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【四】 涙落つるままに(一)
首筋に口付けながら、伊藤は井上の袴紐を解いた。井上は自ら帯を緩め、伊藤が着物の前を開くに任せた。
伊藤は、着物の下から現れた井上の白い肌に、ごくりと息を飲んだ。
「………萎えるじゃろ」
井上は相変わらず強気にニッと笑うが、伊藤はとても言葉を返せない。
肩にも、腹にも、そして、膝まで露わになったふくらはぎにも、引きつれたような縫合の痕が幾筋も走っている。
井上の身体の傷を見るのは初めてだった。知らせを聞いてすぐに駆けつけたときには、井上は縫合を終えたばかりで顔にも身体にも布が巻き付けられていた。その苦しい息の下から、井上は親友の名を呼んで泣くことしかできない伊藤に、掠れた声で「逃げえ」と命じた。
『山口は危ねえ。逃げるんじゃ』
伊藤はその言葉に従い、下関に逃げた。一命を取りとめた井上はそのまま保守派によって幽閉され、年が明けてから、ようやく高杉の指示で救出された。
伊藤は、肩に残る抉られたような傷跡に、そっと唇を触れた。井上は、小さく息を吐き出し、目を閉じて、伊藤の頭に軽く手のひらを置く。
髪を梳くように動く手は、ひどく優しい。
聞多。
ぽたり、と、涙が落ちた。肌に落ちた生温い雫に、井上は閉じていた目を開く。
「………俊輔?」
「………っ」
ぽたり、ぽたり、と、頬を流れる涙が止まらない。しまいには、えっえっと、みっともないような嗚咽が漏れた。
「聞多あ………」
「………おいおい」
「痛いよこれ………。聞多。こねえな傷、痛い………。ひどい聞多。こんなのひどい」
井上は身体を起こし、伊藤をぎゅっと抱きしめる。
「………バカ」
「聞多を、わしの聞多をこねえな目に遭わせて。殺してやる」
「おいって」
「八つ裂きにしてやる」
ぽんぽんと、子供をあやすように、井上は伊藤の背を叩く。
「そいじゃけ、よそうと言うたのによ」
「だって」
「おめえちゅうやつは………口では散々勇ましいことを言うてよ。傷見ただけでそのザマか。そんなんじゃけえに、高杉に言葉が軽いやら言われるんじゃ」
「だって、痛いよ聞多。痛い………」
洟をすすり上げ、伊藤は親友の身体にすがりついた。友の傷が痛い。痛い思いをしたのは聞多なのに。なのに自分が痛くないことが、痛くて痛くてたまらない。
「ごめん………。ごめん聞多」
「………何がじゃ」
柔らかい声が尋ねた。
判らない。どう答えていいか判らずに、伊藤はただ嗚咽した。痛い目に遭わせてごめん。聞多だけ、こんなにひどい目に遭わせて、自分が無事でいて本当にごめん。
力になれなくて、何も出来なくてごめん。
井上は、それ以上問おうとはしなかった。井上が判っていることが伊藤には判った。嗚咽するばかりの伊藤の身体をただ抱きしめたまま、小さく言った。
「………すまんのう、俊輔」
それだけを言って、親友は、しばらく黙り込んだ。それから、ふう、と吐息を漏らし、苦笑混じりに言った。
「まあ………痛かったのう」
ずず、と伊藤は洟をすする。
「本当に、痛かったじゃろ」
「ああ。痛かった。死ぬかと思うぐれえ、しばらくは上向いても下向いても横向きになっても、とにかく、どうしたってもう耐えられんと思うぐれえでの。しかも冬じゃったし、閉じこめられちょるし、身体は動かせんし、うずくまって震えちょるしかしようがのうてよ」
「………」
「塗ってもらう膏薬が、これまたぞーっとするほど冷とうての。まあ、贅沢は言えんがのう」
はは、という軽い笑い声を立ててから、井上はまた黙った。
伊藤はしゃくりあげながら、「聞多」と言った。
「ん」
「聞多、かっこいい」
「知っちょる」
「聞多すごい。大好き。死ぬほど好き。生きててくれて死ぬほど嬉しい」
「おめえのう………死ぬ死ぬ言うな」
呆れた声が言う。
「死ぬほど好きじゃ」
構わずに顔を上げて言うと、井上はしばらく伊藤を見つめ、不意に懐から手ぬぐいを取り出し、ゴシゴシと形容するような強さで伊藤の顔を拭いた。
「ったく、みっともねえのう」
「だって」
井上は伊藤の顔を拭った手ぬぐいを、ぽいっと放った。
「そんな涙と鼻水だらけの顔、口付けする気にもなれやしねえ」
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