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何処へ行くのか、さっぱりわからない。 だが傘の大群は、素知らぬ素ぶりで、何も言わず、ただこちらをがんじがらめに拘束し、何処かへ運んでいるようだ。 傘の取手の部分がこちらの身体に絡みつき、背中のリュックも取り上げられ、拘束された格好になっていたが、痛くはなかった。 暗黒の天空の上から、イルミネーション煌めく下界の街を一望に見渡せた。 人ごみに溢れた街。 あの人ごみが、何処へ向かっているのかさっぱりわからない。 今の自分と何も変わりはしない。 あの人ごみの中に、ちょっと前まで飲み込まれ、紛れ込んでいた。 誰でもない人ごみの一部になることでしか、"人間"足り得なかった。 だが今は、あの人ごみの末路がとても儚く感じられた。 誰でもない人ごみは、きっと都市の藻屑と消えるだけだから。 それもいい、と思っていたはずだが… ふと、天空から、ある光景が見えた。 それは走馬灯のような一つの人生の瞬間、瞬間だったが、何故そんなものが見えたのか、わからなかった。 傘の大群は、しばらく暗黒の夜空を上昇し続けているように思えたが、ある時から急降下しているようだった。 下界との距離が徐々に縮まっているのを感じる。 何処へ向かっている? いや、どこに落下するつもりなのか? やがて傘の大群は、凄ざまじく乱暴に、まだ宙空に浮かんでいる状態で、こちらの拘束をいきなり解除した。 当然、引力の法則通りに、身体を地面に叩きつけられた。 幸い、なのか、着地点があらかじめ決められていたのかは知らぬが、土の地面に叩き落とされた。 どうやら、何処かの民家の庭のようだ。 ふと気がつくと、傘の大群はもう何処にもいなかった。 すかさず真夜中の天空に目を凝らしたのだが、すでに傘の大群は全く見当たらなかった。 一瞬のうちに何処かへ消えてしまった。 何が何だかまるで訳がわからない…。 と、その時、民家の中から騒々しい物音がした。 誰かが叫んでいる。 何が起きている? 窓越しに人の影が見えた。 最初はよく見えなかったが、それは "彼女"だった。 手に何かを構えているのが見えた。 どうやら拳銃のようだ。 おもちゃを振り回しているだけだと最初は思ったが、家屋の中から響き渡る切羽詰まった叫び声からして、そうではない凶々しさを感じた。 あのネットカフェで、彼女は、あの背の高い黒人と会っていたのを思い出した。 最初は、彼女の"客"だと思った黒人は、数分もしないうちに、ネカフェから姿を消したから、どうやら客ではない。 その後、黒人は拳銃密売人として逮捕された。 すると… 彼女は、あの黒人から拳銃を買ったのだ。 今、その拳銃を振りかざしている。 いきなり銃声がした。 それを聞いて、何故か矢も盾もたまらず、目の前の民家の中に駆け込んだ。 自分でもよくわからないが、そうするしかないと思った。 玄関は開いていて、彼女がいる居間の方まで走りに走った。 居間に到着すると、彼女が拳銃を構えるその前には、一人の中年男が顔面蒼白で立っていた。 その横に倒れこんだ状態で、中年の女性が彼女に制止の言葉を投げかけていた。 血走った目つきの彼女。 こんな殺気に満ちた目つきを、今まで見たことがない。 しかし、何故か、そんな彼女が"他人"とは思えなかった。 「や、やめろ…」 小さくか細い声で、そう告げた。 まるで聞こえないくらい小さな声だったが、それで彼女は、自分という闖入者の存在に気づいたようで、その身を一瞬震わせた。 「やめろ」 「誰?」 「あんたの客だ」 「はあ?覚えてないね」 「まあそうだろ。だが、やめるんだ」 「お前に関係ない」 「その通りだが、やめろ。…俺みたいになるな」 「はあ?」 「俺は親父を刺して、今逃げている。このまま死ぬつもりだったが、何故か今ここにいる羽目になった。何でかわからんが…。あんたまで同じ思いをすることはない」 「わかったような口を利くな!お前に何がわかる?!」 「何にもわからんが、俺みたいになるな」 「こいつに何をされてきたか…!この日のために、私は!金を作ってやっとこいつ(拳銃)を手に入れたんだ!邪魔するな!」 その時、一瞬、彼女が視線を逸らした。 その隙に、彼女に飛びかかった。 彼女は激しく抵抗したが、散々揉み合った挙句、彼女の手から拳銃を引き剥がした。 「返せぇ!!」 彼女は凄ざまじい声を上げて泣きながら絶叫し、こちらをこれ以上ないほどの憎しみを込めて睨みつけた。 目の前で、顔面蒼白になって突っ立っている中年男の方を見た。 彼女の父親だろう。 急にヘラヘラ笑って、媚びるような目でこちらを見ている。 中年男に静かに近寄った。 