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序章
赤い血が、雪にポタポタと滴った。片腕についた深い傷を押さえ、少年は雪山をさまよっていた。もうとうに日は落ち、月明かりと雪明りの弱々しい光だけが頼りだった。
なんで、こんなことになったんだろう?
鈍く滲んだ思考で今までの事を思い返す。
今朝は、ふもとの村で普段とおりに目を覚ましたはずなのに。凶作の影響で、たっぷりとはいかないけれどご飯だってきちんと食べて、いつもと変わらない一日をおくるはずだったのに。
ほんの少しの食糧と、もっと少ない金目の物をねらって、盗賊が村を襲ったのは、彼が友達と一緒に遊びに行こうとしていた時だった。
背中を斬られた花(ファ)おばさんの叫び声。死にかけている慈(ツー)爺さんのうめき声。そして、血と煙の匂い。
村からこの裏山に逃げ込んだ時は他の生き残った人々と一緒だったはずなのに、気がついたら一人ぼっちになっていた。
雪にかじかんだ足をとられ、楽瞬は倒れこむ。
「う……」
冷え切った頬を伝う涙が熱い。高い空で、風がうなっている。
オオオオオ……
その音によく似ているが違ううなりが、自分の頭のすぐ近くで聞こえ、楽瞬は顔を上げた。
強風にあおられ、地表の雪が舞っている。地吹雪の中、大きな白い影が立っていた。四つの足を持ち、長い尾を持つ雪像のような獣の影。白い虎だった。
「おのれ……! 人間め!」
牙をむきだし、虎は人間の言葉でしゃべった。
「あ……」
楽瞬の頭に、村の大人達から言い聞かされていたことがよぎる。
『村の後ろにある山には行ってはいけないよ』
『あそこには神様がいるからね』
『もしも、神様の怒りに触れたら祟られてしまうよ』
そう、この山は本来踏み入ってはいけない場所。だが、村の人々はここに逃げ込まざるを得なかったのだ。
虎は、病に侵されたようにおぼつかない足取りで、少年に近づいてくる。
「よくも、我が聖地を血で穢してくれたな」
虎は、憎々しげに少年を睨みつけた。
森の木々のざわめき、そこに暮らす生き物たちの命。そんな生命が発する気は、長い年月を経(へ)て、凝(こ)り固まって土地神を生みだす。土地神が護る土地は、そのまま神の体なのだ。
生きるため獣が別の獣を喰い殺す。あるいは病や寿命で獣が死ぬ。その時に流れる血は自然の理(ことわり)のうちで、穢れではない。
しかしその理の外で流れた血や、人間の恨みや憎しみの負の感情は穢れであり、それは当然神に影響を与える。村人が持ち込んだ血と涙で、虎の神は消えかけていた。
もちろん、そんなことは幼い少年が知るはずもない。ただ、自分が踏み込んではいけない場所に来てしまったことだけは感じていた。
「か、神さま、ごめんなさ……」
倒れたままだった少年は、手をついて必死に起き上がろうとする。はやくここを離れ無ければ。だが腕の傷が痛み、再び倒れこんだ。逃げたくても、もう体が動かない。
虎が咆哮をあげた。聞く者の魂を削るような、恨みのこもった咆哮だった。
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