【序】 春の日の憂鬱

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【序】 春の日の憂鬱

 カーン、と木刀の音が道場に響く。  刀を振り下ろしたのは、井上聞多(ぶんた)。受けたのは、高杉晋作。真剣な眼差しがぶつかって、どちらからともなく、唇の端にニヤリと笑みを浮かべる。 「バカ力め」 「よう受けた」  軽い言葉の応酬があって、よっ、という短い掛け声と共に、高杉はひょいと身を翻し、再び井上と向かい合った。  井上は白の長着に紺の袴を着けており、高杉は深い緑の着流し姿。二人とも裸足である。  ふあ。  そして、生成りの着物に黒袴を着けた伊藤俊輔は、道場の隅に座り、欠伸をかみ殺しつつ二人を眺めている。今でこそ士族の仲間入りを果たしたとはいえ、元々農民上がりの伊藤には、生粋の武士階級に属する井上と高杉の立会いになど、入っていける余地は全くない。  こんな所で膝を抱えて座っているなどつまらないし、彼我の差を見せつけられるようで、実に面白くない。年齢的にも井上よりも六歳、高杉よりも二歳年下の伊藤は、中々彼らと「対等」にはなれない。  ふわあ。  伊藤は再び、欠伸をかみ殺す。  格子窓から差し込む日差しは明るく、まさに春爛漫である。
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