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「行ってきま~す」
勢いよく扉を開け、ノアはいつもの様に学校へ向かって走り出す。背中で母の小言を聞きながら荒れた石畳の小路を駆け下りるのが日課になっている。
まったく、あの子と来たら・・・とため息交じりの小言を呟きながら、母は扉を閉める。
「よぉ、ノア。今日も遅刻か」
と、角の時計屋の店主にからかわれながら体を傾けて、右に曲がり、そのまま階段状の路地を駆け下りていく。
階段は緩やかに左に曲がりながら下っていくとやがて町を東西に横切る目抜き通りへ出る。両側には様々な店が立ち並ぶ石畳の美しい通りで、見上げれば軒を連ねる建物の、屋根が形作る稜線に切り取られた空が、どこまでも澄み渡っている。
ここはサン・プリュイ。数々の職人が集まる街。通りの両側には様々な店が技を競い、賑わいを見せている。
朝早くから、酵母の甘い香りを漂わせるパン屋『シェ☆ジュリアン』を左の眼の端に捉え、朝食を抜いてきたことを少し後悔する。
ノアは、緩やかに下る石畳の街路を駆け下りていく。鍛冶屋が作った、通りの看板を潜ると、一気に視界が開ける。崖に沿って緩やかな坂を下ると道は二股に分かれる。
右は、緩やかに下っていて、クネクネと2度うねるように曲がった後、深い森に入っていく。その先は大きな港をもつ都市、ニコラスがある。
森には悪い魔女がいると噂される古くて大きな館があって、迷い込むと喰われてしまうから決して近づいてはいけないと、大人たちは口をそろえて言う。
三年前に子供がさらわれて、以来戻ってこないとか・・・
あまり言うことを聞かないなら、あの館に連れて行くとか・・・
大人は、事あるごとに、子供たちを大人しくさせるためにこの森の話をする。
子供たちは、昔話を交えて、幾度となく、この恐ろしい館の話を聞かされてきた。小さい頃は、夜、トイレに一人で行けなくなったりと、例外なく恐れるが、年齢を増すごとに、子供たちは、そんなの迷信だと笑うようになる。
それでも、夜、森に近付こうという子供は居なかった。
いや、大人でさえ、日が暮れてから森を抜けるのを嫌がった。
二百年前、ここで起こったあまりにも凄惨な悲劇を直接知るものはもういない。
だが年老いた者たちの中には、当時を生き延びた祖父母からそのあまりの恐ろしさを聞かされてきた者もいた。
伝えておかねばならぬと、体を震わせ、涙ながらに声を絞り出し繰り出す祖父母たちの言葉は、聞く者の心を恐怖の淵に沈めた。
そして、その時隣接する一つの街が姿を消した事実が、この森に棲む魔女が単なる言い伝えではない事を意味していた。
ノアが通う学校へは、二股の左側の道を上っていく。その先は炭鉱の町、コールへと繋がっている。
そして、その二股の真ん中には小さな人形店があった。
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