第1話・その日、めぐり逢ってしまった

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第1話・その日、めぐり逢ってしまった

 「あ、お帰りなさぁい」  「……っ」  玄関のドアを開けた瞬間、パタパタと小走りに近づいてくる可愛らしいスリッパの音に、啓次の胸はキュッと締め付けられた。  三月の半ばにここへ越してきてから早三週間。  いい加減都会の水にも風にも順応してきたつもりではいたが、この帰宅の瞬間だけは一向に慣れてくれる兆しはない。  いつもいつもドアの前である程度心構えはしているはずだというのに。  「お帰りなさい、啓次さん」  音と声の主であろうエプロン姿の若い女性が、屈託のない笑みを浮かべて啓次に言った。  「た、ただいまです」  「今日もお勤めご苦労様でした。お風呂にしますか?お食事にしますか?」  「えと……どちらでもいいんですが……」  「うーん、それじゃぁ……」  簡単な選択にも相も変わらずの優柔不断ぶりを披露する啓次の態度に気を悪くした様子もなく、女性は彼の代わりに悩んでくれた。  人差し指を唇に当てて考え込むその仕草は、他の者がすれば少々あざとく見えたのだろうが、彼女の場合、不思議と自然な可愛らしさがあった。  「では、お食事にしましょうか。啓次さんがアルバイトを終えて帰宅なさる時間に合わせてお夕食を作りましたので、今がちょうど食べごろだと思います」  「あ、じゃあそれで」  「はい。それでは、ちゃんと手洗いとうがいをしてから食卓に来てくださいね。季節の変わり目は風邪を引きやすいですから」  「わかりました……」  「そんな風邪菌にも負けない、美味しいお料理をたくさん作りました。楽しみにしていて下さいね♡」  「ありがとうございます……義姉さん」  終始ニコやかにしていた顔へ更に大きな笑みを張り付け、女性はダイニングへと向かった。  その去っていく背中とふんわりとしたロングスカートの下で揺れるお尻を見つめる啓次の動悸は、またパタパタとなる彼女の鳴らすスリッパの音をかき消してしまうほどに激しかった。  ***  まるで新婚夫婦のテンプレートを殊更初々しくトレースした甘々な会話を繰り広げてはいたが、啓次と彼女、塚原巡莉(つかはらめぐり)の間には婚姻関係もなければどのような形の恋愛関係も介在しない。  ならば彼らの関係性を示す単語は何か?と問われれば、どうということすらもない。  彼らは単なるどこにでもいる義弟と兄嫁、ただそれだけの間柄でしかなかった。  ***  啓次の兄、賢一(けんいち)が結婚する相手だと言って実家に巡莉を連れてきたのは今から三年前。  ちょうど啓次が高校生に上がった年のゴールデンウィークだった。  大学の先輩後輩の間柄にあったらしく、巡莉が大学を卒業すると同時に婚約。  彼女の親類からは、結婚なんてまだ早計ではないかという声も少なからず上がったが、結局、その頃にはもうバリバリの商社マンとして働き経済能力も将来性も十分だった賢一にとって、その反対意見は路傍の石ほどにも障害になり得なかった。  「初めまして、賢一さんの婚約者の巡莉と申します」  「……(ポー)」  「弟さん……啓次さんでよろしかったですか?」  「え、あ、は、はい。どうも……」  一目見た時から啓次は巡莉の美しさに心を奪われた。  どこまでも真っすぐで艶やかな長い黒髪。  黒目が大きなパッチリとした瞳。  派手さは無いものの決して地味などではない、育ちの良さを自ずと感じさせる清楚な佇まい。  彼女を形作るパーツ一つ一つに、中年太りへと身をやつす母親、騒がしいだけのクラスの女生徒、疲れ枯れ切った学校の女教師たち、男勝りな幼馴染とは一線も二戦も画す瑞々しい輝きがあった。  だが啓次の胸をざわつかせたのは、その大和撫子を地で行く有様というより、父親の下世話でつまらない話や母親のくだらない冗談にも嫌な顔をせず、クスクスと笑うまるで少女のような愛らしい笑顔……。  そして、その反面、ゆったりとした服を着ていても隠し切れない大きくツンと張り出した乳房や臀部の淫靡なボディラインという、ギャップの方に合った。  押し出しの強い賢一とは違って極度の人見知りな啓次は、彼らが滞在した連休期間中ずっと緊張し通しだった。  地元の観光名所巡りや買い物に無理矢理引っ張りまわされたのだが、皆が年甲斐もなくはしゃぐ中、啓次だけは終日気疲れのために元気が無かった。  そんな次男坊の心情を重々承知した上で、両親も兄も、それを事あるごとにあげつらい、何度も悪趣味に啓次をからかっては意地悪く笑い合っていた。  しかし、その度、巡莉だけは唯一啓次を擁護するように振る舞い、隙を見つけては親し気に、されど踏み込み過ぎない丁度良い距離感を保って話しかけていた。  ―― まぁ、これからお嫁さんになる家の家族。愛想よくするよな、普通 ――  多少ひねくれた考え方ではあったが、兄の歴代の恋人にも似たような振る舞いをされた経験がある啓次が警戒するのも仕方がなかったのかもしれない。  幾ら巡莉が優しさを見せようとも、どうせ陰では自分のことを『気持ち悪い』だとか『何を考えているかわからない』だとか兄に言ってるのだろうと決めてかかり、啓次は彼女に対し、頑なに心を開こうとはしなかった。  