第4話 汚れた水

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 和奏ちゃんと会った翌日。    すっかり日が暮れた大学の帰り、私は駅のホームでばったり紀之定さんに会った。  紀之定さんを一目見た途端、私は自分の心臓が小さく跳ねるのを感じる。  恥ずかしくて逃げ出したいような気持ちにもなったけど、やっぱり会えた喜びの方が大きくて、とても幸せな気持ちになった。    紀之定さんは車椅子のお客さんの案内を終えたところみたいで、駅で何度か見掛けたことがある、取っ手の付いた大きな板のような物を持っている。  駅には本当にいろいろな人が来るから、駅員さんも大変だ。    私は労いの気持ちを込めて、できるだけ愛想良く紀之定さんに挨拶した。 「お疲れ様です、こんばんは」 「こんばんは」  紀之定さんはいつも通りの笑顔でそう挨拶を返してくれた。  只の営業スマイルとわかっていても、やっぱり微笑みかけられると嬉しくなってしまう。  だがここであまり舞い上がり過ぎてしまうと、私の気持ちに気付かれるだけじゃなくて、間違いなく変な子だと思われるだろう。    私は懸命に気持ちを落ち着けながら、紀之定さんに問いかけた。 「あの、今ちょっとお時間大丈夫ですか?」 「ええ、少しだけなら」 「じゃあ、また謎を解いて欲しいんです。友達が彼と別れるか別れないかの瀬戸際で、何とか解決してもらえませんか?」 「それは責任重大ですね。必ず解けるとはお約束できませんが、頑張ってみましょう」 「お願いします」  私は鞄のポケットから昨日書いたメモを取り出すと、紀之定さんに手渡した。    紀之定さんはメモを開いてざっと目を通すと、また元のように折り畳んで、「ありがとうございました」という言葉と一緒に私に返してくる。    私は逸る気持ちを抑えつつ、紀之定さんに尋ねた。 「どうですか? 友達の彼が水を掛けた理由、わかりました?」 「ええ、多分。彼はきっと、お友達の指輪のサイズが知りたかったんでしょう」    紀之定さんの答えに、私は思わず呆気に取られた。  こんな方法で指輪のサイズを調べるという発想が私にはなかったし、もし本当に指輪のサイズを調べるのが目的なら、和奏ちゃんの手だけを濡らせばいいだけで、全身びしょ濡れにするなんて全く筋が通らない。    私は混乱しながら、紀之定さんに言った。 「あの、根拠を聞かせて欲しいんですけど」 「彼女の左手を白いタオルで拭いた後、彼はわざわざタオルを他の物に取り替えた訳ですよね? びしょびしょになってしまって、もう用を成さないというならわかりますが、普通手を拭いたくらいではそこまで濡れません。それなのに敢えてタオルを替えたのは、お友達の左手の跡を取ることが目的だったからです。お友達の頭から水を掛けなくても、手だけに掛ければ目的は達成できますが、それではお友達に本当の狙いに気付かれてしまうかも知れないと思って、わざと全身に水を掛けたのでしょうね。お友達は誕生日が近いということですし、その彼はきっと誕生日プレゼントに指輪を贈るつもりなんですよ」  本当の狙いを隠すために、敢えて不必要なことをして動機を隠そうとするのは、ミステリー小説でしばしば見られる手法だ。  言われてみれば納得だけど、よくこんなことを考え付くものだなあと、感心せずにはいられなかった。 「もしかして、そういう経験があるんですか?」  私がそう問いかけると、紀之定さんは言った。 「ええまあ。実は僕も、高校生の時に付き合っていた女の子にサプライズで指輪をあげようとしたことがあるんです。まあ、高校生がお小遣いで買える程度の物ですから、おもちゃと大差ない代物ですけど、少しでも喜ばせてあげたかったんですよね」  いかにも高校生らしい、ちょっと背伸びした感じのエピソードは微笑ましかったし、どんな相手でも付き合った人を大事にしてくれそうだなあと好感を持ったけれど、胸がもやもやせずにはいられなかった。  見ず知らずの紀之定さんの彼女に、どうしても嫉妬してしまう。  紀之定さんが「付き合っていた」と過去形で彼女の話をしたことからして、もう別れているのだろうけど、紀之定さんはその人のどこを好きになったんだろう。    その人とどんなことを話して、どんな風にその人に笑いかけていたんだろう。  凄く気になる。    私が悶々としているとも知らず、紀之定さんは続けた。 「勿論バレたらサプライズになりませんから、本人にバレないように指輪のサイズを調べなければならない訳ですが、これが結構難しいんですよ。ネットで調べれば、相手が寝ている間に指のサイズを測るとか、相手が付けている指輪を外した隙に指輪の内側を紙に書き写すとか、いろいろな方法がヒットしますけど、彼女は指輪をしていませんでしたし、高校生くらいで付き合った期間も短いと、なかなかチャンスがないんです。