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第4話 汚れた水
今日は一限の後、二限が急に休講になって、私は釉さんと絃花ちゃんと一緒に図書館に行くことにした。
キャンパスの中央部にある図書館は白く四角い建物だ。
二階から四階までは吹き抜けになっていて、その吹き抜けの部分を囲むように、本がぎっしり詰まった本棚が並んでいる。
四階の閲覧席は壁や窓に添って設えられていて、私はカウンター近くの写真集コーナーの前の席で、釉さんと絃花ちゃんと一緒に英語の予習をしていた。
正面に仕切りのある木製の机に広げた教科書のレベルはこの大学の入試に無事合格できた人ならそう難しくない程度のもので、ほとんど止まらずにリングノートにシャープペンシルを走らせていると、机の上に置いていたスマートフォンが小さく振動してメッセージの受信を知らせてくる。
私が手を止めて液晶画面を覗き込むと、高校時代の友達からだった。
四季和奏(しきわかな)ちゃん。
高校一年と三年の時に同じクラスで、一番仲が良かった。
卒業後は会う機会も減ったけど、春休みにも一度会ったし、時々はこうして連絡を取ることもある。
どうしたのかなと思って、メッセージを開いてみると、
「聞いて! 今日電車で痴漢に遭ったの! それで彼氏に『助けて』ってメッセージ送ったら、タクシー飛ばして、電車の先回りしてくれて、痴漢を捕まえてくれたんだ! すっごく嬉しかったー!!!」
と書いてあった。
よっぽど嬉しかったみたいで、喜びで小さな体がはち切れそうになっている猫のスタンプが目に飛び込んでくる。
確か和奏ちゃんの彼氏は和奏ちゃんと同じ大学の同級生だった筈だから、お金なんて大して持ってないと思うけど、それでもタクシーに飛び乗って助けに来てくれるなんて、本当に和奏ちゃんのことが好きなんだろう。
紀之定さんに片想い真っ最中の私にとっては羨まし過ぎる話で、正直なところ妬ましくもあったけれど、せっかくこんなに喜んでいるのだから、ここは素直に「良かったね」と言ってあげるべきだった。
それくらいのことができない相手なら、もう友達とは呼べない。
文面からすると、痴漢の被害に遭ったことを引き摺ってはいないみたいだけど、気を許していない人に勝手に体を触られるってかなりショックなことだし、何ともないとは思えなかった。
私は少し考えてから、返信を書き始める。
「大丈夫? 痴漢に遭うなんてショックだったと思うけど、彼がいい人で良かったね。彼を大事にしてあげてね」
そう書いて送信すると、すぐに返信が来た。
「心配してくれてありがとう! 私なら大丈夫だよ! ねえ、今度会えない? 久し振りに会って話したいな」
私はスマートフォンのカレンダーで予定を確認してみると、幸い今週の週末は特に予定がなかった。
釉さん達には何か謎を見付けたらどんな些細なことでも教えて欲しいと頼んでいたけど、そうそう謎めいた出来事なんて起こる訳もなくて、もう半月近く紀之定さんとは挨拶以上の会話をしていないし、サーチする範囲を広げてみるのもいいだろう。
私は早速返信を書き、次の日曜日に和奏ちゃんと最寄り駅近くのドーナツ屋さんで待ち合わせることになった。
高校時代の他の友達にも連絡を取ったけど、バイトやサークルの予定が入っていて予定が合わず、結局私は和奏ちゃんと二人だけで会うことになった。
約束の日曜日。
私は約束の十三時の十分前に、駅のすぐ側にあるドーナツ屋さんの自動ドアをくぐった。
このお店は私が通っていた高校に近くて、学校帰りにちょくちょく寄ったものだけど、大学に入ってからはめっきり行く機会が減って、ここに来たのは久し振りだ。
ざっとお店を見回してみたけど、特にあの頃と変わったところはないみたいだった。
カフェテリア形式のお店にはいろいろなドーナツがずらりと並んでいて、その横にはレジカウンター。
そして、お店の奥にはイートインコーナーがあった。
大きな窓に沿って設えられた細長いテーブルの前には一人用の席があり、窓から少し離れた所には四人がけのテーブル席や二人がけのテーブル席の他、喫煙スペースも設えられている。
お店の奥の方には、ネオンがきらめく時計や、もともとそういうデザインなのか、色褪せたのかよくわからない、レコードのジャケットらしき物も飾られていた。
私は生クリーム入りのチョコレートがかかったドーナツと、カスタードクリーム入りのイチゴ味のチョコレートがかかったドーナツをトレイに乗せると、レジでアイスティーを注文する。
会計を済ませてレジの近くの二人がけの席に腰を下ろしたところで、何気なく自動ドアの方に目をやると、丁度和奏ちゃんが入ってきた。
明るめの茶色い髪は私と同じくらいのセミロング。
眩しいくらいに白いシャツに、ネイビーベースにピンクの花柄のスキニーパンツ、白いハイヒール姿で、肩から青いショルダーバッグを掛けていた。
