愚かなボグスワフと可哀想なシャーロット

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 ウマい話には裏がある。 「おはようございます、お養父さま」  お養父さまは渋い顔をしたまま一つ頷いた。 「おはようございます、お養母さま」 「おはよう、シャーロット」  お養母さまは優しく微笑んだ。 「おはようございます、シャーロットおねえさま!」  私の腰に体当たりし、しがみつき、明るい声でアンジェラが言う。 「おはよう、アンジェラ」  アンジェラの頭を撫でた。アンジェラは明るい蜂蜜色の髪を揺らし、満足そうに微笑む。  朝食の席につく。 「アンジェラ、野菜を残しては駄目ですよ」  お養母さまに窘められて、頬を膨らませるアンジェラ。五歳年下の可愛い妹。  黙々と食事を続ける養父さま。  部屋の隅で微笑んだまま、優しげに私たちを見つめる執事のヴィクター。  美味しい食事。暖かい部屋、洋服。優しい家族。足りないものは何もない。  血のつながり以外は。  私がこの屋敷にきたのは、今から三年前。小さいけれども立派な領土を持つ貴族の養父さまが、孤児の私を引き取ってくださった。  孤児院の先生からその話を最初聞いた時、住み込みの小間使いなのだろうと思った。それで構わなかった。それでも十分だった。  けれども、私は家族として受け入れられた。  お養母さまは、アンジェラを産んだ際に生死の境を彷徨い、二度と跡継ぎが産めない体になった。けれども、アンジェラが一人っ子では可哀想だと、兄弟が居た方が良いと、私がもらわれた。幼いアンジェラの面倒を見るために、少し年上の子どもがもらわれた。  お養父さまは素っ気ないけれども、見た目は怖いけれども、それはただぶっきらぼうな性格なだけ。実はとても、私やアンジェラのことを気にかけてくださっている。  お養母さまはとても優しくて、たまに少し厳しい。それでも、私とアンジェラを区別することなく、接してくださる。  アンジェラは、可愛い妹。まるで天使のような子だ。私のことを本当の姉だと思っている。ねえさま、ねえさま、とあとをついてくるのが、とても愛おしい。  執事のヴィクターはいつも優しく微笑んで、やはり私のことも、アンジェラやお養父さまたちの家族として扱ってくれている。  これ以上、何を望めば良いのか。このうえなく幸せな話だ。  だから、三年前、この屋敷にきた当初は怖かったのだ。これから何が起きるのかと。どうやって、私は不幸のどん底に落ちるのかと。  ウマい話には裏がある。  きっとそうだと信じていたし、実際、そうだった。 「おねえさまは、別荘にいかないのー?」  アンジェラが柔らかい髪を揺らして首を傾げる。アンジェラの後ろで、お養母さまが困った顔をしている。  私は、お養母さまを安心させるために笑顔を作る。 「おねえさまは駄目よ。おねえさまが塔から出られないのを、アンジェラだって知っているでしょう?」 「うー、わかったー、お土産買ってくるねー」  アンジェラが笑う。可愛い妹。  お養母さまが安心と後ろめたさの混在したような顔で私を見る。私はただ、微笑む。  ウマい話には裏がある。  自室としてあてがわれている、塔の一番上へと向かう。  私は屋敷とこの塔から出ることは出来ない。  そういう、約束なのだ。 「よう、おかえり。あと、おはよう」  部屋のドアを開けると、窓辺に腰掛けた少年が笑う。白髪に赤い瞳。小柄な、十代に見える少年。今日もいつもと同じ、黒い衣服に身を包んでいる。 「ボグスワフ、おはよう」  後ろ手でドアを閉めながら、私は微笑んだ。  ボグスワフが一つ伸びをすると、尻尾がちらりと現れる。黒い、長い、爬虫類のような尻尾。それから、背中に生えた、蝙蝠のような羽根。  彼はボグスワフ。この塔に住み着いている、自称悪魔だ。