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「何でしょうか」
「この書類、ファイリングしておいてもらえるかな」
そう言われて差し出された書類を、翠は受け取った。
視線が痛くなくなったような気がするのは、「何だ仕事の指示か」と思われたせいなのか、「こんな見た目のぱっとしない女子力低めの子に課長が興味を持つわけがないわよね」なのか。
どちらでもいいと翠は思う。
「笛木さん、作品、行き詰っているの?」
誰にも聞こえないよう小声で尋ねられ、翠は苦笑した。
寝不足は、乙葉だけではなく小田にも見抜かれている。
「はあ、ちょっと」
「相談相手が必要なら、僕がいつでも聞くよ」
「ありがとうございます、そのうちに」
翠は軽く頭を下げると、渡された文書を持ってファイルを収めてある棚に向かった。
小田は、上司や異性とは別の意味で翠にとって特別な存在だった。そして、小田にとっても翠の存在は特別だ。
ふたりの共通点――それは小説。
ただし、翠は書く側であり、小田は読む側という点で異なっている。
小田にとっては小説の中の登場人物こそが恋愛の対象で、彼は二次元のキャラクターに愛情を注ぎ愛でる、いわゆる二次元オタクだったのだ。
翠と小田が互いの秘密を知りえたのは、今から一年前のことになる。
「休憩時間なのに、課長ったらずっと本を読んでる」
「仕事熱心よね。きっと仕事関係の本よ」
昼食から戻ってきた課員たちが、自分の席で本を開いている小田を見て囁き合った。
でも、何を読んでいるのか聞きに行く女性はいない。ただ、本を開き時折ページを丁寧にそっとめくっていく仕草と、紙に真剣に注がれる眼差しがさまになっているので、遠巻きに見つめてうっとりしているだけだ。
「自己啓発本かもよ」
「案外濃厚な恋愛ものだったりして!」
「きゃー!」
妄想するのは自由だけど、小田課長がそんなものを読むなんてあり得ないし、それを想像できる彼女らの方が発想に独創性があるわと、翠は密かに感心した。
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