91人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話 メモ
あれはとある冬の日――グレーのコートに黒いパンツ、黒いマフラーに黒い手袋、黒いブーツで防寒対策をしていても、体の芯まで冷えてくるような、とても寒い冬の日のことだった。
あの時まだ大学一年生だった私は、大抵午前中から講義があって、朝早く電車に乗ることが多かったけど、あの日はたまたま午前中の講義が休講になったから、昼頃からゆっくり大学に向かっていた。
通学に使っている駅に着いて改札を通ると、私が乗ろうとしていた下り電車は丁度行ってしまったところで、電車を降りた人達がエスカレーターやエレベーターでばらばらと改札に上がってきている。
電車を乗り逃したのは残念だったけれど、時間に余裕を持って出て来たから、一本遅い電車でも間に合うだろう。
私が下りのホーム行きのエスカレーターに乗っていると、見知らぬおばあさんがゆっくりした足取りで上りエスカレーターに向かっているのが見えた。
そのおばあさんに、箒とちり取りでホームの掃除していた駅員さんが手を止めて声を掛ける。
「こんにちは」
何気なく駅員さんに目を向けると、その人は二十歳くらいの若い男性だった。
黒い短髪に、眼鏡。
なかなか整った顔立ちの、優しそうな人だ。
アンティークゴールド色のエンブレムと、襟に配したテープがアクセントになった、チャコールグレーのスーツがよく似合う。
スーツと同じ色の制帽。
胸元の名札には「紀之定(きのさだ)」と書かれていた。
珍しい苗字だなと思っていると、続けて紀之定さんの優しい声が聞こえてくる。
「ここ何日かお見掛けしなかったから、ちょっと気になってたんですよ。お元気そうで良かったです」
ほっとしたように言う紀之定さんの声を聞きながら、私は少し驚いた。
ここは決して大きな駅じゃないから、お客さんが少ない時間ならよく来る人の顔を覚えるのはそう難しくないかも知れないけど、特に親しくもなさそうな人にわざわざ声を掛けて心配してたことを伝えるなんて、何ていい人なんだろう。
ただ日々の仕事をこなすだけでも大変だろうに、その合間にこんな風に人を思いやるなんて、例え紀之定さんと同じ仕事をしていたとしても、私にはとてもできないかも知れなかった。
思わぬ所で見付けた人の優しさに胸が仄かに温かくなるのを感じていると、おばあさんが言う。
「ご親切にどうもありがとう。実はちょっと風邪を引いてしまって、家で寝込んでいたんですよ。娘から孫のお迎えを頼まれてるから、無理をしてでも行きたかったんだけど、この年になると体が言うことを聞いてくれなくてねえ」
「そうでしたか。まだ寒い日が続きますから、お体は大切になさって下さい」
「ええ、ありがとう。お兄さんもね。それじゃ」
「お気を付けて」
紀之定さんはおばあさんを見送ると、再び掃除を始めた。
できればちょっと話してみたいなと思ったけど、結局話し掛ける勇気が出なくて、エスカレーターを降りた私は少し離れた所で足を止める。
だって、何て言って話し掛けたらいいんだろう。
何か落し物をしたとか、ちゃんとした用事があるならまだしも、そうでないのに話し掛けたりしたら、迷惑がられるに決まっている。
でも、私の目はついつい未練がましく掃除をする紀之定さんを追っていて、それから駅に来る度に紀之定さんの姿を捜すのが、私の日課になった。
恋とは呼べないかも知れない、淡い想いを私が抱いていること――それどころか私のことすら紀之定さんは知りもしないだろうけど、それでも顔が見られるだけで嬉しくて、だから私は今日もあの駅に行くのだ。
※
紀之定さんのことを知ってから半年くらいが経ち、私――小桜莉緒(こざくらりお)はこの四月から大学二年生になっていた。
紀之定さんとは相変わらず一言も話せていないけれど、あの駅を使う時にはいつもオシャレには気を抜かないようにしている。
いつ話せる機会があるかわからないのだから、いざという時に後悔しないように、いつも万全の体勢を整えておきたかった。
私はマンションの自分の部屋で、ドレッサーの大きな鏡を覗き込み、念入りに髪型や服装をチェックする。
紀之定さんのことを知る前の私は、オシャレにあまり興味がなかったけど、この半年の間にいろいろ勉強して、以前の私を知る友達には「変わったね」と言われるようになった。
鏡に映る私はまあまあ可愛いと言える顔に見えるけど、紀之定さんにはどう見えるだろう。
整えた眉に、マスカラを塗った上向く睫毛、ピンクのアイシャドー、チーク、赤い唇。
黒に近い茶髪はセミロングで、緩く毛先を巻いている。
白いワンピースの上に、裾に黒いレースをあしらった淡いピンクのトレンチコートを羽織って、靴は黒いパンプスにするつもりだった。
ボタンをきっちり閉めて、ベルトを締めたトレンチコートの裾は長く、ドレスめいた緩やかな襞を作っていてゴージャスな雰囲気だ。
レースを取り外すこともできるけど、今日の服ならレースがあった方がいいだろう。
大学に行くだけなのに、ちょっと気合いを入れ過ぎかなとも思うけど、最近買ったこのコートは今一番のお気に入りだから、できるだけたくさん着たかった。
私は髪と服を整え終わると、部屋の戸締りを済ませて、黒いトートバッグを手に部屋を出る。
両親はもう仕事に行っていたし、兄弟はいないから、今家にいるのは私一人だ。
