修羅場

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修羅場

 授賞式後、孝介に先に帰ってくれるように告げると僕はひとり、三上さんの自宅に戻った。  見慣れたリビング。L字タイプの黒のレザーソファに、窓を背にした三上さんが腰かけている。風呂上がりなのだろう。濡れた髪に黒のガウン姿だ。前屈みになり開いた膝に両肘を突いて前方で手を組みながら、リビングの入り口に立つ僕を責めるように見つめている。 「何か言うことは?」  滅多に自分から口を開かない三上さんが僕に投げた。 「……すみませんでした」 「どうして勝手に出て行った?あの雨の日、どうして車に乗らなかった」  閉口して俯くと三上さんが畳みかける。 「そのスーツは誰に買ってもらったんだ?」  ハッと僅かに顔をあげ思わずスーツの胸元を掴んだ。 「乗り換えたのか」 「そんな」  慌てて首を振るも、三上さんは僕が着るブランド物のスーツを眺めて緩徐に口角をあげ上体を起こしながらソファの背もたれに寄り掛かる。 「たいした才能だ」 「誤解です」 「なにが」  別の男をたらし込んだと思われている。金目当てで他の金持ちに乗り換えたと。 「君が私の知性や人柄を評価していない事は知っている。だからといってこれは」 「違います!」 「最後まで聞きなさい」  ピシャリと制されて僕は口籠った。 「世間に白い目で見られても仕方がないのではないか?君の素行に問題がある。好きなことをやって生きている人間がどれだけいると思う?そういう生き方がしたいのならば他のすべてを犠牲にするしかない」  射貫くように僕を見る三上さんを、息をのんで凝視した。 「好きな仕事をしたいのなら結婚を棄てなさい。出来ないのならやりたくない事をやりなさい、それが社会だ。『好きな人』と『好きな仕事』両方を手に入れることはできない。そして世のほとんどの人が当然の如く『好きな人』との理想の結婚を選ぶ。それが世間で言う所の『普通』だ。だけど君は『仕事』を選んだ。その時点で『普通』の皆さんの輪には入れてもらえない。自分で決めた選択の責任くらいは負いなさい」 「僕は結婚したわけじゃ……」  セミダブルベッドの上で孝介に放たれた言葉が脳裏に浮かぶ。バツイチ。僕はこの人の戸籍に入った。つまりは、そういうことなのか。  辟易したように三上さんが深い溜息を吐いた。 「まもる、世間は君を許さない」  威圧的な視線と声音にビクッと肩があがり僅かに後退ると、背後で殴るような音をたてて玄関の鉄扉が叩き開けられた。三上さんの眉根がピクリと反応し僕の背後の侵入者を見据える。 「……王子様のご登場か」  振り返ると、荒く呼吸する孝介の姿があった。呼吸を整えながら彼がゆっくりと姿勢を立て直す。 「孝、介」  彼がジロリと僕を見やった。怒りを帯びたようなその目に僕の心臓は一瞬ドキリと飛び跳ねる。 「いい加減にしてよ」 「え」  僕と孝介のやり取りに三上さんが微かに吹き出す。孝介の視線が三上さんへと移り、三上さんが「どうぞ」と彼の入室を許可した。 いつ弾けてもおかしくない程ピンと張り詰めた琴の弦を手繰り寄せるかのように、孝介は僕を素通りしゆっくりとその歩を三上さんの目前まで進めた。殺伐ともいえる緊張感に僕は思わず二人の間に割り入ろうと駆け寄った。そのとき、 「……お義父さん」  重厚ながらも僅かに揺れる声色で孝介の唇から滑り出た。面食らった僕は二人の間に分け入る直前でハタリと足を止める。目の前に、すぐに手の届く距離に真剣に向き合う二人の男性。 「月並みだが、君にお義父さんと呼ばれる覚えはないよ」  脚を組み、その上で手を組んだ三上さんがソファの背もたれにどっしりと寄り掛かったまま孝介に放つ。