プロローグ

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 市役所の開庁時間は、平日の午前八時三十分から午後五時三十分まで。  閉庁時間間際は利用者もまばらだが、仕事帰りに飛び込みで入ってくる利用者もいるので、最後まで気は抜けない。  翠は昼の忙しい時間帯を乗り切ると、窓口業務を他の人に代わってもらい、同期の同僚とやや遅めの昼食を取りに席を立った。 「ねえねえ、翠」  同期の親しさと、人見知りをしない性格で、同僚の財部(たからべ)乙葉(おとは)はかなり早い時期から翠を下の名前で呼ぶようになっていた。  翠も本当は「乙葉」と呼ぶべきかもしれないが、最初に「財部さん」と呼んで以来、乙葉と呼んでいいか確認するタイミングを失って、ずっと「財部さん」と呼んでいる。 「佐野(さの)さん、こっちをちらちら見てるんだけど。翠に興味があるんじゃなーい?」  またそれかと、翠は心の中で溜息をつく。 「そんなことないよ、財部さんのことじゃないかなあ」  すると、乙葉はあからさまに嬉しそうな顔になった。  佐野(さの)浩太(こうた)は二歳年上の先輩で、一見地味で目立たないが、堅実に仕事をこなす人である。  まだ独身の佐野には彼女がいるという噂もないことから、職場内には佐野に興味と恋愛感情を向ける独身女性も少なからずいる。  乙葉も、その中のひとりだ。さっきの言葉も、翠には佐野に対する恋愛感情がないことの確認のようなものだ。  乙葉は、よく見れば気づく程度のブラウンのカラーコンタクトを入れ瞳を大きく際立たせている。  翠もコンタクトを入れてはいるが、自分と財部の差はカラーが入ってるだけのことではない。  きちんと手入れされた爪先、濃くなりすぎないよう時間をかけたナチュラルメイク。  隣にいる今も、ふんわりと柔らかく甘い香りが漂ってくる。  まあ、乙葉なら可愛いし、自分磨きを怠ってないからそこそこモテるだろうと、翠は冷静に思う。  この女子力、小説のキャラクターに使えそう! 翠は何度そう思ったことか。  しかし、小説を書くようになってこれだけは守ろうと決めたこと、それは職場の人をキャラクターとして使わないということだった。
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