私の部屋は玄関を入ってすぐ右手にあって、部屋を出て一歩歩けば、そこはもう玄関だけど、私は敢えて家の奥に向かって一通りの戸締りをしてから、ようやく玄関へと向かった。
下駄箱から黒いパンプスを取り出して履くと、ドアを開けて外に出る。
今日はとてもいい天気で、緩やかに吹く風が私のコートを小さく揺らした。
日差しは暖かそうだけど、日陰は少し寒いし、風はひんやりとしている。
やっぱりコートを着て来て正解だったみたいだ。
私はマンションの廊下を歩いてエレベーターに乗り込むと、迷わず一階のボタンを押した。
程なくしてエレベーターを降りると、郵便受けと非常階段への扉を横目にマンションのエントランスを出て、目の前に伸びた国道を左に向かって歩いていく。
ひっきりなしに車と騒音が行き交う国道に沿って十分くらい歩けば、私がいつも通学で使っている駅があった。
反対方向にある一つ隣の駅はとても大きなそれで、店や人通りも多いけど、こちらの駅は小さな駅ビルやショッピングセンターはあるものの、駅周辺には今一つ活気がない。
車は多いけど、歩いている人は二十人もいないだろう。
この辺りはマンションや一軒家が建ち並ぶ住宅街で、人は多いのに、どうにも魅力的な店に乏しかった。
だからこの辺りの住人は、日用品や食料品以外の買い物や食事には、隣の大きな駅まで行くことが多い。
と言うか、隣の駅に店が充実しているせいで、こちらでいくら頑張っても結局向こうに客を取られてしまい、ますます向こうに店が集中してこちらが閑散としていくという悪循環に陥っている気がした。
かくいう私も、この辺りではあまり買い物をしない。
少しして駅に着いた私は、スロープ付きの階段を上がり始めた。
ここは地上駅だけど、改札は二階にある。
すぐ近くにはエレベーターもあるものの、二階くらいならエレベーターを待つより階段で行った方が早いから、あまり使ったことはなかった。
階段を上り切ると、駅と繋がった小さなビルの出入り口やエレベーターが目に入る。
それらを素通りした私は、駅名が書かれた看板の下の通路を歩いて改札へと向かった。
ICカードの定期券で改札を通る時に、さり気なく左手の精算所を覗いてみたけど、紀之定さんはいないみたいだ。
今日はお休みなのかも知れない。
私は少しがっかりしながら、エスカレーターに乗って下り電車のホームへ下りた。
平日の昼間だけに、ホームはかなり空いている。
電光掲示板の脇にある時計は十時五十分を差していて、次の電車まではまだ十分近くあった。
もしかしてあの日みたいにホームにいたりしないかなと捜してみると、紀之定さんは箒とちり取りを手に、ホームの端で掃除をしているところだった。
前にも何度かこれくらいの時間に掃除をしているところを見たことがあるけど、お客さんが少なめだから、こういう仕事をし易いんだろう。
私はそれとなく紀之定さんの近くで足を止めると、控えめに紀之定さんの様子を窺った。
紀之定さんはあの日と同じように、てきぱきと掃除をしながらホームを歩いて行く。
近くにいられるだけで嬉しかったけど、どうしてもそわそわしてしまって落ち着かない。
何気なく手をコートのポケットに入れた私は、そこにメモを入れっ放しにしていたことを思い出した。
取り出して開いてみると、白い無地のメモ用紙には、ただ一言「八月三十一日」とだけ書いてある。
これは一体、何の日付けなのだろう。
私がそう疑問に思った時、急に強い風が吹いて、私の手からメモ用紙を攫って行った。
メモ用紙は幸い線路ではなく、ホームの上――紀之定さんの近くに落ちる。私は慌ててメモ用紙に駆け寄ったけれど、その前に紀之定さんが拾って、笑顔で私に差し出してくれた。
「落とされましたか?」
「はい、ありがとうございます」
私は差し出されたメモを受け取りながら、少し上擦った声で言う。
もっと普通の声で、愛想良く言おうと思ったのに、私だけに向けられた笑顔が嬉しくて、とても上手くはできなかった。
緊張するけど、やっと巡ってきたチャンスを逃したらいけない。
私は少しでも長く会話を続けたくて言った。
「でもこれ、私の物じゃないんです。誰の物だかわからなくて……」
「落し物ならお預かりしますよ?」
やった、これでもう少し話ができる。
私はつい緩みそうになる表情を、できるだけ動かさないようにして言った。
「いえ、そういう訳じゃないんです。昨日図書館から借りた本に挟まってたって司書さんに言われたんですけど、私には覚えがなくて……」
「それは興味深いお話ですね。よろしければ、詳しくお聞かせ願えませんか?」
私がきょとんとすると、紀之定さんは少しばつが悪そうに言った。
「ああ、すみません。実は僕、電車に乗るのが好きな、所謂『乗り鉄』なのですが、いつも電車に揺られながらミステリー小説を読んでいるんです。特に『日常の謎』系ミステリーが大好きで、こういうちょっとした謎には目がないもので……やっぱり駄目でしょうか?」
駅員さんだから鉄道オタクなのは納得だけど、ミステリーオタクでもあるというのはちょっと意外だった。
私もミステリーは好きでよく読むし、結構趣味が合うかも知れない。
私は少し嬉しくなって言った。
「全然駄目じゃないですよ。大した話じゃありませんから、面白くも何ともないと思いますけど」
「いえ、是非お願いします」
紀之定さんにそう請われて、私は昨日の出来事を話し出した。
最初のコメントを投稿しよう!