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春の終わり
硬く手を握られたまま孝介のマンションに着くと先に玄関に入った孝介が振り返り僕に「おかえり」と微笑んだ。繋いだままの手を思わずキュッと握り返す。
――おかえり
「僕……」
握り返した手を離し孝介の首に両腕をまわして抱きついた。そっと背中を包み込み抱き締めてくれる。すべてを受け止めるその温もりに僕はいつしか号泣していた。
死にたかったんじゃない。愛されたかったんだ。生まれながらに皆が持っている、絶対的に裏切らないこの世で唯一の無償の愛とやらで。
「……僕を、愛してください」
孝介が耳元で「愛してるよ」と囁いた。
「出会った頃から、ずっと」
欲しいお菓子が口に入らない幼子が地団駄を踏むように生きた人生を、逆戻りは決してできない。だけど、例えスマートな生き方じゃなくても泥沼に堕ちる都度差し伸べられたたくさんの手のおかげで僕はいま、やっと。
セミダブルのベッドで深々と唇を合わせると、離れた途端に孝介がわらう。
「甘い。お菓子でも食べてた?」
「授賞式のとき、シャンパンとイチゴが出て」
「イチゴ食べたの?」
僕は頷く。孝介が髪を撫でながらクスクスと喉を鳴らし「こんなに小さい子抱いたら捕まりそう」と冗談めかして呟いた。
「シャンパンも呑んだよ!ちょっと、だけ」
お酒を呑んだんだから大人だと言い張ると「そういう所だよ」とまた笑われた。確かに舐める程度ですぐにイチゴで口直しをしたけれど。
いつの間にか上も下もスーツは脱がされ、白いシャツと下着姿になっていた。そのシャツのボタンに彼の手がかかる。
「あっ」
思わず声が洩れてピクリと脱がせる手が止まった。「ん?」と孝介が小首を傾げる。
「あ、の」
手が掛かったと思いきや俊敏に第三ボタンまで外されていた。
「僕、その」
「はじめてだから、優しくするよ?」
痛いのも嫌だけれどそれだけじゃなくて、
「恥ずかしい……」
「……と、言われても電気は消えてるし」
確かに電気は消えている。まだ夕方なので沈み切らない太陽光で部屋が明るいのだ。赤面しているであろう燃える頬を隠すべく枕に半顔だけでも埋め込む。
「太陽消して」
「無茶言わないで」
僕の乱れた髪を手櫛でときながら孝介がするりとその手のひらを頬へと撫でおろす。
「まもる?そんなに俺が信じられない?」
乱れた胸元のシャツを両手で握り締めて、はだけた前を隠しながら顔を半分枕に埋めて硬く両目を閉じる僕に孝介が少々力なく尋ねる。チラリと片目を開けて見上げると、苦笑しながら彼が僕の頬を長い指で撫でつつ見下ろしている。
「そういう、わけじゃ」
「あんまり駄々こねないで。十年分の性欲なんだから」
「性、欲……?」
「優しくはするよ。でもこれ以上『待て』はできない」
ふいに不安が襲った。シャツを握る手を離し孝介の首におずおずと両手を伸ばす。その片腕を取り首にまわしてくれながらも孝介は怪訝そうに僕の顔色を窺う。恥ずかしがって貝のように閉ざしていたのが急に身体を開き始めたことを奇怪に感じているのだろう。
「……嫌だ」
なんとか絞り出した声に孝介が「ん?」と聞き返す。
「孤独は、嫌だ」
孝介が切れ長の瞳を細めて僕を見つめる。
「……もう、孤独じゃ」
当たり前に家族に囲まれ、当たり前に親兄弟と助け合う周囲の人々が脳裏を巡った。ゼロと1の大きな違いを彼らに説いたって数字の問題じゃないと浅薄な反論をされ徒労に終わる。人は在物に疑いの目は持たない。きっと彼らはたった一人の寄り辺すら失ったとき、はじめて殺人的な寂寞の念を知る。
「生きていけそうにない」
充分知った。知るべきことは早めに知った。人より少し早すぎた。この気持ちは、きっと誰にも一生わかってもらえない。だから、わかってもらわなくても、もういい。
首にまわした両腕で引き寄せた孝介の肩に顔を埋めて泣きじゃくっていた。
「俺がいるよ」
ギュッと抱き締めて震える背を撫でてくれる。
「何があっても離さないから大丈夫。長年の苦節で厭世的。甘ちゃんなのに人間不信をこじらせちゃってて相当厄介な内面だけど、俺はまもるを愛し抜く自信がある」
自信という言葉にふと顔をあげ彼を見る。
ニコリと微笑んで彼は告げた。
「自分を信じてやることが何をするにも一番だいじ。俺はまもるを愛してる。ずっと離さない自信がある。俺は、そういう俺を信じてやれる」
自信なんて、とっくに失くしてた。
「愛も仕事も急がなくていいさ。ここから先は前途洋々。まもるの幸せな人生のはじまり」
開いたシャツの隙間から孝介は僕の鎖骨に唇を落とした。チュッと吸い上げられ思わず熱のこもった吐息が洩れた。大きな手のひらが腰元に滑って下着を剥ぎ取る。彼にならすべてを任せられる。間違いだらけのこの世の中に永遠なんて、絶対なんてあるはずもない。だけど裏切られたって愛されたって、緋村孝介になら構わない。
両足を持ち上げた孝介が「力抜いて」と囁いた後グッと体内に質量が割り込んできた。
「んっ」と眉根を寄せて硬く瞳を閉じた僕に彼が軽く口付ける。「俺に任せて」そう囁かれて頷いた。
親に棄てられた子供たちはお菓子の家に辿り着き魔女と戦って入手した金銀財宝を親の元へと持ち帰り幸せになる。
楯と賞を入手しても残念ながら僕にはもう帰る家も抱き締めてくれる生みの親もいない。だけど僕はあの童話の子供たちよりもずっとずっと幸せだ。お菓子の家で待っていたのは魔女ではなく誰よりも男らしい至高の男、上品で聡明なふたりの王子様だったのだから。
体の中一杯に熱い体温が充満する。内側から溢れる程に愛されている。瞼の裏で何かが光る。あれは新雪ではない。ふと目を開けると栗色の長めの前髪の隙間から切れ長の瞳が穏やかに微笑んで僕を見守ってくれていた。ずっと、この瞳に見守られてきた。一人じゃなかった。孤独に喘いで散々わめいて、だけど本当はいつもこの瞳に守られていた。
わかってもらおうとしなくていい。僕が僕を信じてやればそこに必ず道が開ける。
真冬に降り積もる新雪を越えて、ようやく辿り着いたのだ。キラキラ光る夏の海に。
完
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