お菓子の家

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お菓子の家

 刺すように輝く新雪が木々の枝葉からバラバラと崩れ落ちていく。木漏れ日のようなそれが瞳に降り注ぐ寸前でふと目が覚めた。見慣れない天井に一瞬戸惑ってここが孝介の家だと思い出す。ベッドがひとつしかないからソファで寝るという彼の袖を掴んで「一緒に寝よう」と引っ張り込んだ。久しぶりに人と一緒に寝た。セミダブルベッドは男二人でも充分に広く快適すぎる空間に酔いしれながら眠った。幸福の余韻を噛み締めながら口角をあげ彼が眠るほうへと寝返りを打つ。 「え」  思わず目を見張り勢いよく上体を起こす。 「こら、動かないで」  ふいに背後から声が掛かり振り返った。 「仰向けに戻って。もうちょっとだから」  スケッチブックを抱えた孝介がベッド脇の椅子に腰掛けてクレパスでデッサンをしている。ふいにブルッと身震いして自身の身体に目をやった。 「あ」  夢で見た新雪のような眩しいシーツの上に直に乗る自分の素肌が目に飛び込む。咄嗟にそのシーツを握り晒された裸体に巻き付けた。 「隠さないで。さっきの状態に戻って」  淡々と告げる孝介を凝視しながら頬が熱くなっていくのを感じる。巻き付けたシーツを押さえる指先が小刻みに震える。突如訪れた突飛な状況をなんとか情報処理しようと寝ぼけた頭をフル回転させた。昨日絶対裸でなんて寝ていない。寝巻用のTシャツとハーフパンツ、下着もちゃんと履いて寝た。狼狽する僕をよそに孝介は事務的にスケッチブックに斜影を入れる。 「……孝介」  ようやく彼がスケッチブックから目をあげる。視線がぶつかって身体がビクリと反応した。 「……これ、なに?」  恐るおそる尋ねると彼の口角が僅かにあがる。 「恥ずかしい?」  戸惑いながらも小さく頷いた。  「俺しか見ないから大丈夫だよ。あとちょっとで完成だから。ね?」  彼の手元のスケッチブックに視線をやるとそれがひらりと反転して作画途中のスケッチが目に飛び込んでくる。思わず息をのみ凝視した。孝介らしい繊細なタッチで確かな観察眼のもとに僕の素っ裸の寝姿が描写されている。 「なかなか良い出来だと思わない?一度描いてみたかったんだよね。まもるのヌード」  スケッチブックを戻しながら飄々としている彼から目が離せない。もう十年知っている彼の右手がポルノグラフを紡いだことなどみたことがない。しかも寝ている間に裸にして無断で描くなんて乱暴なことをする男じゃない。巻き付けたシーツ越しにギュッと自らの裸体を抱くと彼が再び視線を落として僕のスケッチに影を入れ始めた。クレパスが画用紙の上を滑る簡素な音だけが寝室に響く。暫しの沈黙ののちにふと彼が口を開いた。 「まもるはさ、昨日食事を食べたよね?」  心なしかいつもより語気が強い。気圧されて答えに逡巡していると彼が続ける。 「この部屋にも泊まったよね?」  クレパスをベッドサイドテーブルに置くと彼は再び視線をあげて射貫くように僕を見た。 「働かざる者食うべからず」  殊更ゆっくり発音されたそれが静まり返る空間を突き抜けて真っ白なシーツを切り裂いた。裸体を隠す唯一の布がするりと舞い落ちて一糸纏わぬあられもない姿が親友の目前に晒される。硬直する僕をみながら彼はクスクスと喉で笑った。 「シーツ落としちゃうくらい驚いた?俺がこんなこと言うの」  落としたそれを拾う気力もなくただ両腕で小刻みに震える身体を抱いて目を伏せた。 「そんなに恥ずかしがらなくても男同士なんだし別にいいでしょう?バツイチの癖になにカマトトぶってんの」  耳を疑って顔をあげる。 「バツイチでしょう?もう三上さんのところに帰るつもりないならそっちの世界では立派なバツイチだよ」 「……そっちの」 「同性愛者の世界」  閉口して唇を噛んだ。彼が短く息を吐いてスケッチブックをベッドサイドテーブルに置きガタンと音を立てて椅子から立ち上がる。 「好きでもないおじさんと籍なんか入れて信じられない。