ずば抜けて可愛い訳じゃないけど、まあまあ悪くない顔立ちだし、すらりと背が高くてスタイルがいい。
おまけに長い付き合いでも人の悪口を言っているところを見たことがないような子だから、結構男の子に人気があって、女子にも好かれていた。
全身から明るさが滲み出ているような、とても感じのいい子だけど、今はこの世の終わりが来たみたいな暗い顔をしていて、足取りも重い。
一体何があったのだろう。
私が内心首を捻っていると、私に気付いた和奏ちゃんが軽く手を振って来る。
でもやっぱりその表情は冴えなかった。
和奏ちゃんは一面チョコレートでコーティングされたドーナツをトレイに乗せると、レジでオレンジジュースを注文し、会計を済ませて私のテーブルにやって来る。
「……久し振りだね」
私が恐る恐る声を掛けると、和奏ちゃんはテーブルにトレイを置きながら、沈んだ声で言った。
「うん……」
和奏ちゃんは私の向かいのソファーに腰を落ち着けると、小さく溜め息を吐いた。
あの和奏ちゃんがこんなに落ち込むなんて、よっぽどのことがあったのだろう。
訊いたら傷付けてしまうかも知れないとも思ったけど、話せば少しは楽になるかも知れないし、私は思い切って尋ねてみることにした。
「ええと、気に障ったらごめんね。もしかして、何かあったの? 元気ないみたいだけど……」
和奏ちゃんは暗い顔のまま、わずかに顔を俯けて私の問いかけに答えた。
「私、彼と別れるかも……」
和奏ちゃんの言葉に、私は思わず声を上げた。
「えぇっ!? 何で!? この前はあんなにラブラブな感じだったのに!?」
「そうなの。あの時は最高に嬉しかったし、幸せだったの。でもね、昨日彼の家に行ったら、ちょっとって言うか、かなりがっかりすることがあって……」
「がっかりって、どんな?」
「あのね、彼は絵を描くのが趣味で、よく水彩画を描いてるんだ。で、水彩画を描く時って、絵の具に水を混ぜたり、汚れた筆を洗ったりするために水入れに水を汲んで使うでしょ? その絵の具で汚れた水を、頭から思いっ切りかけられたの」
うわあ、それはキツイ。
彼に会うならきっとオシャレして行っただろうに、当の彼にそんな風に服や髪型を台無しにされたら、立ち直れなくなりそうだった。
でも「そんな最低な彼とは別れた方がいい」なんてことは、軽々しく言うべきではないのだろう。
もしかしたら、何か誤解があるのかも知れないし。
私はストローでアイスティーを啜ってから、慎重に言葉を選んで言う。
「……それはまあ、確かにがっかりするのはわかるけど、事故みたいなものだったんじゃないの? その彼が水入れを持って転んだところに、たまたま和奏ちゃんがいて、水が掛かっちゃっただけとか」
「そうだったらまだ良かったけど、あれは絶対わざとだよ。私の頭の真上で水入れをひっくり返してたし、体中に満遍なく掛けようとしてた感じだったし……」
うーん、これはフォローが難しそうだ。
満遍なく汚れた水を掛けてきたということは、明らかにそうする意図があったとしか思えない。
ささやかな希望を探そうと、私は問いを重ねた。
「じゃあ、本当に彼がわざとやったとして、嫌われるような心当たりはあるの?」
和奏ちゃんはドーナツを頬張りながら、思案顔で私の問いかけに答える。
「うーん、それが特に思い当たることがないんだよね。昨日より前に彼に会ったのはあの痴漢に遭った日だし、メッセージのやり取りは毎日してたけど、書いてたのはその日の出来事ばっかりで、彼が怒るようなことは何も書いてなかったから。彼からの返信も別に怒ってる感じじゃなかったしね。もしかしたら、私のことが嫌いになった訳じゃなくて、他に好きな子ができて、別れ話するのが面倒でああしたのかも」
「まあ、結婚してたって心変わりすることはあるけど、だったら口で言えばいいだけでしょ? わざわざタクシー飛ばして和奏ちゃんを助けに来てくれるような人が、別れ話するのが面倒だからって、そんな酷いことするなんて思えないんだけど。もしかして、何かどうしようもない事情があったんじゃない?」
「どうしようもない事情かあ……まあ、水掛けた後に平謝りで謝ってくれたし、別れたがってたらそんなことするかなあって思ったりもするんだけど……でも、嫌がらせ以外にどんな理由で彼女に汚れた水なんか掛ける訳?」
そう訊かれても、私には何とも答えようがなかった。
でも彼の言動は明らかに不自然だし、きっと何か理由がある気がする。
この場でちゃんと説明してあげられたらいいのに、何もわからないのがひどくもどかしかった。
「……ごめん、理由はちょっとわかんないけど、とにかくこれからどうするかは一旦保留にしておこうよ。冷却期間を置いて、ちょっと頭冷やそう? まだ好きなんでしょ?」
「うん」
和奏ちゃんは小さく頷いた。
やっぱり、まだ彼に気持ちがあるらしい。
