征爾と鏑木杏子の記憶を封印して暮らしてきた。私は、毎年初めに雪が降った夜だけは、彼女のために酒を飲むことにしていた。ぬる燗の酒と少しの肴だけを供にして、ひとり飲む。彼女の記憶が薄れないように。彼に、彼女のことを伝えるまでは、記憶を保っておかなければいけない、それが私の義務だと思っていた。 「やっと来てくれたんだな」  助手席の男を見て、私は言った。  最初に会った十代の頃からまったく変わらない若さを保っている彼は、外の暗闇を見つめていた。助手席のウィンドウには彼の横顔が映っていた。娘が目を輝かせて見るテレビの中の水原征爾ではなく、突然過去と遭遇してどんなことを思えばいいのかわからずに戸惑っているひとりの男の横顔だった。 5.  私は、彼女が最後に倒れていた公園に彼を連れて行った。ブランコと、滑り台、砂場、いくつかのベンチ、花壇があるだけの、小さな公園だ。 「あのブランコのところで死んでたそうだ。あの日はちょうど、前の晩からすごい雪でな。杏の遺体の上にも雪が積もってたらしい」  ブランコに座っていたと思われた彼女は、地面に落ちて死んでいた。冷たく固い土の香りを、最後に嗅いだだろうか。降り積もる雪の重さを、最後に感じただろうか。  何を思いながら彼女は死んでいったのだろう。はかなく消えゆく自分の命の軽さを哂っていたのだろうか。それとも、待てど来ない男の夢の話を、虚しく思い出していたのだろうか。 「結婚するって、連絡あったんです」  彼女が死んでいたブランコが見えるベンチに、ふたりで座った。 「デビューしてからも、すぐには生活が楽になるわけではなくって、しばらくは杏子が金を送ってくれてて、すごく助かってたんです。けどドラマに出て、そこからは仕事も増えてきたんで、俺、もう金はいらないって言おうと思ってたんです。正直、その頃は女優とかモデルとかと恋愛したり、遊んだりしてて、杏子の存在が疎ましくって」 「そんなところだろうと思ってたよ」  彼の出世作となったそのドラマは、私たちは当然、毎週見ていた。主演ではないものの二枚目のおいしい役で、そこから彼は俳優としても歌手としてもスターダムへの道を歩み始めることになる。  毎日の昼にやっているバラエティショーに出ている彼をテレビごしに見て、誰かが、いつ水原は杏を迎えにくるんだ、とテレビを消したのを覚えている。  けれど誰しもが、もう彼は違う世界にいってしまったとわかっていた。たとえ彼女と約束をしていたとしても、彼女を迎えにくることはないのだ、と。シンデレラストーリーは鏑木杏子のものではなく、他の女のものなのだ、と。そして彼女を迎えにこないからといって、誰も彼を責めないだろうということも、みんなわかっていた。 「別に誰もそのことでお前を責めたりしない。当たり前だと思ってる。生きる世界が変わってしまったんだから、当然だ」  彼は乾いた笑みをもらし、息を吐いた。 「杏子から、結婚するからもう金は送れないし、もう連絡もできないって電話があった時、俺、よかったって思ったんです。ちょうどよかった、って。どこの誰かわからないけど、誰かいい人と結婚して、幸せで暮らしててくれればいいって。とにかく、杏子と縁が切れて、肩の荷がおりた感じだった。でも、今まで帰ってこなかったのは、忙しかったせいもあるし、親を東京に呼び寄せたってこともあるけど、多分、彼女が幸せにしている姿を見たくなかったからなんでしょうね。俺に一度でも惚れた女が、俺以外の男と幸せにしているなんて、許せない気持ちがどこかにあったんだと思います。うぬぼれてるでしょう、でも、あの頃の俺は、そんな感じだった」  自嘲する彼の肩に、雪片がはらりと落ちた。奇跡的に朝から晴れていたが、夜になってやはり雪が降り始めたのだ。正直な気持ちを吐き出す彼を、雪が見つめていた。 「お前がそのドラマ出てる頃だな、杏が会社辞めたの。安心したんだろう、もうお前は大丈夫だって」 「そこからは? 結婚したんじゃないんですか」 「したさ。やくざにすらなりきれない出来損ないのチンピラと」  彼の肩がぴくりと震えた。私は彼のほうを見ないようにして、話を続けた。 「あとはお決まりのパターンだよ。初めのうちはクラブ勤めだったのが、だんだん怪しい店に移っていって、最後の最後はとどのつまりのソープランドだ。稼いだ金は男に全部持っていかれ、殴られて顔は変形し、何度も堕胎を繰り返し、痛みや苦しみを忘れるために麻薬に溺れ……。そこで死んだ」  私は目の前のブランコを指さした。  彼が上に昇るごとに、彼女は下に堕ちていった。  彼女の短い人生の話は、たったこれだけで終わる程度のものだった。もっとも、普通の人の人生など、そんなものだろう。誰しもが、生まれ、そして死んでいく。ただそれだけだ。 「けど、幸せだと言っていたよ。