孝介は覚悟していたかのように静かに「はい」と返事をした。 「……殴りたいようでしたら、一発だけどうぞ」 「意外に武闘派な王子様だね」 「そういうわけでは」 「なら良かった。慎重で社会性のある者でなければ、君がこれから言明する願いはとてもじゃないが聞き入れるわけにいかない」  ゴクリと孝介が生唾を飲んだのがわかった。 軽々と世を勝ち上がってきた彼のこんな姿を、僕は初めて目の当たりにした。  孝介がその場でゆっくりと膝を折り始める。 「孝介」  止めようと手を差し伸べると「いいから」とこちらも見ずに孝介が制する。彼は三上さんの目前に跪き両手を突いた。三上さんはジッとその姿を眺め、孝介はその目を見つめ返しながら強く、しかし慎重に願いを告げた。 「まもるさんを、僕にください」  ゴツンと床に額を押し当てる音が響き、僕は思わず両目を見開き驚愕した。  神妙な面持ちの三上さんと栗色の少し長めの髪を床にばら撒きながら突っ伏して請う十年来の知己。その二人に挟まれて、僕はただ金魚のように口をパクパクさせながら狼狽した。  暫しの沈黙の後、三上さんが孝介に頭を上げるように促し、孝介がゆっくりと顔をあげて三上さんを見つめた。 「……綺麗な顔だ」  スザッと空を切る音を立てながら僕は黒髪が乱れる勢いで、孝介を眺める三上さんを凝視した。空中戦のようなやり取りに僕の頭は最早ついていけない。この状況で孝介の顔面に対する感想が飛び出すとは予想だにしなかった。 「どうして、まもるなんだ?君ならいくらでも女の子が寄ってくるだろう」 「才能に惚れています」 「君のほうが」 「いいえ」  孝介が首を振る。そこだけは譲らないと言わんばかりに三上さんの瞳を捉え目線でグッと押さえ込んでいる。 「……意志の強い瞳。君は先程否定したが、武闘派所か好戦的だ。あの手この手奥の手で欲しいものを必ず手にする。事実これまで手に入らないものなどなかったのだろう。だけどね?」  三上さんが背もたれから身を離しグッと上体を乗り出す。 「何でも君の思い通りにはならない」  フン!と鼻を鳴らし三上さんが嘲笑うように、跪く孝介を見下ろしながら姿勢を立て直し肘置きに頬杖を突いて右頬を支えた。 「あ、の」  ようやく声が出せた僕を三上さんがチラリと見上げる。 「見てみなさい。君のせいで王子様がこの有様だ」  項垂れながら未だ跪いたままの孝介を見つめ心臓が握りつぶされるように胸が詰まる。 「歩くスキャンダル製造機だな」  三上さんに向き直り戸惑いながら繰り返す。 「スキャンダル……」 「トラブルメーカーと言い換えようか?」 「僕は」 「僕は何もしてない?彼に散々私の愚痴をこぼして『助けて』と飛び込んだんじゃないのか?」 「そっ……」  図星を指されて閉口した。 「たいした才能だ」 「だからそれは誤解で」 「だったらどうして彼がこうなる」  問い詰められて口籠る。  ――世間は君を許さない  やっぱり、甘えてたのか……。苦労はしたけれどそれでも僕は今日までこうして、どうにかこうにか生きてこられた。必ず誰かが手を差し伸べてくれたから。  三上さんが再び深い溜息を吐いた。 「いい加減にしなさい」  この部屋を訪れた瞬間の孝介の第一声と同じ文言を述べる三上さんから睫毛を伏せた。僕のわがままで振り回された男性ふたりの正直な想い。孝介や三上さんを僕は散々困らせて振り回した。苦労しているのは僕の不遇であり彼らには無関係なのに。 「僕……」  もう、どうにもならない。伏せた睫毛が僅かに揺れる。画家として一本立ちして、自分の脚で堂々と緋村孝介の隣に立っていたいと思った。三上さんに縁組を反故にしてもらう為、今日僕はここに戻ってきた。だけど、そうは問屋が卸さない。僕はもう、三上さんのものだ。