それにネットに出ている方法は、彼女も知っているかも知れないでしょう? それで敢えてネットに載っていないやり方で調べようと思って、わざとオレンジジュースのグラスを倒して、汚れた彼女の手を拭いたナプキンから指輪のサイズを割り出そうとしたんです。まあ、グラスを倒した拍子に彼女の服まで汚してしまったおかげで、彼女を怒らせてあっさりフラれるという、本末転倒なことになってしまったんですけどね」  そう言って照れ臭そうに笑う紀之定さんは、いつもより子供っぽくて、少し可愛い。  今まで見たことのない紀之定さんの顔が見られて、私はひどく嬉しくなった。  だけど、その気持ちは不安の前にあっさりと萎んでしまう。    あまり詮索するのは良くないと思いつつも訊かずにはいられなくて、私は紀之定さんに訊いてみた。 「……今は、また別のお相手がいるんでしょう?」 「いえ、残念ながら。この職場は女性にはあまり縁がないですし、僕が電車やミステリーの話ばかりするので、女性には敬遠されがちですしね。今のところは、高校時代の彼女が最初で最後の交際相手です。彼女が言うにはとにかく話が合わないのが不満で、僕がグラスを倒した時にとうとう我慢が限界に達したそうですが」  紀之定さんがフリーだというのは嬉しかったけれど、私はこんな素敵な人に彼女がいないなんて本当かなあという疑念を抱かずにはいられなかった。  紀之定さんには何度もお世話になっているし、平気で二股を掛けたりするような人だとは思いたくないけど、女の人と寝るためにならどんな嘘でも平気で吐く人がいることくらい、男の人と付き合ったことがない私でも知っている。  職場に女性がいないから出会いがないとか、オタクだけに女の人と話が合わないというのは、ある程度納得の行く理由ではあるけど。    私が何とか真実を見極められないかと紀之定さんを見つめていると、紀之定さんは視線を逸らすことなく、真っ向から私の視線を受け止めて言った。 「何だか話が逸れてしまいましたね。僕の推測が外れていたらがっかりさせてしまいますし、当たっていたら当たっていたでお友達に聞かせる訳には行きませんが、何とか上手く話してお友達を安心させてあげて下さい。その彼がお友達を大事に想っていることには変わりないと思うので」  紀之定さんの言う通り、和奏ちゃんの彼が指輪をあげるつもりがなかったとしても、きっと心変わりした訳ではないのだろう。  もし本当に心変わりしていたなら、きっと和奏ちゃんに水を掛けた後に平謝りしたりしないで、そのまま追い出していた筈だ。  和奏ちゃんには後で「事情があって詳しくは説明できないけど、例の駅員さんが『彼は和奏ちゃんのことをちゃんと好きだと思う』って言ってたから、安心していいよ」とメッセージを送っておこう。  これできっと、この件は丸く収まるに違いない。    私は紀之定さんに向かって丁寧に頭を下げた。 「どうもありがとうございました。きっと友達も喜ぶと思います」 「お力になれて何よりです。せっかく好き合っているのに、誤解で別れてしまったら気の毒ですしね。それでは、僕はこれで」 「はい、失礼します」  私はもう一度お辞儀をすると、紀之定さんに背を向けて歩き出す。  紀之定さんが本当にフリーかどうか確かめる方法はないけど、紀之定さんのことを信じたいとは思った。  まずは信じてみないと、誰が相手でも最初の一歩を踏み出せない。  傷付くのが嫌でその一歩を頑なに踏み出さない人もいるんだろうけど、もし今の関係を変えられるチャンスがあるなら、私は勇気を出してみたかった。  今はまだ無理だけど、もうちょっと仲良くなれたら告白してみようかなと思う。  実行できるかはわからないけれど。    私は心に勢いを付けるように、階段を駆け上がり始めた。  二週間後の夜。  夕食を済ませた私はマンションの自分の部屋で座椅子に座り、白いテーブルに鉄道の本を広げていた。  今まで鉄道に興味なんてなかったけど、紀之定さんが鉄道オタクだと知った時から、ちょくちょく鉄道関係の本を読むようになったのだ。  今読んでいるのは、元運転士だった著者が書いた、鉄道の仕組みや運転士の仕事について書かれた本。  電車はとても身近な乗り物だけど、ただ乗っているだけではわからないことがたくさん書かれていて、結構面白い。  特に興味のない分野でも、今まで知らなかったことを知ることは基本的に楽しかった。    私が黙々とページを捲っていると、不意にスマートフォンが振動してメッセージの受信を知らせる。  本のページからディスプレイに視線を移すと、和奏ちゃんからメッセージが来ていた。  早速目を通してみると、薬指に指輪を嵌めた左手の写真と、 「誕生日に彼がサプライズで指輪をくれたよ! 彼が水掛けたのはこのためだったんだね! いろいろありがとう!」  という文章が目に飛び込んでくる。やっぱり紀之定さんの推理は正しかったみたいだ。  今度会えたらお礼を言おう。    私は自分の唇が微かな笑みを作るのを感じながら、返信を書き始めた。
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