間違いなく、杏は、幸せだと言ってた」 「――その男といられて?」 「アホか、水原」  私は立ち上がり、彼をベンチから突き飛ばした。うっすらと白い膜がはりはじめた公園の地面に、彼は手をついた。 「後悔からでもうぬぼれからでも、たとえ自虐だとしても、とにかくそんなことを言うんじゃない。杏の幸せは、お前の成功だけにあったんだぞ。俺は言ったんだ、杏に。水原はもう杏を迎えになんかこない、約束を交わしていたとしたって、そんなもんはとっくにあいつは忘れてる、だから杏も水原のことなんか忘れて自分が幸せになることをしてくれ、ってな。そしたらなんて言ったと思う? 約束なんかしてない、って言ったんだぞ。迎えなんか、期待してないし来なくていいって言ったんだって。ただ、夢を諦めた自分の代わりに、彼が夢を追いかけて成功してくれることが、嬉しいって、笑ったんだ。お前の成功を見届けたから、もういいんだってさ。こんなの、今どき昼メロにだってない、昭和の四畳半の世界だぞ」  一気にまくしたてた。私の吐く白い息を見ながら、彼はポツン、と言った。 「俺、今、瀬戸際なんです」  ここのところ俳優業に軸足を置いて活動していたが、主演として出たドラマが軒並み低視聴率に終わり、映画もコケ、バラエティやトーク番組に出てもパッとせず、オファーが減ってきているのだという。週刊誌の記事で読んだことを彼は自らの口で語った。 「どうしていいかわからなくて、逃げたくなって……思い出したのが、ここでした」  それで、年内の仕事が終わった瞬間に切符を買ってここまできたのだと。  都合のいいことを言うな、そう言って彼を責めることもできた。だが私にはそれはできなかった。私の前にいるのは、テレビの中でステージの上で輝いている芸能人の男ではなく、営業部を追い出されて打ちのめされ傷つき自信をなくしたあの日の新入社員の青年だった。  あの時は鏑木杏子という存在が彼を癒やし、立ち直らせた。同じように自信を無くしかけている今、彼がもう一度彼女にすがろうと思ったとしても不思議ではない。むしろ、よくぞ思い出してくれたと言うべきところなのかもしれない。 「俺にはお前のいる世界のことは全くわからない。昔のように解決策を出してやることも、手助けしてやることも、励ましてやることすらできない。だけどな水原――」  私はポケットのキーホルダーを取り出し、鍵の束から鍵をひとつ外した。それを彼女が最期の場所に選んだブランコに置いた。 「お前の夢も成功も、鏑木杏子っていうひとりのちっぽけな女の人生の上に成り立ってるんだ。駆け上がるなら、行き着くところまで行けよ。杏が愛したお前なら、行けるだろ、てっぺんまで。お前は望む夢を全部かなえてからじゃないと、あの世へは行けない。それまでは何があってもこの世に踏ん張って、あの世に、杏に会いに行くな。ひとつでも夢を残したままだったら、あの世で杏に笑われる。だから、頑張れ。弱音ならいつでも俺が聞いてやるから、弱音を吐いたらまた頑張れ。杏の分まで、お前は頑張る義務がある」  彼女の死で彼を縛ることはやめようと思っていたのに、やはり実際に会ったら、彼を縛る言葉を投げつけていた。だがこれで彼が本当に、死んだ彼女の分までもっと上を目指してくれればいいと思った。それくらいは、実際に命を燃やし尽くしてしまった彼女のために、やってくれてもかまわないだろう。 「今、ブランコにおいたのは、杏が最期まで持ってた鍵だ。多分、お前と一緒に暮らしてた部屋のコピーキーだろう。東京に行く時にお前が置いていったのは、その鍵とお前の夢のかけらだ。一緒に連れて行ってやってくれよ、杏を、お前の夢見た頂上ってやつに」  それは二本あった鍵のうち、当時の住まいの鍵穴には合わない鍵だった。事情を話して彼女の母親の部屋の鍵穴に試しに差し込んでみたが、案の定合わなかった。それではどこの鍵かと頭をひねった結果、思い浮かんだのは水原征爾の顔だった。  彼の嗚咽を振り切って、私は車に戻った。  次に彼に会うのはいつになるだろうか。だが、次こそは笑って酒を飲めるような気がした。  いや、次に会うのは私の葬式かもしれない。それでもよかった。そうしたら、私よりも若いくせに私よりも先に天国へ逝った彼女に苦言を呈して、ふたりで彼が夢をかなえる様を見ればいい。ひとりだけまだ地を這っている彼を笑い、少しだけ羨みながら、そして懐かしむのだ。もう二度と戻れない故郷と、私たちの人生が重なり合っていたわずかな時間のことを。その時間の中では、水原征爾は私たちのそばで、故郷の風に吹かれて、私たちと笑いあっているのだ。  彼が、ブランコに近寄っていくのをウィンドウごしに私は眺めた。  雪は彼を白く染め、暗闇のはずの夜の公園を、ほのかに照らしていた。 6.  あの日、工場に着いたのはすでに昼休みの時間だった。