了承して自ら署名押印し昔の自分を消し去ると同時に戸籍を三上さんのそれに染め変えた。もう孝介の元へは帰れない。極めて粗忽な自分自身が招いたど壺。吐き気がするほど自己嫌悪に陥り思わず視界がぐるぐるとまわる。 「緋村孝介」  項垂れていた孝介が再びゆるりと顔をあげた。 「君も、もうわかっているね?この子の中の脆さと強さを」  相反するものの共存。それに対して孝介はいとも即座に「はい」と呼応した。 「私に言わせれば君もこの子も夢想家だ。芸術で食べていこうと考える事自体が甘い。君だって今は良くても明日からパッタリ仕事がなくなったらどうする。収入はゼロになりその上何の保証もない。君ひとりならどうにかなるかもしれないが、その時まもるを抱えていたら?確実にこの子が足枷になる。この子は一般社会で通用しない。まもるの長所は純粋さ。しかし長所は短所の裏返しだ。赤子同然。俗世に出せばものの数秒でバイ菌に喰い殺される」 「僕がバイトしてでも食べさせます」 「簡単に言うな。トントン拍子で世に出た絵描きが今更社畜になれるか」 「でしたら、派手に死にます」  ピクリと三上さんが反応する。 「死者は無敵。人々は失われたものや限りあるものに価値を付けます。センセーショナルな死に方をすれば僕の作品に耳目が集まり必ず高騰します。出来るだけ多くの作数を遺して、その全てをまもるさんに」  暫しお互いを見つめ合い、息も詰まるような沈黙が流れる。生真面目な孝介の瞳を睨む三上さんの目が黒光りした次の瞬間、ふと三上さんが吹き出した。ククッと喉を鳴らしながら右手の甲で口元を押さえ三上さんは肩を揺らして可笑しそうに大笑いする。 「頭おかしいよ。君たちは」  孝介が再び項垂れながらも軽く頭を振り床に突く両手の指先に力がこもる。その瞳の奥にはダイヤのような高貴な知性がゆらゆらと光っている。『あの手この手奥の手』の最後のカードを切ったいま、さらに奥の手を捻出しようと知恵を絞っているのがわかる。 そんな孝介を見やる三上さんに、僕は震える唇をなんとか動かし呼びかけた。孝介を見下ろすその視線を僕へと移した三上さんを見つめて、早鐘を打つ鼓動を意識の中で叱咤し僕は、厳たる口調で表明した。 「僕、ひとりで生きていきます」  孝介が驚愕したように僕を見上げ、三上さんも僅かに頭を引いて僕を凝視した。グッと握る両手が固まり爪が手のひらに食い込んでいる。 「赤子同然とか、僕は外で働けないとか、二人とも失礼だよ。僕だってもういい歳だし、今までだって一人暮らしくらいした事あるし。これでも早くに家族と決別してずっと一人で頑張ってきたんだから。お金なんてどうにでもなるし。全然問題ない。二人の助けなんかいらない。僕、ひとりで生きていけるから!」  散々支えてくれたふたりに対して、僕はくるりと背を向けた。ふいに目頭が熱くなり視界が滲む中、僕は独立の一歩を踏み出した。キュッと唇を引き締め玄関に向かって歩いていく僕の背に三上さんの声が掛かる。 「まもる」  聞こえないふりをして僕は歩を進める。 「まもる、待ちなさい」  涙を堪えながら玄関のドアノブに手を掛けたとき、もう一度三上さんの声が掛かった。 「まもる、なんだ今の大根芝居は」  ピクッと反応してドアノブを押す手が止まる。 「戻りなさい。誰が勝手に出て行っていいと言った」  そろりと振り返ると唖然とした様子のふたりと目が合った。 「だ、から、僕はひとりで」 「いいから戻りなさい」 「三上さん」  床に手を突いたまま振り返っていた孝介が真後ろの僕に向かって半身を切り、乱れた髪を掻きあげながら呆れたように口をひらく。 「まもる?真剣に話してるからね?こういう時に笑わせないで」 「笑わせてな……!」 「なんっにも感情こもってなかったよ?