プロローグ

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 気が付くと、手が止まっていたらしい。隣の席の乙葉に回覧の文書を差し出されて、我に返った。  小声でありがとうと言い、回覧用の名簿に確認済みを示すチェックを入れる。パラパラと文書のページをめくりながらも、思考はさっきの本に戻る。  小説が好きで、子供のころからの読書量は誰に言ってもドン引きされる自信はある。  小学生の頃は一週間で十冊以上読んでいたし、中学校では図書室の物語の棚の本を三年生の夏休み前にほとんど読みつくしていた。それほど小説が好きなのだ。  自分で書くようになってからも、お気に入りのシリーズはこまめにチェックし文庫本が出たらすぐに買って読むようにしている。 (小諸沢先生って、ファンは多い方だと思うけれどベストセラー作家とまではいかないのよね。もうちょっと評価されてもいいんじゃないかなあ。読みやすい分、ややラノベ寄りだって評価されることが多いからかも。それにしても、小田課長があのシリーズを読んでいるとは。もしかして、私以上にオールジャンルに目を通す読書家なのでは? 課長の自宅、書斎があって壁の三面がぎっしり本で埋まっていても違和感なさそう)  もちろん、翠は課長の自宅どころか住所も知らない。勝手な想像である。いつの間にか小説の内容から小田の自宅まで妄想していた思考を、翠はそこでいったん打ち切った。  いけないいけない。本業である市役所の仕事はきっちりやる。そしてそれ以外の時間を執筆に使う。そう決めたんだから――  そうして翠は、パソコンのキーボードを再び叩き始める。  午後五時五十五分。定時を少し回り、今日の仕事のノルマを終えた翠は、思い切り腕を高く上げて伸びをした。  この時間帯になると、正面の自動ドアにも鍵がかかり、残っているのは職員だけだ。  翠は、自分の担当分の書類とファイルをまとめて所定の位置に戻すと、席を立った。  残っている同僚たちに挨拶し、更衣室に寄って荷物とコートをロッカーから出す。更衣室を出る前に、忘れ物をしていないか鞄の中を確認する。鞄の中のプロット兼ネタ用のノートが目に入る。 「あ、しまった」
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