まもるは本当にぶっとんでるね」  辟易した様子で頭を掻きながら彼は後方の小さい冷蔵庫の前まで歩み寄り扉をあけながら「何か飲む?」と問いかけてしゃがみ込んだ。 「もちろんタダじゃないよ。タダなんて虫のいい話はこの世にはない。一宿一飯、飲み食いするごとにお代はもらうよ。昨日の分はそのヌードモデルで相殺ね」  ベッドサイドテーブルに置かれたスケッチブックを見やると僕の全裸の寝姿が完成していた。陰部までくっきりと描写されたそれにみるみる体温が上昇して体中が真っ赤に染まり赤面する。いつの間にかベッド脇まで戻ってきていた彼に水のペットボトルを差し出されるが首をふって拒絶した。一瞬肩を竦めた彼が快音を鳴らして蓋を開けて明らかによく冷えた美味そうな水をゴクゴクと豪快に煽る。上下する喉仏を見上げながら僕は乾いた自らの喉にゴクリと生唾を押し込むしかなかった。ペットボトルの半分ほどの水を飲み干して蓋を閉じると孝介はそれをベッドサイドテーブルに置いた。 「意地張ったって仕方ないのに。どうせまもるは外で稼げないでしょう?何年もぬるま湯に浸かっていた子が急に稼げるほど世の中甘くないから」  透き通るブルーのペットボトルの内側を滴る雫を眺める彼は薄く憫笑を浮かべていた。十年間、一度も見たことのない彼だった。  お菓子の家をみつけた子供たちはそこに潜んでいた魔女に食べられてしまうんだっけ……。あの童話がおしえていたのはこういうことなのだろうか。  ――甘いお菓子をタダで喰えると思うなよ    紅い絵の具がシャワーに溶けてタイルの床を染めていく。裸足の足元は真っ赤に染まりまるで誰かが死んだみたいだ。自嘲気味にハハッと嗤うとふいに目頭が熱くなり絵の具のチューブを握る右手を押しあてて泣いた。額をパックリと割られたようにだくだくと紅が流れて涙と共に一瞬でシャワーに溶けていく。    大切な人を失ったとき、言いようのない苦難に見舞われたとき僕はいつもこうやって乗り越えた。紅い絵の具はお葬式。もう二度と会えない人を想ってひとしきり泣き叫ぶ。血の涙を流しながらありったけの哀情を吐き出して絵の具のチューブが空になると同時に僕も空っぽになっている。失くした人をいつまでも想っていても仕方がないのだ。死んでいようが生きていようがもう会えないのなら同じこと。お葬式をして想いも情念も吐き出して身軽になってまた進む。一人で生きるには何もかも背負っていくのは重すぎるから棄てたくないものでも泣きながら棄てるのだ。生きるために棄てるのだ。  そうまでしてでも生きてきたのに迎えた結果がこの有様だ。大失敗の人生に腹の底から嘲笑が込み上げてきて大笑いしながら熱い真っ赤な血の雨を浴びた。    シャワーの栓を締めて脱衣所に出ると孝介が腕組みをして立っていた。濡れ鼠の素っ裸での対面に一瞬動揺したもののもう覚えられるくらいたっぷりと見られたあとだと開き直り裸のままその脇を擦り抜け、洗面所脇のゴミ箱に空になった絵の具のチューブを捨てた。肩につきそうなほどまで伸びてしまった黒髪の裾からポタポタと水滴がしたたって濡れた前髪の隙間から僕は捨てたチューブをただ眺める。  一生を共にしたい一番大切な人だと思っていた友の葬儀もこれで終わった。知り尽くしていると自負していた彼はもうどこにもいない。いや、もしかしたら彼さえも最初からいなかったのかもしれない。  頭の上からバスタオルが掛けられる。濡れた髪を拭かれながら僕はなんの抵抗もせず身を任せる。 「うるさい風呂。泣いたり喚いたり笑いだしたり」  体中の水滴を拭きとられながら、聞かれていたのかと僕は身を硬くする。 「強いんだか弱いんだかわからないね、まもるは」  身体を反転させられて彼と対峙すると今度は頭から大きめの白いTシャツを被せられた。 僕が持参した衣服じゃない。孝介のTシャツだ。身長のある彼の衣服は僕にはダボダボで裾が膝上まできてまるでワンピースを着せられているようだった。 「可愛い」  揶揄されて頬を染め俯く。手櫛で髪を整えられて手を引かれた。つんのめりそうになりながら付いて行くとリビングのガラステーブルの上にキャンバスやスケッチブック、新しい絵の具やクレパスが所狭しと並べられていた。 