場違いなペラペラの台詞ロボットみたいに並べられたら笑っちゃうでしょう?それに、誰がひとりで生きていけるの?お金なんてどうにでもなる?ならないよ。ね?もう無理でしょう?いいから戻って良い子で待ってて」  不貞腐れたようにグッと唇を噛み、キョトン顔でこちらを見るふたりに向かって咆哮した。 「場違いってなに?僕の処遇の話なのに何で僕の意見が通らないの?ふたり共自分本位すぎるよ!」  被せるように三上さんが口を挟む。 「『自分本位』という言葉の意味は正確にわかっているのか?辞書など引かずとも正しく使えているのなら構わないが今のは誤用だ。いい歳なのにそんな簡単な言葉もわからない。自分のことすらわかっていない。まもる、君はひとりで生きていけない」  侮った決めつけに腹の底からマグマがせり上がり激昂しながら再びふたりに背を向け部屋を飛び出した、つもりだった。 「……離して」  ドアノブを握る右手首を掴みあげられて、背後から孝介の左腕が腰回りを包むように抱き込んできて引き留めれる。開きかけた玄関の重い鉄扉がバタンと重厚な音を立て再び閉ざされる。 「この粗忽者が」  石でも投げつけるように三上さんが吐き捨てる。 「……そんなことは、僕だってわかってます」 「わかっていることは俺や三上さんもわかっているよ?でも頭でわかっているだけじゃ生きていけない。まもるはさ、どこが『普通』かはわかっているのにそこから逸脱することになったとしても自分の好奇心や目的、欲求を満たすほうを選択するよね?そういうまもるを一人には出来ないんだ」 「だからもう大丈夫だって言ってるでしょ!ふたり共、失礼だとは思わないの?わかってないならまだしも、そこまでわかっててまだ僕がひとりになれないなんて、心底僕のこと馬鹿にしてる」 「馬鹿にしてるのはどっちだ?自分本位なのも君のほうだ。頭が良いのと賢い生き方が出来るのとは違う。世の中は君が思う程甘くない。魑魅魍魎の闊歩する無間地獄だ。君は『ずっと一人で頑張ってきた』と平気で吐いたね?馬鹿にするな。その時も彼がそばに居たんじゃないのか」  僕が短く息を吸い込むと同時に、僕の手首を握る孝介の握力がキュッと強くなる。 「君は人の気持ちが過ぎる程に正確によくわかる。故に敏感で繊細で壊れやすい。それでもいままで生き抜いてきたのは君の『意地』だろう。父親に対して意気地を見せつけたい。いままで侮辱した世間を見返したい。亡き母親への未練。それが画家になるという夢を叶えること。ここから先の、君のガソリンは?」  振り返ると、組んでいた脚をおろし三上さんはソファの背もたれに寄り掛かりながら腹の上で両手を組んでニコリと微笑んだ。 「絵画コンクール受賞、おめでとう」  驚愕に両目を見開いて見つめた。 「『夢なんて叶わない。やりたくない事をやるのが社会だ』と咆哮する者や、夢追い人に嘲笑いながらその文言を叩きつける者ばかり。だけどね、ひとつくらいは幸せがないと人は生きていけない。家族がいれば絶対的に自分を裏切らない人達からの愛情で皆知らずしらずエネルギー補給されている。君にはそれが一人もいない。愛情の代わりに復讐心をガソリンとして生きる君の望みを、私は叶えてやろうと思った。ひとつくらいは生きる為の幸せを。一番君が望むものを。ただ、やりたいことだけをやっては生きられない。どんなおとぎ話でも望みが叶うのはひとつだけだ。『やりたくない事をやるのが社会』それは結婚にだっていえる。皆が皆、一番好きな人と結婚していると思うな。一番好きじゃない人とでも生きる為に結婚する人々もいる」  ――好きな仕事をしたいのなら結婚を棄てなさい  三上さんは僕を生かそうとした。頼るところもなく孤独に喘ぎながらも意地を張って今にも壊れそうな僕を拾い、生きる為の希望を与えてくれようとした。