プロローグ

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 電車の席に座ってからずっと、僕はスマホの画面を見ていたので、どんな乗客が電車に乗って来たかなんて気にしていなかった。 「痴漢! 痴漢よ!」  静まり返っていた車内に女性の声が響く。乗客は皆、声のしたほうに視線を向ける。  電車の扉の近くにいる二十代くらいの茶髪の女性が、五十代くらいの男の腕を掴んでいた。  男の伸びきった髪の毛には埃や何かの屑が絡まっていて、着ている服は元はおそらく白色なのだろうが、黒い汚れがいたるところにあって灰色に見える。襟元は黄ばんでいるし、ズボンはあきらかにおしゃれではない穴が空いている。  男に見覚えがあった。たしか三つ目の駅にいるホームレスだ。電車の窓から男がホームを徘徊しているのを何度か見たことがあった。 「ふざけんな! 俺がいつ痴漢したっていうんだよ! このクソ女! てめえの垂れ下がった乳なんか触ったって何のオカズにもなんねえんだよ!」  男は酔っ払っているらしく、頬は少し赤いし、やけに足元がふらついている。  二人の周囲にいた乗客は、関わりたくないというふうに、距離を取るために違う席や隣の車両に移動する。 「はあ!? さっきわざわざ私の前に立って触ってきたじゃない! このクズ!」  さほど混んでいるわけではないのだから、一人くらい目撃者がいてもおかしくはないが、誰一人として何も言わない。  さっきまで自己啓発本を読んでいたらしいサラリーマンは、本を持ったまま寝たふりをしているし、頑固そうな顔の老人は自分杖の先をじっと眺めているし、タイムセールにうるさそうなおばさんは忙しそうにスマホをいじっている。  僕も何も言わない。というより、これだけ近くにいながらもその現場を見ていないので何も言えない。  そして彼女、大桐一果は自分の隣でホームレスと女が言い合っているにも関わらず、熱心に本を読み続けている。  足元がふらついているホームレスは、下手くそなダンスを踊るように、よたよたとしながら怒鳴り声をあげ、そして彼女の存在に気がついた。  誰もが扉の近くから移動しているのに、彼女だけはその場で本を読み続けている。 「なあ、アンタは見ただろ? 俺はこいつの乳なんか触ってねんだよ」  ホームレスは手すりに片手をつき、もう片方の手で彼女が読んでいた本を取り上げる。そしてその赤い顔を彼女の顔に近づけて、ニタニタと黄ばんだ歯を見せる。 「なあ? 見てたよなあ!?」  彼女が一言も発さないことに気を悪くしたのか、男は怒鳴り声をあげる。それでも何も言わない大桐一果の胸に、男はゆっくりと手を伸ばした。  今まさに痴漢が行われようとしているのに、乗客は誰一人声を出さない。彼女が抵抗すると思っているのだろうか。
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