【一】 不意打ち

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【一】 不意打ち

 元治二年(一八六五年)、春。  後に「功山寺決起」「回天の義挙」と様々に呼ばれた内戦が、高杉晋作率いる「正論党」の勝利に終わったこの時期、長州の政情はようやく小康を得ていた。  決定した藩是は「武備恭順」―――幕府に対し表向きは恭順の姿勢を見せながら、その実、藩を挙げて富国強兵に邁進する―――である。藩としては、有志諸隊を主力とする「正論党」を率いて藩の旧体制をひっくり返した実力者高杉に、是非ともそのまとめ役になって欲しいところだったのだが、いかんせん、この風雲児は「まとめ役」などに興味はないし、そもそも全く向いていない。 「人とは艱難を共にすることは容易いが、富貴を共にすることは難しい」  そう、嘯いた。 「兵の束ねなど、聞多や狂介に任せればええ。俊輔、わしをエゲレスへ連れて行け。上海ではちいとしか見れんかった文明とやらを、本場でしっかりと見てみたいんじゃ」  狂介とは、有志諸隊最大の「奇兵隊」の軍監を務める、山縣狂介のことである。  高杉はかつて、幕府の調査団に潜り込んで上海の地を踏んだことがある。伊藤は藩の黙許を得て、井上と共にロンドンに密航留学したものの、藩情勢の緊迫を知って急遽帰国している。高杉も伊藤も、中途半端な海外経験しかないといえた。  そんなわけで今日は、井上に留学の斡旋を頼みに来たのではなかったのか。  それを井上がたまたま庭先で木刀を握って鍛錬をしていたものだから、気まぐれな高杉はすぐに目を輝かせ、 「よっしゃ聞多、久々に汗でも流すかあ」 と言い、井上も井上でそれを快諾したので、こうして近くの道場へやってきたというわけである。  つまらない。 「聞多あっ!」  一声と共に、高杉が打ち込んだ。井上はそれを真っ向からは受けず、軽く払うようにして横へ飛んだ。そこへ、右から薙ぐようにして高杉が更に挑む。  今度はいささか鈍い音と共に、木刀が再びぶつかる。 「聞多っ」 「何じゃいっ」  腰を落とし、低い位置で受けた井上は、高杉を睨みつけつつ体勢を整えようとする。させじと力を込めつつ、高杉は口の端で笑う。 「おめえ、俊輔と寝たろう」 「はあっ?!」 「えええええっ!」  二つの声が、ほぼ同時にあがった。「はあ?」が井上、「ええ!」が伊藤である。  力が抜けた井上の木刀を、高杉はぐいと掴み、無造作に引き抜いた。得物を奪われて呆然とする井上の頭を、木刀の柄のほうでこつんと叩く。 「一本っ」 「………! どこがじゃ、この卑怯もん」  井上の立ち直りは早かった。高杉から木刀をひったくり、バン、と力任せに床を叩いた。 「今のは無効じゃ」 「否定せんのか」 「何を? 別に、わしが俊輔と寝たんは事実じゃ」  あっけらかんとした井上の態度に、高杉は目をしばたたいた。 「ぶ………聞多」  むしろ、青くなったのは伊藤の方だ。  高杉は独占欲が強い。その高杉が、井上を「真の知己」と言っていることを伊藤は知っている。  殺される………とまでは言わないが、これは下手すると死ぬほどシメられる。  冷や汗をかいて固まっている伊藤を、高杉はじろりと睨んだ。 「俊輔っ」 「は………は、は、はいっ」  高杉は木刀を軽く振り回しながら、大股で、だがゆっくりと伊藤に近づいてくる。伊藤は思わず壁を背につけたまま、ずり上がるようにして立ち上がる。 「おめえも、否定せんか」  ひゅん、と音がしそうな勢いで、木刀で斜めに空を切ってから、高杉は、切っ先を伊藤の喉下に突きつけた。  高杉は全く笑っていない。持ち前の鋭い眼差しでじっと見据えられ、伊藤は竦み上がる。 「聞多と寝たんか、と訊いちょる」  低い声が言った。  た………助けて、聞多。 「高杉」  どこか呑気な、呆れたような声で井上が言った。 「何じゃおめえ、わしが俊輔と寝たんが気に食わんのか」  その言葉に、高杉の目がギラリと底光りした。  ぎゃあああ。  助け舟どころか、むしろ火に油を注ぐ発言に、伊藤はほとんど気絶寸前である。 「気に食わん」  高杉は伊藤を見据えたまま言った。 「何でじゃ」  井上は心底不思議そうに尋ねる。木刀を握ったまま、スタスタと近づいてきた。 「俊輔には勿体ないわい」 「なあんじゃ」  高杉の言葉に、からからと井上は笑う。高杉はむっとした様子で木刀を下ろし、井上を睨んだ。 「そりゃ、わしもそう思うがの。寝ちまったもんは仕方なかろう。別に無理強いされたわけじゃなし」  ぶ………聞多。  伊藤は引き続き冷や汗タラタラである。いちいち高杉を刺激するのはやめてもらえないだろうか。 「………」  高杉は無言で木刀を上段に構え、井上に向けて真っ直ぐに振り下ろした。 「高杉さんっ」  伊藤は思わず声を上げたが、本気でないことは井上には判っていたらしい。ぱしっと軽い音を立てて、木刀を手で受けた。ややあって、高杉はにっと笑う。 「そういうところが―――俊輔なんぞには本当に勿体ない」 「わしもそう思う」  何の衒いもなく、にやりと笑みを返されて、高杉はかすかに舌打ちした。 「高杉」  高杉の木刀を横へ下ろしながら、井上はじっと高杉を見る。 「俊輔が何ちゅうてわしを口説いたか、教えてやる」 「………」  高杉は、黙って井上を見つめ返す。 「『聞多はわしのもん。わしは聞多のもん』」  再現され、伊藤は赤面する。閨で二人きりの時ならともかく、何だってこの友は、そんな言葉を素面で、しかも他人の前で、真昼間から臆面もなく口にできるのか。 「『他のもんなんぞどうでもええ。聞多としたい』」 「ぶ………聞多ぁ………」  蚊の鳴くような声で呼ぶと、井上は高杉を見据えたまま、「違うちょるか」と言った。  ………いや、合うちょるけど。 「おめえには死んでも口に出来ん。わしも、他人に対してそんな言葉は口に出来ん」 「俊輔の言葉は軽い」 「………かもしれん。じゃが、仮にそうじゃとしても、わしはその言葉を信じる。この先がどうなろうが構わん。ただ、俊輔の本気をわしは信じた」  聞多―――  口を挟む余地などなく、伊藤は赤面したまま親友を見つめる。高杉がいなければ、恐らく、即座に抱きついて押し倒していたと思う。  聞多。  聞多、やっぱり滅茶苦茶かっこいい。  高杉はじっと井上を見つめ、大きな口をへの字にひん曲げてから、天を仰いで嘆息した。 「………やっぱり、俊輔には勿体ないのう」 「残念じゃったの」  ふふん、と笑う井上の頭を、高杉はポカッと叩いた。思わず小さく笑うと、固めた拳をドカッと頭に振り下ろされる。 「………!」  目から火花が散った。 「た………高杉さんっ」  涙目になって見ると、高杉はふんっ、と鼻息も荒く踵を返し、大股で歩み去っていってしまった。
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