どうみても、ただの少年だけど。 「家族ごっこは楽しいかい?」  ボグスワフが笑う。嫌な笑い方。こちらを見透かすような、バカにするような。 「家族ごっこなどした覚えはないわ」  ふかふかのソファーに身を沈める。 「へぇ」  ボグスワフが笑う。本当に、嫌な笑い方。  彼は窓の外を見下ろす。 「本物のお嬢様はお出かけのようだが」  きっと、外ではアンジェラとお養母さまを乗せた馬車が出て行ったところなのだろう。 「別荘にいくらしいわよ」 「へー、じゃあ」  ボグスワフが笑う。赤い唇を歪める。 「今生の別れだ、可愛い妹ちゃんとの」 「ボグスワフ、くだらないことを言わないで」 「違うのか?」 「違わないけれども」  ソファーの上で膝を抱える。  可愛いアンジェラ。さよならも言えなかった、なんて。  可愛いアンジェラ、可哀想なアンジェラ。帰ってきて、私が居なかったら、あなたはきっと泣くでしょう。可愛いアンジェラ、可哀想なアンジェラ。  可愛いアンジェラ。それから、 「可哀想なシャーロット。本物の家族なら生贄に差し出したりしないのに、本物と信じている」  ボグスワフが揶揄するように言った。  本当に、嫌なやつ。  次の満月の晩、私は花嫁となる。  この領地は本来、白き龍の持ち物だった。それを人間が勝手に荒らした。白き龍は怒り、領地は飢饉、疫病などに苦しむことになった。  それを当時の領主の娘が、「私が主様を鎮めます」と言い、白き龍の花嫁となった。おそらくは、殺されたのだろう。  けれども、それっきり領地は平和になり、寧ろ実り豊になった。  それ以来、領主は五十年に一度、白き龍に、主様に、花嫁を差し出している。  そして今が、その五十年目だ。  婚礼の儀は、次の満月の晩。私は花嫁となる。その為に、孤児院からもらわれてきた。  アンジェラの代わりとなるために。 「ま、貴族様の考えそうなことだよなー」  私のベッドに倒れ込み、ボグスワフが言う。 「跡継ぎの身代わりなんて」 「血筋が絶えてしまったら大変ですもの。もう新しい跡継ぎは見込めないし」 「別に、この国一夫多妻制なんだから、新しい嫁、手にいれればいいのに」 「ボグスワフ」  窘めるように名前を呼ぶ。 「お養父さまは、お養母さまを愛していらっしゃるのよ」  だからもう、新しい妻を望んだりはしない。 「愛、ねぇ」 「愛を知らない悪魔には何もわからないわよね。私たちのことなんて。愚かなボグスワフ」  そして、私のことも。 「いずれにしてもボグスワフ。それ以上、私の家族を愚弄するのならば出て行って頂戴」  私の言葉に、ボグスワフが上体を起こす。少し不満そうな顔をして、 「もともとここは俺の塔だ」 「知らないわ」  睨み合う。先に視線を逸らしたのは、ボグスワフの方だった。皮肉っぽく唇を歪める。 「どうせ、もう少しでまた俺のものだ」  私は、小さく唇を噛む。 「……そうね」 「可哀想なシャーロット」  私から視線を逸らしたまま、ボヴスワフが小さく呟いた。  本当に、嫌なやつ。人の気も、知らないで。  初めて訪れた新しい家は、暖かくて、美味しくて、優しくて、幸せで。だから不安だった。いつ、この幸せが終わるのかと。  ウマい話には裏があるのだから。  屋敷を案内してもらった。その時、私はこの塔と屋敷から出てはいけないと言われた。  そして、この塔には先客がいた。  ボグスワフ。  自分を悪魔と名乗る、人ではない何か。私を不安に陥らせようと、あることないこと吹き込んできた悪魔。愚かなボグスワフ。  ウマい話には裏がある。  そんなこと、わかっていた。裏がなにかさえわかってしまえば、私がそれ以上不安に陥ることなんてなかったのに。  そんなことも、わからなかったなんて。愚かなボグスワフ。 「ボグスワフ」  名前を呼ぶと、再びベッドに倒れ込んでいたボグスワフは、視線だけをこちらに向けた。 