事実、生活費の心配をすることがなくなり好きなだけ絵が描けるようになって技術的な面は遥かにあがった。僕が私室に引きこもり顔すら合わせなくなっても出て行けなんて一度だって言わなかった。どうしよう。それなのに僕は……。 「緋村孝介」  突然の孝介への呼びかけにビクッと反応し面食らったように孝介が「はい!」と呼応する。 「無鉄砲で向こう見ずだ。下手をすれば即ワッパで塀の中。しっかりシャバに繋ぎ留めて社会のバイ菌から、君がまもるを守ってやってくれ」  両目を見開き三上さんを見つめ、背後から僕を抱く孝介を見上げた。孝介は微かに「あ……」と吐息のような声を漏らし、手首を掴んでいた手を離し両腕で僕をギュッと抱き直した。 「……は、い。はい!」  状況を咀嚼して飲み込み孝介は決意表明のように力強い返事をした。三上さんは緩やかに口角をあげて僕をみる。 「まもる、君は正直欠点だらけだ。しかしそれを補って余りある不思議な魅力と才能がある。敵の強さがわかるのも強さのうち。君の秘めた力を正確に評価してくれる優秀な人にちゃんと守ってもらいなさい。君を馬鹿にしているわけじゃない。君に限らず、人は誰しもひとりでは生きられない。夢と同時に一番好きな人も手に入れた以上君には今後、今まで以上にたくさんの称賛と侮辱が待っている。だが人間にはね、否定する相手が必要なんだ。自分達と違う存在を人は決して許さない。まもる、世間は君を許さない」  三上さんは、はなむけの様に僕に微笑みながら告げた。 「たいした才能だ」  言葉にならない僕の代わりに、孝介は僕を抱えたまま三上さんに深々と頭をさげる。早鐘を打つ鼓動が連鎖しているように震える声音で孝介は「ありがとうございます。お義父さん」と言い残し、僕の手を引きながら足早に三上さんの部屋を後にした。    三上さんのマンションを出て、葉桜さえも散りかけた桜並木を行く。部屋を出たときのまま、しっかりと握られた手をぐいぐい引っ張られながら僕は振り向き何年も住み込んだ三上さんの部屋の窓辺を見上げる。一際強くグン!と引かれて肩がぶつかり孝介を見る。 「振り返らない」と孝介が前方を見据えたまま僕に諭す。返事をしながらも歩幅が狭まり止まりそうに速度が落ちると再度グン!と引かれ「立ち止まらない」と引っ張られる。ギュッと握られた手に痛い程に力が込められる。  三上さんがあんなに話す人だなんて知らなかった。何も言わないことが三上さんの美学だったのだ。きっと今までも僕に言いたいことは山程あったはず。それなのに何も言わず、ただ静かに僕を見守り生かしながら「幸せになれ」と無言で願っていた。そうやって、僕を愛してくれていた。  春の終わりに気付いた。あの人だって王子様だったことに。 「さよならじゃないよ」  ふと呟いた孝介を見上げる。硬く手を握ったまま僕に告げた。 「あの人はまもるの父親だから」  家族のいない僕を、いままで無償で養ってくれた。なんの見返りも求めずに? 「そんなお人好しは、このご時世にいないはずだけど」  僕の想いが聴こえていたかのように孝介が答える。 「……カッコいいよ、三上さん。ああいう人にならなきゃいけないね」  軽々と世を勝ち上がった王子様が、何でも持っている王子様が、はじめて膝を折り平伏した人。その想いに無言で応えた人。  僕はよく言いようのない苦難に見舞われる。泥沼に堕っこちて、汚れて死んでいけと世間中が石を投げても、なぜだかいつも必ず誰かがスッと手を差し伸べてくれる。泥まみれの手を握り沼から引きあげ生かしてくれる。何度死にたくなったって、それでも僕はいつも死なせてもらえない。 ――生きるほうに選ばれてきた
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