花の匂ひ 前編

1/1
56人が本棚に入れています
本棚に追加
/100ページ

花の匂ひ 前編

 ここは、ゴールデンレトリバーの頭を持つ藪やぶ犬の探偵事務所。  助手ハムスターのケーナは、帳簿の赤字を見ながらため息をついた。 「ハァ~。今月も赤字です」  探偵は、タピオカミルクティーを吸いながら言った。 「そんな湿気た顔だと、運気が下がるぞ。ズー……ズズー……」 「なんとかしてくださいよ。全然、依頼がないじゃないですか。このままでは、どこかに働きに行かないとならないですよ」 「ケーナが食べすぎなんじゃないか?」 「最近はヒマワリの種しか食べていません! それも、河川敷で自生しているヒマワリから集めているんです! 師匠が食べすぎなんです! 次の依頼が来るまで、タピオカミルクティー、禁止!」 「そんな……」  探偵はショックを受けている。 「師匠、何か収入源を考えてくださいよ」 「あっしは、探偵以外のことはしないんです」  ダンディーに副業を拒否する。 「恰好つけても、お金になりません!」  ケーナは、プンプンと怒った。 ――ドーン!  外で衝撃音がした。 「今の音はなんでしょう?」  ケーナが先に様子見に外へ出ると、フルスピードで車が走り去るのが見えた。  そして、道路にスーツの男性が倒れている。 「キャアアア!」 「事件か!?」  ケーナの悲鳴に探偵が飛び出てきた。 「ひ、ひき逃げ!」 「なに!?」 「大丈夫ですか!」  倒れているのは、シベリアンハスキーの頭を持つ青年だった。 「この人! 師匠のお仲間ですよ!」  探偵は、青年の顔を覗き込む。 「知らない顔だが?」 「同じ犬人間じゃないですか! お仲間でしょう?」 「そうとも言えるが、そうとも言えない」 「ウ……、ウウ……」  シベリアンハスキー青年はうめいている。 「とにかく、救急車だ!」  救急車を呼んで、二人は付き添った。  病院で手当てを受けた青年は、ベッドの上で意識を取り戻した。 「助けていただき、ありがとうございました」 「命に別条がなくてよかった」  骨折もせず、内臓も損傷なし。全身打撲と診断された。  退院も痛みが取れれば可能とのことだった。  ケーナは、ベッドに寝ているシベリアンハスキー青年をまじまじと見て、凄いイケメンだと驚いた。 (イケメンだ!)  黒と灰色の毛並み。灰色がかった青い瞳、シュッとした口元。ピンとした立ち耳。ニヒルな顔立ち。すべてがセクシーで、ハムスターのケーナでもゾクゾクする。 「あっしは、探偵の藪やぶ犬。こっちは助手のケーナ。君の名は?」 「私の名? ……ああ、ダメだ。思い出そうとすると頭痛がする……」  青年が苦悶の表情になる。それもまた、格好いい。 「もしかして、記憶喪失?」 「そうかもしれない。何も、思い出せない……」  困った顔もイケメン。 「頭を強く打ってしまったか」  これでは、身内に連絡できない。  探偵も困り顔。 「君はひき逃げされたんだが、何も覚えていないか……」 「そうだったんですか。何が起きたかも覚えていなくて」 「そうか……。引き取り手がいないとすると……」 (まさか?)  ケーナは嫌な予感がした。 「君、よかったら記憶が戻るまでうちの事務所にこないか?」 (やっぱり! 今朝、赤字だと話したばかりなのに!)  それは、お金が掛かると言うことだ。 「いいんですか?」  青年は、少し明るい顔になった。 「君の身元がわかるまでは面倒みよう」  そんな余裕などないのだが、探偵はお金に無頓着。ケーナがやりくりするしかない。  頭の中で銀行残高を計算した。 (足りるかな……)  ちょっと、不安。  まだまだ当分の間、自分はヒマワリの種でしのぐしかない。いや、アサガオの種も追加で。 「何か思い出せることはないかな?」 「花の匂い……」 「花?」 「はい。フローラルの匂いを覚えています。甘い香り……。いつもその香りがそばにあった……」  記憶が匂いとつながっている。 (やっぱり、犬ね)  ケーナは感心する。 「少しずつ、思い出していこうじゃないか」 「ありがとうございます」  青年は、精一杯感謝した。 「君をなんて呼べばいいかな」 「……スチュワード」 「名前を思い出したか?」 「スチュワードと呼ばれていたような気がしますが、確信が持てません……」  不安げな顔。 「充分だ。あっしたちも君をスチュワードと呼ぼう」 「わかりました。それで結構です」  日本人離れした名前だが、彼にはとても似合っていて違和感がない。 「やっぱり名前があると、違いますね。落ち着きます」  あやふやな存在だったものが、名前によってしっかりする。  スチュワードはベッドから降りた。 「さっそく退院します」 「もう?」 「無一文なので、のんびり寝ていられません。体は動きますから。事務所のお手伝いをさせてください。ただ飯を食べるのは、どうも落ち着かない」  イケメンなだけでなく、働き者の好青年。好感度がグッと上がる。  入院治療費は、事務所が立て替えた。  三人で事務所に戻る。  探偵は、スチュワードの写真を撮った。 「あっしは、匂いを追ってスチュワードの身元を探してくる。ケーナは彼の面倒を見ていてくれ。まだまだ安静にしていなければならないからな。それと、丁度体格も似ているから、あっしの服を彼に貸してやりたまえ」 「承知しました」  探偵は、出て行った。  ケーナが出した探偵のスーツにスチュワードは着替えた。 「ウワ! 似合う!」  長い手足で男前。  多分、スーツでなくて何を着ても、その色気を隠せはしないだろう。 「師匠より、ダンディーになりました」 「そうかい?」  スチュワードもまんざらでもない。  モフモフの太い尻尾が左右に動いている。そこは探偵と同じだ。 「着こなしも上手。そういえば、スチュワードさんもスーツを着ていましたもんね」  スチュワードのスーツは転んだ時に擦り切れてボロボロで、もう着られそうにない。  しかし、このスーツ生地が結構高級そうなのだ。  記憶喪失でも、言葉遣いと物腰に上品さを忘れない。 (もしかして、お金持ちの人かもしれないわね)  記憶を取り戻して謝礼をたんまりもらえるといいなと、ちょっぴり期待する。
/100ページ

最初のコメントを投稿しよう!