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【四】 涙落つるままに(二)
「………聞多?」
井上の声が、不意にしっとりと濡れる。傷の走る頬でにっと笑った井上は、伊藤の頬に手を当て、唇についばむようにそっと触れてきた。
「聞多」
柔らかい唇は、そのまま頬に触れ、再び唇に触れた。かすかに湿った音がした。こんな風に、井上から口付けられるのは珍しくて、胸が高鳴る。伊藤はそれでようやく気を取り直し、ようし、と親友の唇に吸いついた。
「ん………」
親友は、侵入してきた伊藤の舌を、待っていたように受け入れた。それが嬉しくて、角度を変えながら何度も口づける。井上も鼻にかかった官能的な吐息を漏らしながら、積極的に伊藤に応えてくる。もう、どっちがどっちに口づけているのか判らない。互いに存分に、相手の口腔を犯し、貪る。
井上は唾液が糸を引いて落ちるのも構わず、激しい口づけを続けながら、伊藤の襟に手をかけ、乱暴に前を開いた。
「………珍しい」
息を弾ませながら、伊藤は言った。
「聞多、やる気」
「しゃあねえ。俊輔があんまり可愛いからよ」
伊藤との情交では、通常、井上は基本的に受身である。抱くことも抱かれることもあるが、相手に対する性欲は、恐らく伊藤の方がずっと強い。伊藤の情欲が井上を昂ぶらせ、引きずり込む、というのがいつもの情事の成り行きだ。
こんな風に、井上から仕掛けてくることなど今までなかった。
井上の袴紐も帯も、先刻伊藤によって解かれている。井上はまとわりつく衣服を煩わしげに身体から振り落とし、袴がずり落ちるのも構わず伊藤を押し倒した。角帯が床にぶつかり、伊藤はわずかに顔をしかめた。
「ち………ちいと待って。帯が」
「むこうを向け」
躊躇なく返ってきた言葉に、伊藤は「えっ」と思ったが、素直に井上に背を向け、四つん這いになった。井上はさっさと伊藤の帯を解いて引き抜くようにして横へ投げ、袴の紐を解いて引き下ろす。
「ぶ………聞多」
先ほどまでのしんみりした雰囲気はどこへやら。常にない強引さに、幾分怯えて伊藤は言った。
「このままする気?」
答えはなく、早く脱げというように後ろから襦袢ごと襟足に手をかけられ、伊藤はとりあえず、素直にそれに従って手を抜いた。そのまま、井上は服を引き下ろし、伊藤の背をむき出しにする。こうなるともう、着物は腰にかかっているだけである。
本当にこのまま進める気だろうか。黙ったまま、いささか手荒く服を脱がせ続ける井上の態度に、伊藤は多少緊張した。井上にせよ伊藤にせよ、茶屋遊びでその道の男を抱いたことはあるが、抱かれたのはお互いが初めてだった。男は本来、背後から責められるということに慣れてはいない。
それに井上は、「顔が見たいから」と言って、抱くにしろ抱かれるにしろ、向き合ってすることを好んだ。それは、伊藤も同様だったが。
「聞多?」
何か苛立っているのかと、戸惑いつつ名前を呼んだが、やはり返事はなく。
不意に。
背後から、強く抱き締められた。
「聞多………?」
裸の背と胸が密着して、井上の呼吸が乱れているのが判った。
泣いてる………?
思いながらも、伊藤は敢えて振り返らず、尋ねもしなかった。井上は伊藤の首筋に顔を埋めた。温かい息が肌に触れる。
「聞多」
温かい身体、確かな鼓動、思いに乱れる呼吸。
生きている。
この友は、しっかりと生きている。自分の傍にいる。
嬉しい。
「聞多。………大好きじゃ」
ぎゅっと、回される腕に力がこもったようだった。
「生きちょってくれて、もう死んでもええぐらい嬉しい」
「………あほう」
小さくこぼれた、声。語尾がかすかに震えていた。回された腕に軽く手のひらを置き、身体を少しだけ預けて、伊藤はいつもと同じ言葉を繰り返す。
「大好きじゃ、聞多」
嬉しい。
一緒にいられて、こんな風に誰よりも傍にいられて、本当に嬉しい。
「しよう、聞多」
返事の代わりのように、井上は、伊藤の首筋に軽く歯を立てた。不意打ちに、あ、と小さく声を上げると、井上はちょっと笑ったようだった。
「このままするぞ」
「うん」
何の躊躇もなく、伊藤は頷いた。ややあって、そっと背に唇が触れた。
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