ずっと……

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ずっと……

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」 喫茶店“霧雨”で、カウンター越しに出迎えたのは、店主の代理をしている僕、颯大(そうた)。まるで貸衣装か七五三に見えると笑われたネクタイ姿も、今では着こなしていると思いたい。 テーブルの天板や天井を支える本棚の一部は、あたたかみのある木目で統一されている。ランチョンマットなどの備品は深緑色のチェックで、落ち着いた色合いを重視しているし、長時間寛げるよう貸し出せるブランケットも用意してある。 右側にカウンター6席、左側にゆったりとしたテーブル12席の計18席だが、壁沿いのテーブル席はソファー席で融通が利く。 壁沿いには棚が一面にあり、様々なジャンルの本がズラリと並ぶ。下の半分を占領している写真集や画集、事典や図鑑といった重厚な本は全て、先代店主の膨大な蔵書だ。 上の半分に並んだ文庫本や漫画など比較的軽い本が揃っているのは、颯大がお小遣いを貯めて購入したコレクションであり、多感な思春期を支えてくれた、バイブルともいえる蔵書で、絶えず手元に置ける環境は幸運だと思う。 入口からまっすぐ進むとトイレがあり、奥にはぽっかりとした空間に出る。この一角はギャラリーと呼んでいる。 北欧雑貨や手編み風のカゴやガラス細工や、小さな額に縁取られた絵画などが並んでいる。装飾目的ではなく商品として販売していて、特に女性の固定ファンが多い。 以前は店主の海外旅行の記念品を並べていたが、今では颯大の姉、零子(れいこ)が管理していて、実益を兼ねた趣味スペースになっている。最近ではネットでも販売してるらしい。 営業時間は、朝11時~夜19時だ。ランチとカフェのメニューを充実させている。特に忙しいランチの時間帯は零子が手伝ってくれるが、不在の時は、颯大ひとりで全てを切り盛りしていた。 「日替わりケーキと紅茶はポットで。あとチーズケーキと珈琲」 「かしこまりました」 珈琲を挽き始める。お湯を沸かしつつ、予め用意したケーキを皿へ移す作業は慣れた作業だ。 カフェメニューの人気はケーキセット。評判のケーキは格安で仕入れている。幼なじみの崇史(たかし)の手作り。 この界隈で“Happiness”といえば老舗の洋菓子店だ。パティシエ兼店長が崇史の父で、崇史は2代目として奮闘してる。 喫茶店“霧雨”のケーキは、開店当時からずっと“Happiness”で仕入れていて、店主と崇史の父が親友(悪友)なのは、周知の事実だ。 「ホットケーキセット3つ!」 僕の焼いたホットケーキが一番だと、常連客から太鼓判を押してくれてる看板メニューだ。 「流行りのパンケーキ食べたけど、レタス乗っててドン引きしたわ」 「ふわっふわすぎて満足できなかったしね」 「颯大のホットケーキがイチバン!」 「ありがとうございます」 常連客は殆どの人が、店主の知り合いだ。僕が此処でアルバイトを始めた高校生の時から、週に2度、訪れてくれるお得意様たちが、美味しそうに紅茶を飲みながら、店長の話をしてる。 「あの変わり者は、まだ戻らないの?」 「もう3年になるわね」 「そうねぇ。旅行してるのかしらね」 「まぁ~おカネはあるでしょう?」 「株や何やかんやで資産はあるみたい」 「大学助教授の座を辞して喫茶店開いたのよね」 「賢いのに変わり者ってイチバン難儀ね!」 「ほんと!」 朗らかな笑い声が遠くで聞こえた。店主の霧明孝一郎(きりあけ こういちろう)が不在のまま、月日がかなり経過しているんだと実感する。 僕が大学の頃、突然店の鍵が送られてきたんだっけ。 【颯大へ。 もう一度、颯大が焼いたホットケーキが食べたかったが、急を要するんだ。 “霧雨”を頼む。権利書はいつもの引き出しだから、好きにしていいぞ。SEE YOU AGAIN! 霧明孝一郎】 律儀に自分の名前は署名してあった。あれは夏前だった。ほろ苦いアイス珈琲の仕込みの味を最後に、店主の淹れた珈琲を、久しく飲んでいない。 店主から書類一式を用意させられたと嘆きながら、首を縦に振らない頑固な僕を諭したのは、姉の零子だった。 「わかったわ。颯大の気持ちを汲んで大学卒業まで待つわ。でももし、このまま彼が戻らなければ遂行するわ。 既に颯大に託したのよ?ね?」 僕は夢を一部だけ実現してる。3年前に喫茶店“霧雨”を受け継いだのだから…… 有難いことに、店主を慕う人達を含めると常連客は大勢いる。客層も様々で性別や年齢、仕事や学生など職業も多岐に渡り、訪れる時間帯も分散していて繁盛している。 でも…… 【店主とずっと一緒に喫茶店“霧雨”をしたい】 という夢の途中なんだ。 ぽっかり穴が空いたままの虚無感や、置いてけぼりにされたような寂漠感を感じてる。 喫茶店“霧雨”は僕にとって唯一の居場所なんだ。店主の淹れた珈琲が飲みたくて、あの屈託のない少年みたいな笑顔が見たくって、ここにいる。
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