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 いつだったかネクタイをプレゼントしたのに全然つけてくれなかった。それで拗ねていたら、大切過ぎて使えないんだと義一郎は言った。  一事が万事その調子で、糸湖も懲りずに身に着ける物をあげてしまうものだから、このやり取りは定期的に繰り返されていた。  義一郎が愛用していた鞄も随分とくたびれていて、糸湖は初めてのバイト代で新調してあげたのだが部屋の置物にしていたので無理やり中身を詰め込んでやった。  しばらくじっとしたまま動かなかった糸湖が大きな声をあげる。 「リュック!」 「え?」  ビクリと肩を浮かせた祐貴がノート片手に糸湖の方を向く。 「リュックがない! 昔からずっと使ってた汚いリュック……」  祐貴はハッとして糸湖としっかり視線を合わす。 「昨日の男、確かリュックを担いでいましたよね?」 「……そうだ! 間違いないよ!」  糸湖はそわそわとその場を行ったり来たりする。 「ということは、リュックに入る程度の何かは持ち出している。あるいはリュック自体が目当てということも……」  正直、現状では考えても何も分からない。何もかもが偶然なら考えるだけ無駄でもある。 「あ!」  糸湖が再び大きな声を出す。 「何か思い出しましたか?」 「今日ってあの日だよね!? まだ間に合う!?」  蓮に向かって言う糸湖。腕時計を見て蓮はイエスと目配せをした。 「今日、大学に桜羽(さくらば)芙弥香(ふみか)が来るの!」 「あの、大女優の!?」  キラキラ目を輝かせて言う糸湖に、祐貴も背筋をピンと伸ばして食いついた。  桜羽芙弥香 四十九歳。  十六歳で華々しく銀幕デビューを果たした日本を代表する女優である。  その後若干十八歳で〈寒椿〉のリメイク作品の主演に抜擢される。  最初は若い新人女優が脱ぐという話題作りだろうと色々叩かれたが、公開するやそれは全て賞賛に変わった。  完全なる美貌と若さゆえ醸しだされる儚さ、十代とは思えぬ色香と妖艶な雰囲気を併せ持ち、ヌード云々と抜かす記者や評論家をその確かな演技力で黙らせる。  その年の日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞にも、誰も異論を唱えるものはいなかった。その後も数々の大作や大河、ハリウッド映画にも出演し、その地位を確固たるものにする。  デビュー三十周年を過ぎて、映画作品への出演こそ目立たなくなったものの、今も尚その知名度は揺るぎない。十代の頃から出演している化粧品ブランドのCMでは、今はアンチエイジング商品の広告塔として高い訴求力を発揮している。  最近ではバラエティ番組に今が旬の若手女優の憧れの人として出演し、その気さくさと美魔女ぶりで若い世代にもより人気を得ていた。  そんな大女優が大学の特別講師としてやって来るのだ。  糸湖たちの大学はお世辞にも有名でもなければ歴史や権威もない。そんな大学に来てくれるなんて奇跡みたいなものだ。  糸湖は御多分に漏れず、ずっと前からこの日を待ちわびていたのである。ゼミでもバイト先でも仲間内で騒いでいたので蓮も今日のことは知っていた。 「大学に行っても……?」  糸湖はさすがにこの状況で、と思い少し控えめに上目使いで祐貴を見る。
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