第7話 手品

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 私が会計を済ませて日傘を手に店の外に出ると、一足先に店を出ていた紀之定さんが笑顔で言った。 「どうもご馳走様でした。美味しかったです」 「喜んでもらえて良かったです」  私は笑顔を返して歩き出したけど、これ以上紀之定さんを引き留めておく理由がなくなってしまったことが本当に残念だった。  初めて長い時間一緒にいたから、余計に離れ難い。  できればもっと一緒にいたいけど、あまり欲張ったら嫌われてしまうかも知れなかった。    私が気持ちを整理しながら駅に向かって歩いていると、紀之定さんが訊いてくる。 「まだ日も高いですし、良かったら少し一緒に歩きませんか?」  あんまりびっくりして、私は一瞬息が止まった。  これはつまり、紀之定さんももう少し一緒にいたいと思ってくれているということなのだろうか。  ……うん、そうに違いない。  とても嬉しいのに何だか恥ずかしくて、まともに紀之定さんの顔が見られなかったけど、私は何とか答えを口にする。 「……いいですね。せっかくですから、さっき紀之定さんがお話してた博物館に行ってみますか?」 「僕は楽しいですけど、それだと小桜さんが退屈でしょう」  うわ、初めて苗字を呼んでもらえた。  私が初めて紀之定さんのことを知った時には、紀之定さんは私のことなんて全然知らなかったのに、こんな日が来るなんて本当に夢みたいだ。  私がささやかな幸せに浸っていると、紀之定さんが続けて言う。 「山下公園はどうですか? 天気もいいことですし、散歩するには良さそうです」 「そうですね、久し振りに行ってみたいです」 「じゃあ、決まりですね」  こうして、私達は山下公園に向かうことになった。  山下公園は大きな公園だ。  海のすぐ側にあって、横浜ベイブリッジや港を出入りする船も見られるし、童謡でお馴染みの『赤い靴はいてた女の子の像』や、姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られた『水の守護神』のモニュメントなどもある。    大さん橋を横切り、なだらかなスロープを下りて山下公園に入ると、そこには広い芝生や遊歩道が広がっていて、ひんやりとした海風が遮られることなく吹き付けてきた。  すぐ近くにはコンビニがあって、奥には青銅の円蓋のインド水塔がある。  その前の広場では大道芸のパフォーマーさんが、丁度手品を披露しているところだった。  ここは週末になるとパフォーマーさんが集まってきて、何かしらの大道芸が見られることが多い。  特に時間は決まっていないみたいだから、見られるかどうかは運次第だけど。    紀之定さんは興味深そうな目をパフォーマーさんに向けて言った。 「せっかくですから、ちょっと見て行きましょうか」 「はい」  私は紀之定さんと一緒に手品を眺める人達の輪に加わると、紀之定さんに尋ねる。 「手品、好きなんですか?」 「結構好きですよ。どういう仕掛けになっているのか、あれこれ考えながら見ると楽しいですし。邪道かも知れませんけどね」  いかにも紀之定さんらしい楽しみ方だなあと思っていると、パフォーマーさんが六十代くらいのおじいさんに、手品の手伝いをして欲しいと声を掛けた。  奥さんらしいおばあさんと一緒に手品を見ていたその人は、白杖を持っていて、両目は固く閉じられている。  おじいさんは戸惑っているようだったけど、半ば押し切られるような形で、手品の手伝いをすることになった。  おばあさんに手伝ってもらって、脚がすっかり隠れるくらい長いクロスの掛かったテーブルの前の椅子にゆっくりと腰を下ろすと、パフォーマーさんももう一つ椅子を出しておじいさんの隣に座った。  そうして、おじいさんの目の前で何かの力を与えるように指をひらひらと動かしてから、インカムマイクを通して元気良く宣言する。 「さて、こちらのお客様は、今僕の魔法で目が見えるようになりました!」  パフォーマーさんは、今度はおじいさんに向かって言った。 「僕がサイコロを振って、三より小さい目が出たら指を一本立てて下さい。逆に三より大きな目が出たら、指を二本立てて下さい。わかりましたか?」 「はい」  おじいさんは小さく頷いたけど、周りからは困惑の声が漏れた。  目が見える人には何てことない簡単なことだけど、目が見えない人にはとても無理だろう。  でも、パフォーマーさんはそんなことにはお構いなしで、どこからともなく取り出したサイコロを躊躇いもなく振った。  大人の握り拳くらいの大きさのサイコロは、少し離れた所からでもはっきりと目の数がわかる。    パフォーマーさんは黙ってサイコロを取り上げると、私達にサイコロを見せた。    出た目は四。 「さあ、出た目は三以上でしたか? 三以下でしたか?」  パフォーマーさんがそう尋ねると、見えていない筈なのに、おじいさんは黙って指を二本立てた。  観客達がどよめく中、パフォーマーさんは軽く手を叩きながら言う。 「お見事です! でも一回だけだと、まぐれで当たっただけかも知れませんよね? もう何回か試してみましょう!」  パフォーマーさんがもう一度サイコロを振ると次の目は一、その次は六の目が出たけど、おじいさんはやっぱりどちらも見えているみたいに正しい数の指を立てて見せた。  