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臆病なうさぎは旦那さまと大空に飛躍する side 燈子 ①
恭介君の思い、私の思い……。
先週の日曜日に顔合わせをして、今日は土曜日。顔合わせの後、はじめての休日のこの日、私は絵筆を握ったまま、ぼんやりと宙を仰いでいた。
「……恭介君は、私との結婚を望んでいるんだろうか?」
宙を仰いだまま、小さく呟く。
けれど言葉にしてみれば、ますますあり得ないという思いが浮かぶ。
私には取柄がない。恭介君の奥様になりたいと望む女性は幾らだって列を成す。
そんな女性達の中で、私がいっとう冴えない事は、誰よりも私自身が分かっている。
十四年振りに見た恭介君の姿に見惚れた。
恭介君は私に無関心に、一心にスマホを見つめていた。だけど、秀でた額にシャープな頬のライン、整った目鼻立ちは一目で分かった。
こんなに綺麗な男性を夫として、夫婦として並び立つ未来。それを想像すれば、否応にも胸が跳ねた。
だけど過ぎった想像は呑み込んで、破談を伝えた。
肩を抱き寄せられた時には、高鳴る鼓動が胸を突き破ってしまうんじゃないかと本気で思った。
一瞬だけ唇に触れた感触の正体を思えばとても平常心でいられないから、敢えて考える事を避けている。
今、見下ろす水彩紙を埋め尽くすのは、記憶の中の恭介君の残像。
休日はいつも、朝から晩まで自室で絵筆を握っている。だけど今日は、朝から向かう水彩紙が、いまだ真っ白なままだった。
こんなのは初めての事だった。
いつだって絵筆を持てば、考えずとも勝手に筆が走っていた。何を思わずとも、これまでは手が、心を映して形にした。
……なのに今、私の心は幾重にも複雑に絡み合って、迷いばかり。そうして絡み合う思いの糸は全て、恭介君に関するそれだ。
恭介君の心は、恭介君にしか知れない。
「なら私は? 私はどうしたいんだろう……」
精一杯の勇気でもって、声高に破談を叫んだ。叫んだあの時、私は確かに本気だった。本気で、断ろうと思っていた。
だけど恭介君との縁はいまだ切れておらず、こうして続いている。こんなあやふやな状況にも関わらず、私は浮足立ち、高揚してる。
まるで体中のありとあらゆる神経が、恭介君に集中してしまったかのようだ。
絵の中は自由で、真っ白な空間を心のまま、思うままに染め上げる。それは何人にも侵させない、私だけのもの。
「だけど私の心だって、なんの制約もない自由。ならば足踏みは、臆病風……」
結婚話を断るにしても、このまま継続するにしても、選ぶのは私だ。
ガタンッ。
一向に筆の進まない、机の前を離れた。
クローゼットからジャケットを取って、肩に羽織る。
絵を描く事を諦めて、私は自室を飛び出した。
自宅を出ると、目的地もないままゆっくりと歩き出す。
だけど不思議なもので、足は自然と自宅近くの公園に向いていた。自宅にほど近いここ鍋島松濤公園は、桜の開花時期には見事な景観を臨ませてくれる。
子供の頃から幾度となく足を運んでいる馴染みの公園だ。
公園のシンボルである水車をぼんやりと眺めてから、慣れ親しんだ景観の園内を歩き始めた。
……え?
すると、向かいからあり得ない人物がこちらに向かって歩いてきた。長身のその人影は圧倒的な存在感を醸し出し、閑静な公園にはあまり馴染まないものだった。
「恭介君……?」
一目シルエットを見れば、すぐに恭介君だと分かる。間違えようなんて、なかった。
一歩、また一歩と恭介君が近くなる。
「燈子、偶然だね。散歩? 俺も少し歩きたくてね」
恭介君は手を伸ばせば触れ合えるまで距離を縮めると、爽やかな笑みでそう言った。
「あ、……はい。私も散歩に……」
答えながら、いくらなんでも偶然ではあり得ない事は、分かりきっていた。恭介君の世田谷の自宅からここまで、徒歩なら一時間はかかる。
言外の私の疑問を酌んだのだろう。恭介君は苦笑を浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「……嘘だよ。本当は燈子に会いに来た」
!!