そしてすぐに、奴のこめかみに拳銃を突きつけた。 「ひぃ…!」 途端に中年男は、恐怖に怯えきった目つきに変わる。 「彼女に二度と近づくな。わかったか?」 「は、はい!」 「あんたが何をしてきたか、だいたい、わかるよ。こいつはその報いだよ。受け取ってくれよ」 中年男に拳銃の銃把を向けてから、思い切り銃把で奴の顔を殴りつけた。 少し鮮血が飛び散ったが、中年男は声も出さず、その場に倒れ込み、気絶した。 彼女の手を掴んだ。 また激しく抵抗されたが、何度も力を込めて握り直して、そのまま彼女の身体を引っ張り、部屋から引きずり出した。 彼女の手をさらに強く引き続けて、家から外に出た。 庭の向こうに車が停めてあるのが見えた。 家の中に戻って、横たわっている中年女性(きっと彼女の母だろう)に車のキーを渡してくれるよう頼み、キーを受け取ってから家を出た。 停めてあった車に乗り込む。 彼女を助手席に乗せて、車を走らせた。 何処へ向かうのかは、全く決まっていないが、車をひたすら走らせた。 さっきまで暴れていた彼女は、助手席に押し込められてからは大人しくなっていた。 何も口を利かず、真夜中の暗黒のハイウェイを走り続けた。 かなりスピードを出していたから、この時、パトロールしている警察車両にでも見つかっていたら、間違いなく制止されていたろう。 この街にも、何処にも、もう帰るつもりはなかった。 このまま、暗黒のハイウェイを何処までも走り続けるだけだ。 「あいつに、毎週月曜日、犯され続けたの…」 急に助手席の彼女が話し始めた。 「黙れ。話さなくていい」 「あいつは月曜日にだけ、家に帰ってくる。私を抱くためにね」 「喋るな!」 「ああするしかなかったのよ。いつまでも終わらない悪夢を終わらせるためには…」 「喋るな!わかってるよ!わかってるから喋るな!」 「何であんたにわかるのよ?」 「わかるんだよ。信じないかもしれないが、俺は訳の分からない傘の大群に捕まって、あんたの家の庭まで運ばれて叩き落とされたんだよ。その時、天空の上から、あんたの全てが見えたんだ」 「ええ?そんなこと…」 「信じられる訳がないよな。だが本当なんだ。あの傘の大群に捕まって、真っ暗な夜空を飛んでいる時に下界を見下ろした。その時に"見えた"んだよ。あんたの人生が。走馬灯のように、その一瞬、一瞬が」 「…。」 「だからもう話さなくていい。もう全ては終わったんだ。あいつに会うことはもう一生ないんだよ。もう全ては終わりだ」 「…うん」 「その物騒なものをくれよ」 「え?ああ…」 「そんなものはもういらないだろ」 「うん…」 彼女は拳銃をこちらに手渡した。 受け取ってしばらくしてから、車窓を開けて、拳銃を車道の横を流れる川に放り投げた。 「ねえ…何処へ行くの?」 「さあね。ただ車を飛ばしてるだけだ。行く宛もないが」 「さっきあなた、親父を刺したとか言ってたけど、本当なの?」 「ああ。親父は明らかにある不正をやっていてね。俺は自首を勧めたが、まるで生き証人を隠滅するように俺を殺そうとした。揉み合ってるうちに、俺が親父を刺したのさ。だが、そんな事実も隠滅されてしまった。親父は空き巣に刺されたと警察に証言し、何もかも有耶無耶にされたよ」 「へえ…」 「もう全て終わりだ。もう何処にも帰る場所はない。このまま車を飛ばして何処までも行くのも悪くないと思ってる」 「何処かに行けるのかな?」 「さあ。でもどうせ終わっちまった人生だ。何処にも行けなくても、走り続けることは出来るだろ」 「そうね。親父をブッ殺そうとしといて、今更、"私の居場所"もクソもないわね」 「俺も似たようなご身分だ」 ふと、車のフロントガラス越しに、真夜中の天空に浮かぶ、あの傘の大群が見えた。 こちらを見守っているように見えたが、気のせいか。 何かを示唆しているように見えたが…。 しかし、しばらくすると、傘の大群は天空を移動し、さらに高く高く舞い上がっていった。 いつの間にか、目の前に聳え立つ高層ビル群の上にまで飛翔し、そのままさらに高く天空を舞い上がり、その内、見えなくなった。 きっともう、見ることはないだろう。 都市の高層ビル街の空を飛び交う、空飛ぶ傘=スカイアンブレラ。 都市伝説のように言われているが、ある時、人は、それを目撃することが出来る。 「なるほど。ここからは手前ーらで何とかしろってことか。わかったよ」 そう独り言を呟くこちらを、不思議そうに彼女は眺めていたが、しばらくして「変なの」と呟きながらクスリと笑った。 それは、初めて見た彼女の笑顔だった。 (終)
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