目は見えていない筈なのに不思議だなあ、凄いなあとすっかり感心していると、これで手品はお終いらしく、パフォーマーさんは立ち上がって言った。 「さて、名残惜しいですが、これで今日のパフォーマンスは全て終了となります! お手伝い下さったお客様にどうぞ拍手を! ありがとうございました!」  パフォーマーさんが一礼すると、あちこちから拍手が沸き起こった。  手品の小道具を入れていたらしい黒い箱の中に観客が思い思いの金額を入れていく中、紀之定さんがお財布から千円札を出して箱の中に入れると、私も同じように千円札を入れる。  今まで大道芸にお札を払ったことはなかったけど、さっきのパフォーマンスは本当に凄いと思ったし、これくらいは妥当な額だろう。  帰り際に何気なくさっきのおじいさんの方を見ると、立ち上がったおじいさんは「ありがとう、楽しかったですよ」と言って、嬉しそうな顔でパフォーマーさんに頭を下げていた。  その隣で、涙ぐむおばあさんがおじいさんと同じように頭を下げる。  二人に喜んでもらえて、パフォーマーさんもとても嬉しそうだ。    私はいい物を見たなあと、ほのぼのとした気持ちで歩きながら、隣を歩く紀之定さんに言った。 「凄かったですね。さっきの手品、タネわかりました?」 「ええ、多分」  流石紀之定さんだ。  私には何が何だかさっぱりわからなかったけど、あっさりタネを見破ったらしい。 「あれ、どうやってたんですか?」 「多分、あのパフォーマーさんがクロスに隠れたテーブルの下で、こっそりおじいさんに合図を出していたんですよ。『サイコロを振って、三より小さい目が出たら指を一本、逆に三より大きな目が出たら指を二本立てる』というルール説明をしながら、きっと足を使ってどういう合図を出すか、あのおじいさんにだけわかるように伝えたんです。後はサイコロを振って、取り決め通りの合図を出せば、目が見えない筈のおじいさんが、あたかも本当に目が見えているかのように、正しく指を立てられるという訳ですね」  なるほど。  言われてみれば確かに、目が見えている人に正しい答えを教えてもらう以外に、目の見えない人がサイコロの目の数を知る方法はないだろう。  さっきのパフォーマーさんやおじいさんに訊けば、答え合わせは簡単にできるだろうけど、それは野暮と言うものだった。 「本当に魔法みたいでしたけど、実は凄く簡単な手品だったんですね」 「そうですね。でもあの手品の本当の凄さは、ああしてパフォーマンスを手伝ってもらうことで、目の見えない人でも手品を楽しめることにあるのでしょうし、僕が今まで見た中で最高の手品だと思いますよ」 「そうですね。私もそう思います」  手品というのは、見る人に何かを錯覚させることで成立することが多いから、目が見えない人が手品を楽しむのはなかなか難しいだろう。  それをちょっとした発想の転換でやってのけたあのパフォーマーさんの機転や、目の見えない人にも手品を楽しんで欲しいと思える優しさを凄いと思えたし、そのことに気付かせてくれた紀之定さんを尊敬せずにはいられなかった。  紀之定さんはとても聡明な人だから、私が気付かないような人の優しさや悲しさ、愛しさをいつも教えてくれる。    やっぱり好きだなあと、私は改めてそう思った。    山下公園をぐるりと一周してから、私達は一緒に帰りの電車に乗った。  実はこの辺から家に帰るなら、みなとみらい線に乗った方が駅から近いのだけど、紀之定さんは横浜線だから、少しでも長く一緒にいたくて、私も敢えて横浜線に乗ることにしたのだ。  まだ三時前だから、電車はそれ程混んではいなかったけど、座れる程空いてもいなくて、私と紀之定さんはいつかみたいに並んで吊り革に掴まる。 「今日はありがとうございました。楽しかったです」  紀之定さんは優しい笑顔でそう言った。  こんな笑顔で「楽しかった」なんて言われたら、嬉しくならずにはいられない。  私は紀之定さんに笑顔を返した。 「私も楽しかったです。友達には本好きの子が多いんですけど、ミステリー好きの子はあまりいなくて、今までああいう話はなかなかできませんでしたし」 「僕の友達にもミステリー好きはいませんから、僕もミステリーの話がたくさんできて嬉しかったですよ」  勉強を始めたばかりだから、鉄道関係の話にはまだまだ付いて行ける気がしないけど、今日話した感じだと割と本の趣味は合うみたいだし、ミステリーの話題を中心にすれば話のネタに困ることはなさそうだった。  ミステリー好きで良かったとつくづく思う。  この感じなら、「ミステリーについて語り合いたい」と言えば、また誘っても大丈夫かも知れない。  私は「良かったら、また会ってくれませんか?」と言おうとしたけど、やっぱり言葉は出て来なかった。  暗号でならちゃんと言いたいことを伝えられるのに、声に出して言うのはどうしてこんなに難しいのだろう。  この流れなら別に不自然じゃないだろうし、せっかくのチャンスなのに。  踏ん切りが付かずにぐずぐずしている間に、電車が最寄り駅に着いてしまった。  時間切れで、私は仕方なく別れの言葉を口にする。 「それじゃあ、また」 「ええ、また」  私は紀之定さんに手を振ると、後ろ髪を引かれる思いで電車を降りた。
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