第4話・そして、恋になる

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第4話・そして、恋になる

 「……巡莉さん?」  「……(キュッ)」  それまでの熱のこもった締め付けから打って変わったその力のない抱擁が決め手となり、荒々しいまでに昂った啓次の衝動は直滑降で落ちてしまった。  「あの、巡莉さん?」  「いい……んです……」    「え?」  「いいんです」  「えっと……いいって……」  啓次の問いかけに、またも巡莉は『いいんです』という答えを返した。  「いいんです。いいんですよ、啓次さん」  「いいって……なにがですか?」  「いいんです……いいんです……いいんですよ……」  「……巡莉さん」  繰り返される、そのとりとめのない言葉の意味を啓次は理解できなかった。  しかし、なんなのだろう?  その巡莉の『いいんです』は、居間で肉親たちの心無い仕打ちから彼を庇った抱擁のように、暖かくて柔らかくて優しくて……それでいてどこか切実なものが含まれていた。    混乱も興奮もない眼で、啓次は改めて巡莉の顔を見つめた。  つられるように、巡莉も顔を上げて啓次を見返した。  互いにまだ息も荒く、啓次に至っては油断をすれば晒されたままの巡莉の乳房や乳首へと視線が飛びそうになってしまいそうだったが、それでも彼は、仄暗い室内で微かに揺れる彼女の瞳をジッと見つめた。  ―― いいんです ――  巡莉の瞳は口と同じようにそう語っていた。  そこにどんな意味がどれ程までに含まれているのか……啓次にはそれ以上深く考察することはかなわない。  このまま快感に身を任せてしまっていいのか?  兄嫁という立場の女性とこんな淫蕩に耽ってもいいのか?  ずっと抱き合っていてもいいのか?  我慢仕切れずにこのまま押し倒してしまってもいいのか?  ……あるいは……。  こんな情けないままの、人に流される男のままでもいいのか?  何もせず、何も考えず、ただ誰かが引いてくれるその手をだまって掴めばいいのか?  こんな……  こんな……  僕が……  僕なんかが……  何の取柄も無い僕なんかでも……  生きていて……いいんですか?  ………  ……  …  「……(ギュッ)」    「……啓次さん」  気が付けば、啓次は巡莉を抱きしめていた。  体を折り曲げ、彼女のたわわな乳房に顔をうずめ、そっと目を閉じる。  「…………」    「……啓次さん」  見た目よりもずっと優美な曲線を描く丸味を帯びた女性的なライン。  押し当てた頬の下でグニャリと形を歪める乳房の柔らかな肌触り。  清潔でありながらどこまでも蠱惑的な石鹸と汗の混じる香り。  自分の方から能動的に抱いたことで、啓次は巡莉の体の細やかな部分をより敏感に感じとることができた。  そして、彼が心の中で密やかに驚いたのは、巡莉が思っていたよりもずっと華奢で小柄な女性だったということだ。  七歳も年上の大人。  いつでも静かに微笑んでいる余裕のある佇まい。  あちらこちらと主張の激しい体つき。  そんなものから、啓次はなんとなく彼女はもっとみっちりと中身が詰まり、どっしりとした重量感のある不動の大木みたいな存在なんだというイメージを勝手に持っていた。  だというのに、こうして自分が今すがりつき、抱きしめた体のなんと細く頼りないことか。  決して手足が特別に長いわけではない啓次ではあるが、その回した腕さえ余り気味になるほど、巡莉は小柄であった。    「…………」  それだけのことで、啓次は何故だか安心した。  「……巡莉……さん……」  この巡莉という未だに底が掴み切れない謎の人物も、また一人の女性、自分と同じく弱い部分をかかえた人間なのだという事実が、啓次には嬉しかった。   ……なので。  「……(ギュゥッ)」  甘えてしまう。  「……(ギュゥゥゥッ)」  「啓次さん……」  もっともっと、この人に体も、そして心も近づきたいと思ってしまう。  「……もう少しだけ……こうさせてくれますか?」  「……はい。もちろんです」  「すいません、すいません……こんなこと……本当はしちゃいけないなのに」  「いいえ、啓次さん。いいんです、いいんですよ」  「兄さんのお嫁さんなのに……恋人でもなんでもないのに……」  「いいえ、いいえ、啓次さん。何も考えないで、啓次さん……」  ギュゥゥゥゥ……  「恋人ではありませんが、私は家族です。貴方のお姉ちゃんなんです。辛いことがあった時……哀しいことがあって一人で泣きそうになった夜の弟くんは、お姉ちゃんに抱きしめられながら眠るものです……ね?啓次さん?もっと……もっとお姉ちゃんに甘えて?」  「……巡莉さん……義姉さん……」  「はい……はい、お姉ちゃんですよ」    「義姉さん……義姉さん……」  「はい、いい子、いい子です、啓次さん。……ゆっくり眠って、嫌なことは全部忘れましょ?ね?啓次さん?」  優しい手つき。  愛おし気な手つき。  全身を撫でられた時のようなネットリとしたものではなく。    ただただ、泣きじゃくる子供をあやすような……怖い夢を見て目を覚まし、布団にもぐり込んできた弟をあやす姉のような慈しみだけを込めて、巡莉は啓次の頭をゆっくりと撫でた。  「義姉さん……義姉さん……」  「いい子……いい子……貴方はとってもいい子……」  「義姉さん……義姉……さん……」  「このまま眠りましょう、啓次さん。貴方が眠るまで、ずっとこうしていてあげますから」  まるで魔法でもかけられたかのように、巡莉が眠れといった途端、急激に啓次の元へと睡魔が訪れた。  その眠気は抗い難いまでに圧倒的で、何よりも抵抗なんてする気も起きないほどに心地の良いものであった。  