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閉店作業を終えると、外階段から居住スペースにある風呂に向かった。
ベットやクローゼットを使わせて貰っている広い寝室と、洗濯機を置いた脱衣場と風呂とトイレだけのシンプルな部屋だが、ひとりで暮らすには充分だった。
あちこちに店主の残像や形跡があり、胸を燻らせていたが。
睡眠を大切にする僕は、夜の12時に就寝して、朝の7時に起床する習慣がある。学生時代は朝練がある部活を避けたくらいだ。
洗濯機を回してから風呂に湯を溜めて、ゆっくり湯船に浸かる。入浴剤やボディソープにこだわるのは昔から。
「ふー!疲れが吹き飛ぶ♪」
当時、煙草の煙が苦手なオーナーが、好きな珈琲を好きなだけ飲みたいと開店したのは、僕が大学1年の秋だったな。珈琲を卸から直接仕入れていたのは当時から変わらない。
ちなみにオーナーは店主の父で、僕の祖父だ。母の再婚相手の弟が店主だから、血は繋がっていないんだけど。常連客が大学助教授だと噂していたのはオーナーのことだ。ま、他人が店舗を譲るって尋常じゃないよな。
確か開店してから半年後の春に、バイトがしたいって、店主に直談判したんだっけ。
店主として尊敬してるだけじゃなく、どうしようもなく惚れちゃったんだ。初めて惹かれてしまったのが、5つ年上の同性だなんて思わなかったよ。
あの逞しい胸に飛び込みたい。あの真っ直ぐな髪を撫でていたいって。マジでヤバい奴になってたんだ。
「お願いします。ここで働かせてください」
「もう手伝いしてくれてんじゃん。就活に有利なとこでバイトしねーの?」
「僕は霧雨で働きたいんだ」
あの時、驚愕した表情が忘れられない。
「お前さ、よく考えてからにしろよ。喫茶店の経営なんざ、稼げる金額なんか知れてるぞ」
「ちゃんと考えたよ!ホットケーキを焼く特技を活かせるし。趣味と実益を兼ねるって意外に難しいよ?」
「わかったわかった。バイトからな?仕入れの受注発注を任せるから、朝、8時に裏口開けろ」
手渡されたのは、3本の鍵が付いたセキュリティカード。表裏のドアと、シャッターの鍵の重たさが、ものすごく嬉しかったんだ。
ベランダに洗濯を干してから、ベットに横たわる。
明日からは盆休みで3連休だ。普段は日祝が休みだから嬉しいかも。何をしようかな?
そういえば零子や両親から実家に帰るよう念を押されてた。自室や居間でゴロゴロするだけだろう。ショッピングモールで買い物がしたい。本屋にも行きたいし、新しいカフェも散策したい。
翌朝。近所の花屋“FLOWER878”で仏壇に供える花を買う。
「いつもありがとうね颯大くん。零子ちゃんによろしく」
「はい」
お供え用の花ではなく、色彩豊かな切り花の花束ふたつ。店長さんは父の同級生だ。
周囲の人たちが僕を支えてくれる環境が有難い。
「おはよう」
零子が“Happiness”の箱を抱えていた。
「今から帰るでしょう?」
「ああ。そうめん食べたい」
「あはは!暑いもんね。母さんが天ぷら揚げるって。父さんが会いたいって煩かったのよ」
ふたりで電車に乗ると、周囲の視線は明らかに零子に釘付けで少し気まずい。
冷房が効きすぎて寒いが、揺られる感じは嫌いじゃないんだけどな。
「零子は仕事どう?」
「弁護士の補佐なんて事務仕事と同じ。担当の弁護士と、ウマが合うかどうかだしね。バイトで丁度いいの」
「そうか」
「大丈夫よ。霧雨で働くことがストレス発散なんだから。当分辞めないわ」
「ありがとう」
零子が就職してしまえば、ひとりで切り盛りするのは困難になる。
ポツリと弱音を吐く。
「孝一郎、早く帰って来たらいいのに」
「そのうち、珈琲飲みに来るわよ。叔父は気まぐれだから」
零子が肩に乗せた手のひらが優しくて、胸の奥がじんわりとした。
「ただいま」
仏壇で手を合わせて祖父に挨拶をした。生前から華やかな花を飾れと言われていたが、いつも斬新な図だと思う。
「お帰り颯大」
母が玉露入り煎茶と落雁を供えた隣に、マドレーヌを並べた。
「ただいま母さん。父さんは?」
「居間よ。後で買い物に行きたいそうよ」
「はいはい。荷物持ちだろ?」
「楽しんで来てね」
父は服やスニーカーなど色々買ってくれた。物静かで優しい父は、血が繋がっていないのに、互いに気性や性格が似ていると思う。
シアトル系のカフェで、ほうじ茶ラテを飲みながら、僕をじっくり見つめる父が呟いた。
「ああ、もったいない」
「何が?」
「こんなに可愛い颯大が、愚弟に縛られてるからさ」
「縛られてなんかないよ。僕が霧雨を大切にしたいだけだよ」
「そうか。いつ戻るんだい」
「明後日。掃除はしておきたいから」
「夜はちらし寿司だよ」
「すまし汁あるかな?」
「旨いよなアレ」
父さんが微笑みを浮かべた。つられて僕も微笑んでみせた。
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