35人が本棚に入れています
本棚に追加
あの日から何度かふらふらと店まで行くが中に入らない日々が続いた。いつもの窓際に制服が見えない。それだけで胸が痛む。
あの日、私は何故彼を傷つけてしまったんだろう。そればかりを考える。何を抱えていたのかな。聞いてあげればよかった。
今思い返せば、私は彼に貰ってばかりだった。
いつものように店の前を横切ると、ちょうど店の扉が開いた。思わず惹かれるように扉を見てしまう。
え?
一瞬にして心臓が縮んだ。目の前にいたのは、
「ナミ?」
「しゅ、駿さん」
彼だった。
彼の腕には以前見た女性が絡みついている。一目見て、ああ綺麗な人だなと思った。瞳から自信が溢れていて私とは正反対。戦う前から負けが決まってるようなものだった。
彼は一言その女性に声をかけると、店先に待たせてこちらまで歩いてきた。
「ナミ、ちょっと確認したいんだけど……俺たち結構前に別れたよな?」
「え?」
「最近連絡もないし、俺のこと冷めたんだよね? あ、いいんだよそれで。お前にもお前の道があるだろうし」
何を言ってるのかさっぱり分からない。第一まだ別れてない。
だけど彼はとにかく穏便に私主導で終わったことにしたいんだろうことは分かった。その気持ちは分からなくもない。この歳になって面倒ごとはなるべく避けたい。
未練もないし、私さえここで頷けば全て丸く収まる。
でも何故だろう。ハル君の痛い笑顔が頭にチラつく。
逃げだろ。
そうだ、逃げだよ。
逃げて何が悪いの?これ以上傷つきたくない。なるべく穏便に。この大人の対応の一体何が悪いっていうのよ。
何が……
「私……別れてない」
「は?」
「別れてないって言ったの! 何勝手なことばっか言ってんの? 先に浮気したのはそっちでしょ!」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔してる。
当たり前だ。いつも従順だった私が初めて楯突いた。後ろの彼女にも聞こえるくらい大声だしたから、行き交う人までがチラチラこちらを見ている。
「ちょ、ナミ……落ち着けよ。ここ会社前」
「関係ない! そこの貴女もよく聞いて! この男私と付き合っておきながら貴女に手出してんぐっ」
「おい、いい加減にしろよ」
ドスの効いた低い声が鼓膜を突き破る。口を塞がれ一歩詰め寄られた彼の瞳にはもう憎悪しかない。
怖い。今すぐ逃げ出したいけれど私は間違ってない。
もし私が今逃げ出したらきっと、もう二度とハル君には会えないような気がしたから。
「取引先の娘さんなんだよ。これ以上ごねるならお前、会社での立場なくすぞ」
背筋が凍る。
くらりと眩暈がして思わずしゃがみこんでしまった、その時だった。
「ナミ!!」
大人になりきれていない、真っ直ぐで懐かしい声がする。
いつものヘッドホンを片手で握りしめ、がむしゃらに走ってくるあの子の顔を見た瞬間、なぜだか涙がこぼれてしまった。
「何してんだよこんなとこで」
「なんで……」
「マスターが連絡くれた」
「ハル君私やっ……やり合った、でもダメだっ、私、わたっ」
「ナミ」
ハル君が私を呼ぶ声が一段と優しい。視線を上げるとハル君が目線を合わせるように跪いていた。
「俺あの日、ナミを通して自分を見てたんだ。俺なんかって言い続けて親とか現実から逃げてた俺が目の前にいるような気がして。ごめん」
頭を撫でるハル君の手はもう大人だった。大きくて、痺れるほど優しい。
私こそ聞いてあげられなくてごめん。そう言いたかったのに頷くだけで精一杯だった。
「久しぶりに生きてて楽しかったよ。毎週楽しみだった。俺だけに歌われた歌は結局なかったけど、いつもあの時間ナミは間違いなく俺だけを見てくれたから」
そういうと、私にヘッドホンを握らせ立ち上がった。なんで、そんな今日が最後みたいな言い方するの?
ざわつく胸を抑え口を開こうとしたが、それを遮るようにハル君の声が夕方の人ごみに響いた。不躾で、でも率直過ぎるあの声が。
「おいオッサン。何逃げようとしてんだよ。
ツラ貸せや」
そこからは本当に一瞬の出来事だった。騒ぎを聞きつけた警官が止めに入るまで、ハル君は振り上げた拳を止めなかった。
私が我に返ったのは警察に解放され夜風が頬を撫でた時。その時やっと気づいた。ハル君は私がかつて呟いたあの言葉を実行してくれたのだと。
そしてハル君はまるで最初からいなかったかのように、今度こそ本当に居なくなってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!