「貴方は、この塔に住んでいるのよね?」 「ああ」 「じゃあ、私がいなくなったら貴方はここに一人になるの?」  私の言葉にボグスワフは一瞬黙り、次に鼻で笑った。 「可哀想と、俺を憐れむのか? 可哀想なシャーロット。一人の方が、せいせいするさ」  彼は言った。その時すでに顔をこちらに向けていなかった。彼の表情はよくわからなかった。 「そう」  人の気も、知らないで。  次の満月の晩は、明日なのだ。わかっているのかしら、ボグスワフ、貴方は。  私は一つため息をつくと、机の上においた日記を手に取った。 「可哀想なシャーロット」 「何かしら?」 「俺が逃がそうか? 一緒に逃げようか?」  ボグスワフが言う。真顔だった。  ここにきて、そんな真剣な顔はやめて。 「愚かなボグスワフ。何を言うの?」  覚悟は決まっているの。かき乱さないで。 「主様を怒らせたらどうするの」  そんなことはできない。  ボグスワフは肩をすくめた。 「言ってみただけだ」 「そう。気持ちだけありがたく受け取っておくわ。そしてさよなら、ボグスワフ」  できるかぎり微笑んでみせる。 「今日は私、屋敷の方で寝るの。我が侭言って、お養父さまと同じ部屋にして頂いたの」  アンジェラはよく、眠れないと駄々をこね、お養父さまとお養母さまの部屋で眠っていた。密かに羨ましいと思っていた。親子だ、と。 「だからもう、ここには戻らないわ」  ボグスワフは答えない。 「さよなら、愚かなボグスワフ。三年間、楽しかったわ」 「そうか、さよなら、可哀想なシャーロット」  私は微笑んだまま、部屋を後にした。  お養父さまとお養母さまの部屋は、白を基調にしたシックなデザインだった。 「はじめてはいりました」  私の言葉に、お養父さまが一つ頷く。  お養母さまのベッドに腰掛ける。 「あとで、怒られないかしら? 勝手にお養母さまのベッド使って」 「了解は、とってある」 「ならよかった」  私は微笑んで、そのふかふかのベッドに体を横たえる。 「お養父さま」  天井を見上げたまま、私は呟く。 「私、三年間とても幸せでした。とてもとても、幸せでした」  寝返りをうち、寝転んだままお養父さまの方を向く。 「本当はね、お養父さま、私、アンジェラを殺そうとしたことがあるの」  お養父さまはいつもの少し厳しい顔をしたまま、何も答えない。 「憎くて。アンジェラさえいなければって思ったの」  おかしいわよね、と笑う。 「アンジェラがいなければいないで、私はさらに必要となるのに」 「シャーロット、それは」 「でもね、お養父様。やっぱり私にはできなかった」  だって私ね、お養父様。 「アンジェラのこと、好きだから」  視界が滲む。慌てて一つ息を大きく吸った。  笑っていなければ。 「アンジェラのことも、お養父さまのことも、お養母さまのことも、ヴィクターも」  指を折って、一つずつ、この屋敷にいる人の名前を挙げる。  それから、ボグスワフ。愚かな悪魔。小さく唇だけでその名前を呟く。 「私、みんなのことが好きなの。大好きなの。どこの馬の骨ともわからない私に対して、みんなとても良くしてくれた。優しくしてくれた。愛してくれた」  お養父さまの顔が、いつもよりも少し厳しく、険しく見える。 「お養父さまは、私に十分過ぎる住環境と、家族をくださった」  ゆっくりと上体を起こす。 「ねえ、お養父様、私本当に」  微笑む。 「感謝してもしきれません」  ぽろり、と頬を伝った雫の感触に慌てる。 「あ、れ。やだ、私ったら」 「シャーロット。すまない」  そっと伸びた大きな手が、私の頭を抱え込んだ。 「おとうさま」  小さい声で呟くと、頭を撫でられた。 「私が戻らなかったら、アンジェラ、たぶん、泣くと思うから、そしたら、慰めてくださいね。