そんなこんなで大型連休もあと二日、翌日に都内へと帰る兄たちとの最後の晩餐となった夕食の席。  いつもよりも豪勢な食事と美人に酌をされていい気になっている父親。  それに付き合いしたたかに酔った兄が、宴もたけなわな頃合いで普段よりも悪辣に啓次へと絡んできた。  話題に困れば啓次のことをからかって場を繋ぐというのが塚原家の通例であったので、こちらも結構な酒の入った母親も止めに入ることはなく便乗したわけだが、その日はいささか醜悪に過ぎた。  礼儀や人権はことごとく無視され、肉親であろうとなかろうと……いや、肉親であればこそ決して一人の人間に対して言ってはいけないはずの言葉の数々が軽々と倫理のボーダーラインを越えて啓次に浴びせかけられた。  楽しいはずの食卓は、瞬く間にただ啓次の気弱な人となりを弾劾する場と化した。  強引に飲まされた慣れないアルコールにクラクラとして気持ちが悪かった。  それ以上に執拗に繰り返される自分の人格批判に胸糞が悪かった。  啓次は顔を真っ赤にしてうつむいた。  いつもならばヘラヘラと笑って交わすか凹むだけ凹んでどうにかその場をやり過ごすものだが、今回のものは一際タチが悪かった。  「……啓次さん……」  「っつ!!」  何よりそこに巡莉がいた。  巡莉という他人、それも若くて美人な女性の前で自分の人格を頭から批判をされることは、堪らなく侮辱的で本当に苦痛だった。  ―― こんな風に生み、こんな風に育てたのはお前らだろう! ――  と啓次の内心では怒りと悲しみがごちゃ混ぜになったよくわからない感情がこみ上げていた。  どれだけ他人に何かされ、不平や不満があったとしても、怒りや涙の前にシュンと萎縮してしまうくらいヘタレな彼であったから、激情にかられ、唇と拳をギュッと握り込んだことなど、この時が人生で初めてだった。  そして、そのまま。  これもまた生まれて初めて誰か他人に対して溜めに溜めた感情をぶちまけようかと震えてキッと上げようとした啓次の顔を、フワリと何か柔らかくて優しいものが包み込んだ。  「もう、やめて下さい!」  凛としたその声は、啓次のゼロ距離から響いた。  「みなさん幾らお酒が入っているとはいえ、言い過ぎです!自分の子供ですよ?自分の弟ですよ?どうしてそんなに酷いことを……それも笑いながら言えるんです!?ほら、啓次さんこんなに怯えて、震えて……可愛そうに……。それでも家族ですか!?」  巡莉だった。  巡莉が小柄な体を目一杯に広げ、うつむく啓次の顔を自身の豊満な胸へと力の限りうずめるままに将来の夫やその親を鋭く睨んだ。  「どんなことがあったって、何があったって、家族は家族の味方でなければならないんです!家族ってそういうものでしょ!?ずっと笑いあえれば一番ですけど、時にはぶつかり泣かせてしまうことだってあるでしょう。でも、世界中が敵に回っても家族だけは家族のことを蔑んだり貶したりしてはいけないんです!愛してあげなくちゃダメなんです!!それなのに……それなのに……これは違います。こんなのは……ただのイジメです!!こんなのは酷すぎます!!」  語気が強くなるにつれて巡莉の腕の力も増していき、増した分だけ、啓次は更に柔らかな乳房に顔を沈めていく。  巡莉が庇ってくれたのが嬉しかったのか、押し付けられる両乳房の間から漂う甘い女性の匂いが慰撫したのか。  啓次は先ほどまで兄や両親に殴りかかることも辞さないほど荒らぶっていた心が、急速に落ち着いていくのを感じた。  おそらく、兄たちの酔いも同じように冷めていったに違いない。  「い、いや、巡莉。あのな、これはいつもの家族のおふざけで……」  「いつもですって!?いつも啓次さんに……実の弟にこんなことをしているんですか、賢一さん!?」  「だ、だからさ……」  「謝って!!今すぐに!!」  身動きの取れない啓次の目には、襟ぐりからはみ出した巡莉のブラジャーの上部に施された精緻な白いレースと、それに包まれる上乳しか見えなかったが、この場でとにかく真っすぐに前だけを見据えているのはただ彼女だけであろうことは容易に察することが出来た。   「……めぐり……さ……ん……」  それからどうなったのか、そしてどうしてそうなったのか。  急激に訪れた眠気と寒気のためにしばらくボンヤリとし放心状態が続いた啓次に、詳しい経緯はわからなかった。  誰かに何かを言われるままに部屋へと戻った気がする。  閉めた部屋のドア越しから誰かと誰かが何かを言い争っているような声が聞こえたような気もする。  誰かにパジャマに着替えさせられたような気もするし、そっと誰かが震える体を寄り添って温めてくれていたような気がする。  ―― ごめんなさい、そっち、狭くはないですか? ――  ただ啓次が確実に言えるのは……。  目を覚ますと、自分が暗い部屋のベッドに横になって布団を被っているということと、その傍らに寝間着姿の巡莉が横たわってニッコリと笑っていたということだけだった。 ***
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