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渋谷のスクランブル交差点。 今日何十回目かの横断。 人ごみに紛れている時だけ、まだ人間をやっている実感が戻る。 スクランブル交差点を渡る、誰でもない、匿名の横断者。 人ごみの中の、誰でもない一人。 いや、"一人"として認識されることもない、名も無き人ごみの一部でしかない。 でも、そんな人ごみの一部に、誰でもなく紛れ混んでいる時だけ、まだ自分が、人間をやっている実感が戻る。 誰でもない、名も無き、何一つうまく行くこともない、人ごみの一部として、 今、生きている。 今日もネカフェに深夜一時になったら泊まるしかない。 今日も、と言っても、実はかなりの贅沢だ。 一昨日は公園で寝泊まりしたし、そんな夜もざらにある。 バイトで貯めた金はまだ残っているが、無闇に使うわけにもいかない。 それぐらいの冷静さはまだ残っている。 ネカフェでは、yahooニュース他、地方のネットニュースまで隈なく見る。 だが、こちらが知りたいことは、まだニュースになっていなかった。 もう1週間も経つというのに… どこかに、永遠に消えてしまいたかった。 もう人生は 全て終わっている。 今は人ごみに紛れ、人ごみの中の匿名の一部として、最後の人間らしさを味わっていたかった。 冷酷にこちらを見下ろす高層ビル群が、随分と優しく思えた。 高層ビルは、きっとこう言っている。 "いつまでも、誰でもない都市の藻屑として、そこに居ていい"と 高層ビル群は、こちらを誰でもない人ごみの一部として、都市の藻屑として徹底的に見下しながら、冷酷かつ優しく何も言わなかった。 何十回スクランブル交差点を横断しようとも、こちらを見る人は誰もいない。 ただ、すれ違うだけ。 それで良かった。 横断者たちは、こちらを人ごみの一部か都市の藻屑として無視することで、自分を"同じ藻屑"として、まだ生かしてくれていた。 渋谷駅に到着した電車から、人ごみの塊がまた吐き出されたのが見えた。 人ごみは、スクランブル交差点に合流する。 その人ごみに飲まれているうちに、人間らしい気持ちがまた胸に拡がる。 自分はまだ、誰とも変わらぬ、"人ごみの一部"として生きていることが確認出来たから。 もうあの家にも、そしてこの街にも帰ることはないだろう。 そのうち自分は、訳も分からないうちに、都市の藻屑からも消滅してしまうだろう。 ふと、スクランブル交差点の真ん中で、見知った顔を目撃した。 金髪の長い髪にピアス、へそが見えるショート丈のTシャツに、穴あきのスキニーパンツを履いた、脚の長い美しい顔立ちをした彼女。 名前も知らない。 だが一夜を共にした女性だった。 もうそんなこと全く覚えていないように、こちらの顔をチラ見しても、彼女は平気で無視し続けた。 ただの客だと言えばその通りだ。 それ以上でも以下でもない。 彼女がどういう暮らしをしているのかも全く知らないし、これからも知ることはないだろう。 というか、彼女と話をすることももう無いだろう。 彼女は、自分と同じく、まだ10代だろうが、限りなく遠い世界にいる存在に思えた。 たぶん、ここで援交をやり続けているんだろうが、きっとそれが彼女の青春を謳歌する方法なのだ。 もはや存在を、人ごみの中に消滅させて藻屑と化していたい自分とは、真逆の人生だろう。 深夜1時に、センター街の奥にあるネットカフェへ。 個室に入ってからパソコンに向かい、ネットのニュース記事を隈なく追う。 今日も、ある記事をひたすら探索し続けた。 一つ近い記事がヒットしたが、地域が違った。 何故か、記事になっていない。 実は図書館へ行って、新聞も何紙かチェックしたのだが、その記事は載っていなかった。 疲れていた。 今夜はネットを見るのをやめにして眠ることにする。 椅子をリクライニングシートのように倒して、身体を預けた。 少し喉が渇き、フリードリンクを一杯飲んでから眠ることにした。 個室を出て、冷たいミルクシェイクやストロベリーシェイク、ココアシェイクが入ったポットが置いてある場所へ行く。 冷たいココアシェイクをグラスに注ぎ、個室に戻ろうとした時、また彼女を見かけた。 彼女もこのネカフェに泊まるつもりなんだろうか? そう思いながら、何気なく彼女の方を見ていると、ふと目が合った。 相変わらず、すぐに視線を逸らし、無視を決め込む。 まあそれでいい。 こっちは一回こっきりの、只の客だ。 そういう対応が普通というものだ。 そう思って、こちらも視線を逸らし、グラスを手に個室へと戻ろうとした時、かなり背の高い黒人が目の前を素通りした。 黒人は彼女の方へ向かって歩いていき、そばまで行くと、不意に彼女の肩を叩いた。 黒人に気が付いた彼女は、そちらを見てチラッと笑みを浮かべたが、しばらくすると、黒人の大きな引き締まった身体に手を回して、二人でその場から歩き去り、見えなくなった。 こんな時間までご苦労様なことだな、と思った。 どうせ、あの黒人も彼女の客だろう。 喉が渇いていたこともあって、不意にその場で冷たいココアシェイクを飲み干してしまった。 少し気を落ち着かせたかった。 その後、また冷たいシェイクの入ったポットの前まで行き、今度はストロベリーシェイクをグラスに入れて個室に戻ることにした。 ふと、さっきの黒人が、ネカフェの出口の方へ歩いて行く後ろ姿が見えた。 彼女と対面してから3分も経っていない。 あの黒人は客じゃなかったのか? ただの知り合いか? まあいずれにしても自分には関係ないことだ。 他人の交友関係なんか今更どうでもいい。 個室に戻って、グラスに入った冷たいストロベリーシェイクを飲み干した。 リクライニングシートの状態にした椅子に凭れて、そのまま眠ろうと思ったが、不意に目の前のパソコンが気になり、またネットニュースを探索した。 5分だけ見て、今夜は眠るつもりだった。 あるニュースを発見するまでは。 それは地方版のネットニュースだった。 よく知っている地域のローカルニュース。 中年男が先週の月曜日に、空き巣に刺されて怪我をしたニュースだった。 中年男の名前には見覚えがある。 よく知っている人物だ。 だがニュースの内容には違和感があった。 事実を何一つ伝えていなかった。 記事は被害者の中年男の証言に基づいて書かれていたが、その証言自体がまるで事実とは違っていた。 中年男は"空き巣の顔を見ていない"と証言しているが、自分は空き巣に入った覚えなどない。 そもそも自分の自宅に空き巣に入る奴なんていない。 欺瞞だった。 全てが、最初から何もかもが欺瞞で嘘ばかりだった。 それであんなことになった。 だが、また嘘ばかりが、まことしやかに伝えられている。 パソコンからは目を逸らしたが、どれだけリクライニングシート状態にした椅子に凭れていても、眠れなかった。 どうせ何もかも無意味だ。 そのことに決着を付けたつもりだったのに、また嘘で塗り固められた無意味に逆戻りだ。 虚無感と空しさ、倦怠感で身体まで気怠くなり、眠ることが出来なかった。 全ては、漆黒に近いブルーに染まっていく。 もう取り返しのつかない闇だけが待っている。 全ては隠蔽されていく。
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