けれど改めてそれを言葉にされれば、その破壊力は測り知れない。
「……っ」
答えに詰まり、立ち竦む。
あまりの動揺に、まともな思考もままならない。
「!? きょ、恭介君!?」
すると突然、恭介君が私の手を取った。
困惑しきりに見上げる私に、恭介君は悠然と微笑んだ。
「燈子、折角だから歩こう。今日はとても気持ちのいい陽気だ」
!
私の答えを待たず、恭介君は握った手にグッと力を篭めた。私は動揺が冷めないまま、恭介君に手を引かれて歩き出す。
恭介君の大きな手は、私の指先までをすっぽりと覆ってしまう。その逞しさと温かさに、否が応にも胸が騒いだ。
私達は池の周りを一周し、森林の下を歩いた。けれど小さな公園は、いくらもしない内に端から端までを歩き終えてしまった。
幼い頃、私は恭介君ともこの公園に来ている。その時はもっと、ずっとずっと長い時間、恭介君と肩を並べて歩いたはずだった。
「昔はもっと広く感じていたんだけどな……」
ポツリと零した私を、恭介君が優しい眼差しで見下ろした。
「それだけ俺達が大人になったって事だろうな。だけど大人になった今の方が、ここの緑に心が和む。昔よりも、ここの風情が胸に沁みる」
だけど優しいのは眼差しだけじゃなかった。恭介君の語る言葉もまた、優しさに溢れるものだった。
「その通りですね」
……このまま、恭介君と別れてしまうのが惜しいと思った。
もう少し、肩を並べて過ごしたいと、そう思った。
「……あの、恭介君。よかったらお茶でも飲んでいきませんか?」
気付けば、私からそう切り出していた。
あまりにも私らしくない積極的な言動に、言葉にした私自身、とても驚いていた。
「いいね。だけどどこで? 土曜の午後はどこのカフェも混んでいて、きっと落ち着かない」
恭介君はまるで私を試すかのように、ちょっと意地悪に言った。
「なら、私の家に来ませんか? 私だってお茶くらい、淹れますよ?」
「家に? いいのか? 蓮井のおばさんに俺達の関係をますます誤解されてしまうぞ?」
だけどそう語りながら、すでに恭介君は私の手を引いて、私の自宅の方向に歩き出していた。
「お生憎です。今日は父も母も、顧客のお招きで空けています」
……だけどきっと、父や母が居ても、私は恭介君を家に招いていただろう。
他ならない私自身が、ここでこのまま別れてしまう事に躊躇いを感じていた。もう少し話したいと、そう思った。
「ははっ、それは残念だ」
恭介君は欠片も残念とは思っていないだろうに、そう言って笑った。
両親は不在だから、自分で玄関の鍵を開け、恭介君を居間に通した。
「懐かしいな……」
居間に入って開口一番、恭介君が呟いた。
家財の一部は変えているけれど、アンティークのテーブルやソファは当時のままだ。
「はい、懐かしいですね」
部屋を見回す恭介君の姿に、私もまた、一緒に遊んでもらった当時の記憶を懐かしく思い出していた。
「恭介君どうぞ、座って下さい。お茶を淹れますから」
「ああ、おかまいなく」
恭介君は、静かにソファに腰を下ろした。初めて顔を合わせた当時の恭介君は、ソファの背凭れにすっぽり頭が隠れてしまうくらい小さかった。
最後に会った中学生の恭介君は、肩から上が覗くくらいだったろうか。
今、キッチンに向かいながらチラリと横目に見る恭介君は、背中から上が覗いていた。
「恭介君、おっきくなって……」
十四年の年月を感慨深く、思った。
「プッ! 燈子、その台詞、なんだかおばさんみたいだ」
私を振り返った恭介君は、肩を揺らしていた。
「アラサーですからね。おばさんというのも、そうそう間違ってないですけどね」
「! なるほど。そうすると俺もおじさんか」
感慨深そうに、恭介君がうんうんと首を頷かせている。
けれど私は恭介君の台詞に、物凄く違和感が湧き上がった。
「恭介君とおじさんっていうのは、何だか対極にあるような気がします」
おじさんというには、恭介君はあまりにも素敵すぎるのだ。
「? 俺が年上なんだ。ならば当然、燈子よりも先に俺がおじさんだろう?」
「……ええっと。……あ! もうしばらくは私達もお姉さんお兄さんという事にしておきませんか?」
「! それがいいな」
私の提案に、恭介君は一瞬目を瞠り、そしてクスリと笑って賛同した。
私も微笑んで、今度こそお茶を淹れるべく居間を後にした。
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