花の匂ひ 後編

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花の匂ひ 後編

 探偵は、フンフンと鼻を利かせてスチュワードの匂いを辿った。 「ここの家につながっている」  そこは、ビクトリア朝建築の広大な洋館。 「なんてお屋敷だ!」  探偵も吃驚の大金持ち。  表札には、『綿鍋』と書かれている。 「メン……ナベ?」  広大な庭には様々な植物が植えられて、花が咲き乱れている。  この中にスチュワードが記憶する匂いがあるのだろうか。 「ワンちゃん探偵さん!」  後ろから女の子に声を掛けられた。  マダムのパフィちゃんにチョコレートを食べさせた子だ。 「お嬢ちゃん、また会いましたね」 「名前は真琴だよ。ワンちゃん探偵さん」 「それは失礼した」  探偵は、ダンディーに片膝をついて首を垂れる。 「真琴ちゃん、あっしの名前は藪やぶ犬ですぜ」 「藪ちゃん、この家に用があるの?」 「ああ。この家のこと、何か知っているかい?」 「ここにもワンちゃんがいるの。とっても大きくて強そうなの」 「それは、こんな顔かい?」  スチュワードの写真を見せると、「そうそう」と頷いた。 「そうか。ありがとう。とても助かった。これでスチュワードも家に帰れる」 「このワンちゃんの名前は、権太だよ」 「スチュワードじゃない?」  どういうことだろうかと考える。 「本当に権太?」 「そうだよ」 「疑問解消のためにも、家人に話を聞かなけりゃなりませんね」  呼び鈴をならすと、出てきたのは家人ならぬ華人だった。  レース編みのロングワンピースをお召しになり、髪はアップにセットされ、長い首元には真珠のネックレスが三重に掛かっている。  探偵は、丁度パーティーにでも出かけるところだったのだろうかと考えた。 「何か御用ですか? あいにく、家令が留守なもので、ワタクシに分かるかどうか分かりませぬが」 「一つだけ質問があります。この人を知っていますか?」  スチュワードの写真を見せるが、令夫人は表情を全く変えない。 「うちの家令ですね」 「さきほどからおっしゃっている、家令というのは?」 「使用人の事です」 「使用人と言えばいいのに」 「ただの使用人とは立場が違いますので、使い分けております」 「この人の名前を教えてもらえますか?」 「あなたは、誰ですか? なぜうちの家令の写真を持っているのですか?」  とうとう、怪しまれた。 「交通事故にあって、記憶喪失になってしまったんです。覚えていたのはスチュワードという名前のみ。あと、匂い」 「交通事故で記憶喪失に?」  さすがに驚いている。 「それで、うちで世話をしています。この家の使用人ということも忘れています。引き取ってもらえますか?」 「優秀なスチュワードですからね。記憶を取り戻してもらわないと。我が家の財産管理も任せているのですから」 「スチュワード!?」 「ヒエ!」  急に大声を出したので、さすがに令夫人もこれには吃驚して表情を変えた。 「あ、失礼。名前はスチュワードでよろしいんですね。じゃあ、間違いなく本人だ」 「違うよ、権太だよ」  横から真琴が口を出す。 「どうなんですか? メンナベさん」 「ワタナベです」  ピシッと言い直された。 「綿と書いて、ワタと読みます」 「失礼しました。ワタナベさん、この人の名前は、権太ですか? スチュワードですか?」 「スチュワードは役職名。執事のようなものです。バトラーと呼ばれる執事より階級は上ですけど」 「ああ、そうか。よくわかりました。スチュワードは、スチュワーデスと同じ意味だ」  かつて航空機の客室乗務員をスチュワード、スチュワーデスと呼んでいた。  現在はキャビンアテンダント、キャビンクルーと呼び変えられているため、世の中から忘れかけているが。  探偵がスチュワードを綿鍋家に連れてくると、記憶は戻らなかったものの、夫人の匂いを覚えていた。 「ああ、この匂いだ。記憶の底に残っている……」  スチュワードは、夫人の前にゆっくり歩み寄ると片膝をつき、左手を胸に当て、右手を(うやうや)しく夫人の前に差し出して忠誠を誓うポーズをとった。 「私は、あなた様の忠実なる下僕です」  たとえ記憶がなくても、夫人の前に来ると体が自然と動いてしまう。  それこそが動かぬ証拠。  夫人は、彼の右手をゆっくりと下から取った。 「おかえりなさい、スチュワード」  ケーナは、(世界一美しいお手のポーズ!)と、心から感動した。  こうしてスチュワードこと権太は、綿鍋家に戻っていった。  ひき逃げ犯については、綿鍋家が被害届を出したことで警察が捜査を開始し、すぐに捕まった。  出頭しなかった言い分は、『犬を轢いただけだから』だった。  警察の取り調べでも、『犬を轢いただけで捕まるのはおかしいだろ!』と、素直にならず騒いだそうだ。
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