アンジェラには、本当のこと、言わないでくださいね。あの子は、小さいから。でももし、アンジェラが知ってしまったら」  私は、持ってきた日記を手に取る。 「これを。見せてあげてください」 「これは?」 「私の日記です。孤児院にいたころからずっと書いてきたんです。字、下手だけど」  ぼろぼろになった装丁を撫でる。 「アンジェラが負い目に感じないように。私が、どれだけアンジェラのこと、好きだったか、書いてありますから」  微笑む。 「みんな大好きです」  お養父さまが頭を撫でてくれる。 「一人っ子待遇で、嬉しいです」  小さく微笑んだ。  お養父さまがその厳しい顔の中、少しだけ口元を緩めた。  私は幸せだった。幸せだ。  好きな人達のために、生贄になるのならばそんなことなんでもない。身代わりにだって、なれる。なんだってできる。  ただ、もし心残りがあるとするならば。  その夜は、お養父さまと昔の話をしたまま、気づいたら眠っていた。  お養父さまはずっと、手を握っていてくださった。  目覚めて、それに気づいて、幸せにまた少し泣いた。  お養父さまがまだ眠っているのを確認すると、早朝、私は部屋を抜け出した。  そっと塔の階段をのぼる。  三年間、使っていたドアを開ける。 「ボグスワフ?」  小さく名前を呼んでみる。返事はない。  そっとドアを開けると、ボグスワフは、私のベッドで気持ち良さそうに大の字になって寝ていた。  結局、彼がなんなのかは、わからなかった。  お互いを可哀想なシャーロット、愚かなボグスワフと罵り合っていたけれども。結局、ボグスワフが何者なのかわからなかった。  私のことを、どう思っているのかも。本当に、可哀想なシャーロットと思っているのかも。彼が本当に、愚かなボグスワフなのかも。  その髪をそっと撫でる。  初めて触った。アンジェラの髪質と、よく似ていた。柔らかい白髪。 「ボグスワフ」  心残りがあるとするならば、 「あなたがいてくれたから三年間、この塔の中でも寂しくなかった。悲観したりもしなかった。あなたは冷たくて意地っ張りで悪魔だったけれども、私の話相手になってくれた。気まぐれで、口を開けば可哀想なシャーロットなんて、あなたは私を不安に陥らせようとしていたけれども、あなたがいたから私、寂しくもなかったし不安でもなかったのよ。ボグスワフ。愚かなボグスワフ」  心残りがあるとするならば、 「私は、ボグスワフ、あなたが大好きだった」  この気持ちだけ。  ボグスワフは目覚めない。  その頬に、そっと口付けた。 「愛している」  それは、ボグスワフだけに向ける感情。 「愛などわからない悪魔に、何を言っても仕方がないわね」  なんて報われない恋だったのだろう。  もう一度、ボグスワフの寝顔を眺め、部屋を後にした。  さよなら、三年間幸せをくれた部屋。  さよなら、愚かなボグスワフ。  さよなら、愛しいボグスワフ。  身に纏うは白い衣裳。今日のために用意された婚礼衣裳。長い黒髪を結い上げる。 「お養父さま、私、綺麗?」  私の言葉に、お養父さまはいつもの厳しい顔で一つ頷いた。 「今まで、ありがとうございました」  私は微笑んで頭を下げる。  お養父さまは何も言わない。何も言わなくて良い。  私は、しきたりどおり古い馬車に乗り込む。 「大丈夫。きちんと、決められたとおりに行います」  微笑む。口に出してさよならは言わない。 「みんな、ありがとう」  小さく呟くと、馬車が動き出した。  お養父さまがじっとこちらを見つめている。  お屋敷を見る。  三年間過ごした屋敷。今までありがとう。  そして、その隣に建つ、高い塔を見上げる。  さよなら、三年間幸せだったシャーロット。幸福なシャーロット。  目を凝らしても、私の部屋は見えなかった。でもきっと、彼は見下ろしているだろう。  