これなら蟠りを消すことさえできたら、やり直す気になってくれそうだ。
せっかくいい彼なんだから、こんなことで別れてしまうのは残念過ぎる。
私がそんなことを思っていると、和奏ちゃんは目を伏せて続けた。
「私、もうちょっとで誕生日だし、彼と一緒に過ごすの楽しみにしてたんだもん。できればこんなことで別れたくないよ」
「だったら、絶対に早まらないでね? 要は彼がそんなことした理由がわかって、その理由がちゃんと納得できるものだったらいい訳でしょ? 理由がわかりそうな人に心当たりがあるから、今度相談してみるよ。そこの駅で駅員してる人なんだけど、リアル名探偵みたいな人だから、きっとその彼がそんなことした謎も解けると思うし」
「その人って、前に莉緒ちゃんが言ってた片想いしてる人?」
和奏ちゃんは小さく首を傾げてそう訊いてきた。
前に紀之定さんのことは話していたから、話が早い。
「そう、その人。この前、ちょっとしたきっかけで謎を解いてもらったんだ。電車と謎解きが好きな人で、謎があったら持って来ていいって言ってくれてるの。話せるチャンスなんだよ。だから協力して欲しいんだ。その時のこと、もっと詳しく教えてくれない?」
「そういうことなら協力するよ。謎を解いてもらえると、私も助かるし」
和奏ちゃんは快くそう言ってくれた。やっぱり持つべきものは友達だ。
私はこんなこともあろうかと、念のため持って来ていたメモ帳とシャープペンシルを鞄の中から出しながら言う。
「ありがとう! で、昨日彼に会ったところから、できるだけ詳しく聞かせて欲しいんだけど」
「ええとね、昨日はお昼ご飯を食べてから彼の家に行ったの。着いたのは一時半くらいだったかな。彼は実家暮らしなんだけど、家の人はみんな出掛けてて、家にいるのは彼だけだった。そう言えば彼、ドアを開けた時からずっと様子がおかしかったんだよね。妙に緊張してるって言うか、おどおどしてるって言うか……何でもすぐ顔に出るタイプだから、わかりやすい人なの。私と別れるつもりだったから、あんな態度だったのかな……?」
和奏ちゃんは話しながらだんだん不安になってきたみたいで、目元に滲んだ涙を拭った。
彼の気持ちがわからなくなってしまって、気持ちが不安定なんだろう。
私は何とか和奏ちゃんを安心させたくて、メモを取っていた手を止めて言った。
「まだそうと決まった訳じゃないよ。ネガティブにならないで。それで、彼の家に行ってそれからどうしたの?」
「彼の部屋に通してもらったら、彼は丁度絵を描いてたの。彼は実物の模写とかじゃなくて、自分の頭の中にある風景を描くのが好きな人なんだ。特にプロになるつもりはないみたいだけど、凄く上手いんだよ。虹色の鳥とか、ガラスの家とか、綺麗で不思議な物をたくさん描いてるの。私も彼の真似して、簡単な絵を描くようになったんだけど、上手く描けたら嬉しいし、楽しいし、彼が絵を描くのが好きな理由がちょっとはわかるようになったかな」
和奏ちゃんはそう言いながらやっと今日初めての笑顔を見せてくれて、本当に彼のことが好きなんだなあと私は思った。
できれば何とかしてあげたいけど、そのために私が今できるのはメモを取ることだけだ。
私が素早く手を動かしていると、和奏ちゃんが続ける。
「それでね、私はいつも通りに彼に画用紙とシャープペンシルをもらって、テーブルを挟んで彼の向かいに座ったの。私は絵を描き始めたけど、向かいに座った彼は筆を手に取っただけで、何だか上の空みたいだった。変だなって思ってたら、彼が立ち上がって水入れを持ち上げたの。で、私の頭からばしゃーっと水を掛けたんだ。頭だけじゃなくて、指の先までびっしょりになるようにね。私は彼のことを責めたけど、彼は言い訳もしないで何度も『ごめん』って言ってから部屋を出て行って、すぐに白いタオルと柄物のタオルを持って戻って来たの。それで白いタオルで左手を拭いてから、タオルを替えて顔や髪の毛も拭いてくれたんだけど、絵の具って独特の匂いがあるし、いくら五月でも濡れたままじゃ風邪引きそうでしょ? だからシャワーと着替え借りて、その後すぐに帰ったんだ」
「なるほどね」
私はメモを取りながら、少し気になったことを訊いてみた。
「絵の具で汚れるってわかってるのに、彼はどうして白いタオルなんか持ってきたんだろうね? 汚れが目立っちゃうのに。それに、そのタオルで拭いたのは左手だけだったんでしょ?」
「うん。私もちょっと変だなって思ったけど、きっと大したことじゃないよ」
和奏ちゃんはそう言ったけど、謎を解く鍵はそこにある気がした。
だからと言って、肝心の真相はさっぱりわからないのだけど。
「大体のところはわかったから、今度相談してみるね」
「うん。お願い」
和奏ちゃんは縋るような眼差しでそう言った。
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