「おやすみなさい、啓次さん。良い夢を」  「まだ……もうちょっと……だけ……」  それでも啓次は眠ってたまるかと必死に覚醒にすがりついた。  髪をすく細い指先。  注がれる慈愛の眼差し。  白い乳房と固く張った淡い色合いの乳首。  湿った熱を伝えてくる肌。    いつまでもこんな温かな泥の中に浸っていたかった。  いつまででも巡莉の姿を見続けていたかった。  ただ美しかった。  時間も空気も彼女も、何もかもが美しかった。  この一夜の出来事を切り取って永遠に残して置けるというのならば、快く悪魔に魂を差し出す覚悟があった。  そうして切り取られた夜を眺めるだけの余生でも構わないと本気で思った。  「あらあら、甘えん坊さん。……でも大丈夫。今夜だけじゃありません。またいつでもこうしてあげますから。だから今は、眠りましょ?」  「でも……うん……だけ……ど……」  もしもこのまま、僕が求めたのなら……。  きっと……この人は拒まないんだろうな……。  僕は……兄さんのお嫁さんになる人と……。  ああ、わからない……。  いや、わかっている……。  僕はもう……僕はもう……。  この人のことが……。  こんなことをしてもらわなくても、一目見た最初から僕はこの人のことを……。  「……めぐり……さん……」  「はい、啓次さん……」  なんとか残った気力を奮い立たせてどうにか彼女の名前を呼ぶことはできた。  「僕は……ぼ、くは……貴女の……ことが……!」  「いいんですよ」  と、巡莉は人差し指を啓次の口に乗せ、また『いいんです』と言った。  「いいんです。わかってます……わかっていますから……いいんです、啓次さん」  口癖……というわけでもないのだろうが、彼女が何度も口にする『いいんです』という言葉の多様性には本当に驚かされる。  肯定も否定も、  停滞も邁進も、  許しも罰も、  すべてがその『いいんです』に集約されてしまう。  ――どうして彼女はあの時、僕のためにあんなにも怒ってくれたのだろう?  ――どうして彼女はこんなにも僕に優しいのだろう?  ――どうして彼女は僕のベッドに入って添い寝してくれたのだろう?  ――どうして彼女はこんな風に裸同然の格好で抱きしめてくれたんだろう?  ――どうして彼女は僕が先ほど言おうとした言葉を遮ったのだろう?     聞きたいこと、尋ねたいこと、言いたいことは山積みだ。  一人では何も決められない未熟で子供でヘタレな男だからこそ、色々なことを聞いて、色々なことを話して、どうか導いてほしかった。  「……いいんです」  巡莉は繰り返す。  「……今は何も考えなくていいですから」  何も聞かなくていい。何も言わなくてもいいのだと巡莉は繰り返す。  「いいんです。……ゆっくり……今はただゆっくりお休みなさい」  「おや……すみなさ、い……」  先ほどまでの性的な昂りからの反動も相まってか、言い知れぬ虚脱感が重たく彼の身にのしかかり、気の利いた言葉を紡ぐどころか呼吸をすることすらも億劫であった。  ……けれど、これだけはどうしても言わなければと、啓次は微睡の帳が完全に降ろされる間際のほんの隙間。  最後に一言だけ言った。   「ありがとう……お姉ちゃん……」  「っつ!!……はい、はい……おやすみなさい……です」  その時、巡莉が浮かべた表情を、深い眠りへと落ちてしまった啓次は見ていない。  というよりも、啓次がいる時いない時に関わらず、実は何度となく彼女が浮かべていたその顔を一目でも彼が見る機会があったのならば……。  これから啓次と巡莉ともう一人の彼女との関係性は、妙なこじれかたをしなくても済んだのかもしれない。  「また会えるって信じてた……私の愛しい愛しい弟くん……」  ―― お姉ちゃん、もう二度と貴方を離したりしないからね ――   ………  ……  …  翌朝……というか啓次が目を覚ました時にはもう時刻は正午を回りそうなところで、慌てて起き上がると、もうベッドに巡莉の姿はなかった。  午前中の便で発つと言っていたので、おそらくもう、機上の人となっている頃合いだろう。  見送りのために起こされなかったのは意外だったが、両親にしても巡莉にしても顔を合わせづらくはあったのでそれでよかったのかもしれない。  「…………」    啓次はぐるりと室内を見回した。  着崩れたはずのパジャマのボタンはしっかりと留められ、乱れたはずのシーツにも不自然なところは見受けられない。  濃密に漂っていたはずの淫蕩の色も、確かにくるまれていたハズのあの彼女の母性も、空気の中には残されていなかった。  カーテンの隙間から零れる晩春の日差しはただ暖かくて、窓の外から聞こえる遊びに興じる子供たちの嬌声はただただ無邪気だった。  「…………」  やはり夢のようなものは夢でしかなかったのだろうか?  そう思えてくるほどに世界も部屋の現状も昨日ともそれまでとも変わらずに維持されていた。  「…………」  しかし、決してあれは夢ではない。  「…………」  夢になどできるはずもない。  「…………」  脳裏に焼き付いた彼女の美しさが、かけてくれた言葉が。  「…………」  彼女が触れてくれた部分の火照りが、心に焼き付いてしまった想いが。  「……あ、これ……」  微かに香った彼女の残り香に締め付けられる胸の痛みが……決して夢で終わらせてはくれないのだ。  「……巡莉さん……」  数週間後、予定通り巡莉と兄は籍を入れて彼女は正式に塚原巡莉となり、啓次の義理の姉となった。  ……そして、彼女は。  決して報われることない、塚原啓次の≪初めての恋≫の相手となったのだった。
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