さよなら。愚かなボグスワフ。  白き龍が、主様が、住んでいるという山奥の、洞穴。  馬車はしきたりどおり、私をおろし去って行く。  振り返らない。  決められたとおりに動くだけ。  まっすぐに、洞穴の奥に進む。  まっすぐ歩き、少し広い場所へ出た。明るい。  小さく息を飲んだ。  真っ白い、真っ白い、龍。大きな、龍。  心臓が痛い程脈を打つ。深呼吸。 「主様、シャーロットと申します。どうぞ、よろしくおねがいします」  しぼりだすようにそう言うと、頭を下げる。  目を閉じる。きつく、目を閉じる。 「可哀想なシャーロット」  歌うように、主様が言った。  その言い方に、聞き覚えがあった。 「え?」  顔を上げる。  真っ白い大きな龍が、主様が、その赤い瞳で私を見下ろしていた。 「のこのこココまでやってきて、どっちが愚かなんだ? 可哀想なシャーロット、愚かなシャーロット」  ほんの一日前にも聞いた、だけれども懐かしい声。三年間ずっと聞いてきた、言い方。 「……ボグスワフ?」  あの小さくて、少年のような、そんな悪魔の名前を呼ぶ。  白髪で、赤い瞳の、悪魔。  主様が口を開く。赤い舌が、ちらりとのぞく。笑うように。 「え、どうして。あなた、ボグスワフなの?」 「気づかないものだな、愚かなシャーロット」 「だ、え、なんで?」  何度も何度も頭の中で確認してきた流れは、ふっとんでしまう。  私は間抜けにも口をぽかりとあけて、白き龍を、主様を、ボグスワフを見上げる。 「あの塔は、花嫁が過ごすための塔だ。その塔に住み着く悪魔が、無関係だと思ったのか? 可哀想で愚かなシャーロット」  バカにしたような言い方。間違いなく、ボグスワフ。 「なんで、あなた、そんな」  言葉にならない。聞きたいことは沢山あるのに、何も言えない。 「見極めたくてな。花嫁に値するか」  ボグスワフは構わず、続ける。 「最初の娘はよかった。些か愚かで短絡的だったが、わざわざ俺のところにくる娘なんていないからな。楽しかった。だから、喰わずに一緒に暮らした、花嫁だからな」 「楽しかったから領土に実りをもたらしたの?」 「実り? あれは偶然だ。俺にそんな力はない。そもそも飢饉もおれのせいじゃない」  こともなげにいう。 「なんていうこと……」  それじゃあ、私はなんのために。  ボグスワフは、私に構わず続ける。 「次の娘は、つまらなかった。始終びくびくして、めそめそ泣いていた。五月蝿かったんで、喰った。だが、不味かった」  私を見下ろす赤い瞳。 「大体の娘はつまらなかった。五月蝿かったしな。別に、俺が生贄を望んでいたわけではないんだが、くれるというならばもらうつもりだった。だからって、あれはない。あいつらは邪魔だった」  ため息のようなものをつく。 「だから、来る娘を最初に見極めようと思ってな。五月蝿そうだったら、ここに来る前にお引き取り願おうと思っていた。喰ってもまずいし」 「……だから、塔にいたの?」 「ああ。可哀想なシャーロット」  そして、ボグスワフは瞳を一度閉じた。次の瞬間には、あの小さい少年の姿になっていた。どうなっているのか、まったくわからない。 「お前は面白かった、シャーロット。俺がどんなに可哀想だ可哀想だと言っても、お前は本気で自分のことを可哀想だと思っていなかっただろう?」 「当たり前だわ。私は、幸せだったもの。愚かで愛を知らぬボグスワフにはわからないでしょうね」  揶揄するように唇を歪めてみせる。  ボグスワフは楽しそうに笑った。 「俺を愚かだという人間も、お前がはじめてだ。愉快だ。実に愉快だ」  ボグスワフが近づいてくる。 「俺を愛しているという人間もな」 「なっ」  真顔で言われて、顔に血が上る。 「あ、あなた! 起きていたのっ?  悲鳴のような声が漏れる。 「ああ、愚かなシャーロット」  楽しそうにボグスワフが笑う。 