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いつか小説家として書籍化を果たしてやるという夢をもって書き続けていれば、もしかしたら自分は書籍化作家だと職場で胸を張って堂々と言える日が来るかもしれない。
その時に作品を読んだ職場の同僚たちから、これは自分じゃないかとか、私はこんなじゃないとか、文句を言われたら困ると思ったのだ。
(ずいぶん将来の話かもしれないけれど、あり得ないって決まったわけじゃないし)
そんな自分だけのささやかな夢くらい、持っていてもいいのではないか。
「ねえ、ちょっと。翠、聞いてる?」
夢の世界にひたっていた翠を、乙葉が引き戻す。
「今日の翠、何かおかしい。具合が悪いんじゃないの?」
女子力が高めで噂好きだが根は優しい乙葉に心配され、翠はごめんごめんと謝った。
「昨夜、遅くまで本を読んでて」
「寝不足? お肌の大敵じゃない。老化も速く進むんだって。ちゃんと寝た方がいいよー」
お互いもう二十代後半なんだからと言われ、翠は苦笑した。
市役所内の食堂で本日のAランチ定食を食べ、歯磨きを終えて少し早めに自分の席に戻ってくると、翠は課長から呼ばれた。
「笛木さん、今いいですか」
「はい」
課長の席に向かうと、背後から向けられる複数の視線が、背中に突き刺さって痛い感じがする。
市役所のこのフロアで、佐野以上に女性たちから人気のある独身男性。それが、翠の上司である小田(おだ)義(よし)典(のり)課長だった。
銀縁眼鏡で、スーツの似合うすらりとした外見。今年三十七歳だというが、三十代前半にしか見えない。髪をかっちり分けていて、そういうところはお堅いサラリーマンっぽい。けれども、話してみると穏やかで優しく、話題も豊富なので、一度でも声をかけられた職場内の女性は、既婚・未婚に関係なくこの課長に好感を持ってしまうのだ。
だから、呼び出された翠に、羨望の視線が向けられても不思議ではない。そんなんじゃないのに……と思っているのは、翠だけだ。
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