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峰岸千春。
これがお母さんの名前、と糸湖は心でその名を唱える。
古邸の言う通り、診察の度にピンクのペンで一言書いてあった。あまり綺麗とは言えない文字だが嬉しい胸の内が現れていた。
『本当にここにいるんだね』
『おなかパンパン!』
『動いた!』
『早く会いたい!』
『順調! いい子!』
確かに。この手帳からは自殺願望など微塵も感じられない。
さらにめくるとメモ用のページに大きく書かれた〈糸〉という文字と沢山の〈こ〉と呼べる漢字が目に留まる。
「〈いとこ〉って名前は本当のお母さんがつけたんだねぇ」
糸湖の胸が一気に熱くなる。感嘆の波がチリチリと指先から心の真ん中まで一気に押し寄せ溢れ出す。
「本当は珊瑚の〈瑚〉で〈糸瑚〉にしたかったみたいだねぇ。ほら、ここ。宝物って意味があるからね。素敵だねぇ。でもじいさんが、小野原と合わせると字画が悪いんだって言ってね、候補の中にあった〈湖〉で〈糸湖〉にしたんだねぇ」
どれだけ振りかの幸せな涙が糸湖の頬を伝う。温かい。なんて柔らか雫なのだろう。
「それに、ほら」
美鶴子が鞄から取り出した物を糸湖に差し出す。それは白い毛糸と作りかけのベビーシューズ。
「お世辞にも上手とは言えないけどね。愛情がたんまりこもってる。これを作った母親は未来に希望しか持ってないよ」
しみじみと頷いて微笑む美鶴子。糸湖もうん、と頷いて笑った。
ということはやはり。
「間違えて乗っちゃったのかな?」
「そうだねぇ。多分何人かは普通に乗ったんじゃないかと思うよ。コンビニのお弁当があったりしたから。とても残念だねぇ……」
なんともやり場のない思いが糸湖を埋め尽くしそうになる。糸湖は大きく息を吸い込んで、そんな思いと一緒に吐き出した。
「じいちゃんが村人との入れ替えを思いつかなかったら私は気付かれずに死んじゃってたんだよね。あ、そっか、山田さん、優君? がネットでその情報を見てなかったら、バスが落ちる所を見てなかったら……」
何とも言い難い視線を古邸におくる糸湖。それを受け止めて古邸はしんみりと頷く。糸湖はニッと笑顔を作って頷き返し美鶴子を見た。
「美鶴子さんにも色々お世話になったんですね。ありがとうございます!」
美鶴子も微笑んで頷き、古邸は胸を張って得意気に言う。
「ボクもここにいる間はおむつを替えたりお風呂に入れてあげたりしたんだよぉ」
「えぇ!」
「ここに三つ並んだほくろが可愛いんだよねぇ」
古邸が指さしたこことは丁度胸のあたりだ。糸湖は反射的に胸を両腕で隠す。
「変態!」
「何で? 赤ちゃんの世話したら変態?」
「エロオヤジ! セクハラ!」
ひたすら何で? を繰り返す古邸をよそに美鶴子は糸湖に着替えを促し二人は病室を出て行った。
クスリと力を抜いて思いっきり猫背を全開にした古邸は蓮を見る。
蓮は薄く瞼を開き、穏やかに窓の外の入道雲を眺めていた。
夕食時、何事もなかったように現れ人一倍唐揚げを頬張っている蓮。糸湖は驚きつつも安堵し呆れた声をあげる。
「本当にいっぱい食べるよね」
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