俺はいつも昼を食べに行っていた蕎麦屋に向かう。案の定、彼女はその中の一番奥の席にいた。  夢のしっぽをようやく掴んだ俺は、自分のキーホルダーに下げる鍵が変わったと話すためにここにきた。だが、なんと切り出せばいいのかわからなかった。 「また蕎麦? よく飽きないよなあ」  彼女が食べていた蕎麦に七味をふりかけ、俺は彼女の箸を奪って底に残った最後の蕎麦を食べた。彼女は何も言わずに煙草を取り出し、火をつけた。 「煙草も、体によくないって」  紫煙がたちのぼる煙草を、彼女の指の間から奪い取った。一瞬触れた彼女の手は、がさがさに荒れていた。気づかないふりをして俺は奪った煙草をふかした。 「もう、セイちゃんはいつもそうなんだから」 「そうってなんだよ、そう、って」 「いつもあたしが持ってるものを取っていくじゃない。なんだってあげてるのに」 「杏子の持ってるものは、どれもいいものに見えるんだって」 「嘘ばっかり」  新しい煙草を取り出して、また彼女は火をつけた。  俺たちは煙草を口にくわえて、会話を避けた。この会話の行く先は、ふたりが別れる結果にしかならないのが見えていたからだ。 「煙草、吸いすぎだよ、杏子」 「ほっといて」 「ホントだって。いっつも昼メシは蕎麦だし、煙草ばっかり吸ってるし、酒は飲むし、少しは気をつけたほうがいいよ」 「いいの、ほっといてよ」 「ほっといていいのかよ」 「いいって言ってるじゃない」  やがて煙草も灰だけになり、ふたり同時に灰皿に煙草を捨てた。俺は煙草をねじっている彼女の逆の手の中に、彼女のアパートの鍵を入れた。冷たい金属の硬さを手の平に感じたのか、彼女は薄く唇を開き、息を呑んでまぶたを伏せた。 「もう最低。お昼もとられちゃうし、煙草も最後だし。セイちゃんがいるとロクなことにならない。だからもう、東京でもどこにでも行っちゃいなよ」  俯いたまま、彼女が呟いた。とくん、と俺の心臓が鳴った。 「わかったよ。お望みどおり、行ってやるよ」 「はいはい、バイバイ」 「つれないこと言うなよ」 「――あのね、セイちゃん」  彼女は、俺が手の中に入れた鍵を、ポケットから取り出した自分のキーホルダーにつけながらいった。 「夢を全部叶えるまで、帰ってこなくていいから。ううん、全部叶っても、あたしのところには帰ってこなくていいから」  するりと鍵がキーホルダーのわっかに納まり、金属音がかすかにした。小さく口の端だけで微笑んで、彼女はキーホルダーをポケットにしまった。  蕎麦屋の鳩時計が、ひとつ鳴いた。 「もう……行かなくちゃ」  煙草のケースと財布を持つ手が少しだけ震えていたように思えた。俺に背を向けて金を払っている彼女の背中が、妙に遠く見える。 「杏子」  店を出て行こうとする彼女の名前を、俺は呼んだ。  彼女が振り向いた。  俺が最後に見た彼女の姿だった。 7. 「お父さん、この映画のブルーレイ、買いたいなあ」 「お前、お父さんの反対を押し切ってやってるバイトのバイト代あるだろ。それで買いなさい」  高校生になってますます父親を無視するようになった娘が、珍しく私の帰りを待ち構えていたと思ったら単なる金づる扱いとは。空しくなって私はすげなく断った。 「水原征爾が賞を取った作品だよぉ、お父さんも見たいでしょ」  ほらこれ、と映画館でもらってきたA4フライヤーを私に見せる。 「あとね、このCDもね」  デビュー二十周年記念ベストアルバムのフライヤーまでちゃっかり私の手の中に入れて、手を差し出した。 「その手はなんだ」 「お・か・ね」 「だからバイト代で買えよ」 「ハァ!?」  もったいぶって、私は鞄の中から、娘が欲しがっているCDとブルーレイを取り出す。水原征爾のサイン入りだ。 「えっ? サイン入り? やったあ! やるじゃん、お父さんサイコー!」  調子のいい娘の声を背に、部屋に戻ってネクタイを外し上着をハンガーにかける。 「杏。あいつ、頑張ってるぞ」  娘の部屋から、大音量の水原征爾の歌声が聞こえてきた。  記憶の中の彼女はいつだって微笑んでいる、というフレーズを聞いて、私は彼女にささやいた。  私の記憶の中の彼女も、いつだって微笑んでいた。そして微笑む彼女の隣には彼がいた。彼女の微笑みを独り占めし、彼女の微笑みの源になっていた彼が。  鞄の中にはもうひとそろえ娘に渡したものと同じものが入っている。  日曜日の天気予報は、雪の合間の快晴のはずだ。  今度の日曜日、彼女の墓に届けよう。その時は当時の部下たちも誘っていこう。そう決めて、私はリビングに戻った。                                      ――了   
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