「愛を知らぬと罵った相手を、愛しているとは。お前は本当に、可哀想で、愚かだな」  嫌なやつ。本当に、嫌なやつ。  だけれども、とても愛おしい。 「だからお前は合格だ。喰わない」 「喰わない私を、どうするの?」 「花嫁なんだろう? 幸せだなー、シャーロット。愛している相手の花嫁になって」  嫌なやつ。顔をしかめる。 「卑怯だわ」  少し唇を尖らせる。ボグスワフは楽しそうに笑う。赤い瞳を細めて。  私の頬にそっと手をあてる。 「可哀想なシャーロット。もしもお前が望むのならば、お前をこちらの眷属にしてもいい。人間には戻れぬが、長寿をあたえよう」  真剣な赤い瞳が私を真っすぐ捉える。 「永遠に、ともにいよう」 「……どうせまた、五十年後に新しい花嫁を呼ぶのでしょう?」 「なんだ、ヤキモチか。お前が俺とともにいてくれるのならば、新たな花嫁を要求することはやめるよ。別に、もともと必要だったわけじゃないし。別に俺なにもしてないし」  つまらなさそうにボグスワフが言う。  その赤い瞳をそっと覗き込む。  何を考えているのかわからない。でも、私と一緒にいてもいいと考えてくれている。 「わかったわ」  私は一つ頷いた。 「愚かなボグスワフ。私はあなたを愛しているわ」  そうして私は、ボグスワフに向かって左手を伸ばし、頬に添える。そして、 「ごめんなさい」  このために仕立てられた衣裳から、隠していた剣を取り出し、 「シャーロット?」  ボグスワフの腹部に突き刺した。抱き合うようにして。 「っ!」  短い悲鳴をあげたボグスワフに突き飛ばされる。 「いまだ!」  背後から聞こえる男の声。足音。   私の横を騎士様が駆け抜け、最近見つかったという伝説の剣で、 「滅びろ、魔獣!」  ボグスワフを、 「……ああ、なるほど」  斬り裂いた。  倒したぞ! お嬢様大丈夫ですか? かけられる声に返事をせず、ボグスワフに近づく。  まだ少し、開かれた赤い瞳。 「そう、だったのか」  かすれた声が聞こえた。  私は泣きそうになるのをこらえながらボグスワフに一度頭を下げた。ごめんなさい。 「だまされた、な」  私がもらわれてきたのは生け贄にされるためだけじゃなかった。できれば主様を殺すこと。主様の代わりに領土の発展を見届けてくれる異形の存在を見つけたのだ。主様はもう、いらなかった。  ボグスワフが何か言った。それはもう、言葉にはなっていなかった。  それでも、私には彼が最期になんと呟いたのかわかった。 「可哀想な、シャーロット」  代わりに自分でそう呟くと、しゃがみ込んだ。顔を覆う。 「大丈夫ですか、お嬢様」  返事はできない。嗚咽が漏れる。 「怖かったですよね、もう大丈夫ですよ」    愚かなボグスワフ、可哀想なボグスワフ。  主様があなただと知っていたら、こんな役目、引き受けたりしなかったのに。  主様を倒すことを要求されていた。たとえ、命と引き替えにしても。それが今まで可愛がってもらった恩返しだと思っていたから、引き受けることに異論はなかった。  それでも、可哀想なボグスワフ。万が一、無事に戻れたら、まっさきにあなたに会いに行くつもりだったのに。  あなたが永遠に一緒にいようと言ってくれたこと、うれしかったのに。  なんて愚かなシャーロット。  こんなことなら、あの時あなたの手を取って逃げれば良かった。あなたを刺さずに逃げればよかった。逃げることができたはずなのに。もっと他の道を選ぶことができたはずなのに、なにもできなかった。  家族を、裏切れなかった。  わかっていたはずなのに。  ウマい話には裏があるということを。  可哀想な、シャーロット。  愚かな、シャーロット。
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