「うわぁ!」  欲しかった色や筆のピカピカの新品が照明に反射してより眩しく輝いていて、思わず破顔し歓声をあげる。 「好きなものを好きなだけ使っていいよ。他に欲しいものがあれば言って。すぐに用意するから」  舞い上がって彼の袖を掴みその顔を見上げるとバチンと目が合って我に返った。慌てて袖を離し視線を逸らして俯くと彼がクスクスと笑う。 「子供みたい」  離した手のやり場に困ってダボダボのTシャツを握る。孝介がテーブル脇にしゃがみ込み絵の具のチューブを手に取って眺める。 「まもるの好みは熟知してるから。ひとつも 外してないでしょう?」  確かにどれも僕好みの画材。しかも稀少な物や高価で手が出なかったものがズラリと並ぶ。 「芸術に興味のないおじさんはいくらお金があっても絵を描く道具には無頓着だよね。かといって衣食住お世話になっている立場で高価な画材をおねだりなんてできない。本当は欲しいものいっぱいあったでしょう?」  ずっと胸中にあった想いを言い当てられて胸が詰まる。彼は何もかもお見通しだ。僕のことなんて考えていることや一挙手一投足まですべて手に取るようにわかるのだろう。僕のことを誰よりも知り尽くしている。何も言わなくてもすべてわかっている。だけど僕は本当の彼を何も知らない。十年も一番近くにいたくせに彼の本質がいま見えない。  「孝介……」  振り返らずに彼が「ん?」と返事をする。 「僕、これから」 「俺の愛人」  思わず息をのんだ。 「まもるは外で働けない。だけど家事もろくに出来ない。まもるに一番向いてるのはね、愛人稼業だよ」 「愛、人?」  耳を疑いながらも、立ち上がり振り返る彼に威圧されて身を引いた。 「稼げる男に可愛がられるのがまもるの仕事」  近付いてくる彼がまるで見ず知らずの他人のようで無意識に距離を取ろうと後退る。数歩下がった所でバランスを崩し転倒しそうになり彼に腕を取られて支えられその胸に抱き留められた。すぐさま両腕が背中にまわってきてギュッと抱かれる。 「欲しいものは俺が買ってあげる。三食俺が食べさせてあげる。雨つゆ凌ぐ屋根だって俺が与えてあげるから、まもるは俺の言いつけを守って俺に可愛がられるように努力すること。それがまもるの今後の仕事」   いつものように髪を撫でられながら震える両手でそろりと彼の胸元のシャツを掴む。 「孝介」  もうお葬式は済んで乗り越えたはずなのに溢れる涙が止まらない。 「友達……」  嗚咽に邪魔されて言葉が詰まる。そんな僕をあやすようにそっと髪を撫で続けながら彼は柔らかな口調で告げた。 「どうしてそんな口から出まかせを信用しちゃうの?」  思わず目が見開いてゆっくりと顔をあげた。彼は僕を見下ろし小さく息を吐いて小首を傾げる。 「まもるは童貞だからわからないのかな。男はね、好きな子を抱くためなら平気で嘘吐くしどんな手だって平気で使うよ」 「嘘、なの?」 「嘘に決まってるでしょう?三上さんの誘い文句も嘘だし俺も嘘だよ」 「三上さんは何もしなかったよ!」 「食べ頃になるのを待たれてただけ。まもるが同性愛者じゃないのをわかっているから慎重に時期を待ってた、まもるは泳がされていただけだよ。じゃないと説明がつかないでしょう?骨肉相食む世の中で誰が赤の他人を無償で養う?」   唇を噛みながら彼のシャツを握る手が力んで震える。 「……孝介は、ずっとそう思いながら僕と付き合ってたの?」  濡れる頬を彼が長い指先で拭いながら答える。 「そうだよ」 「十年間、ずっと?」  縋るように尋ねると腰にまわされた腕に力が込もり軽々と身体が持ち上げられて踵が浮いた。ゆっくりと彼の唇が降りてきて合わさる寸前で無情に囁いた。 「そうだよ」  嘆くはずの唇を塞がれた。  この瞬間、僕は本当にすべてを失った。天涯孤独の身の上でたった一人の友もいない。この身体でさえもう僕のものではなくなったのだ。  セミダブルのベッドに組み敷かれてさっきよりも深く唇を塞がれる。小刻みに震える身体を宥めるように舌を絡めたまま身体中を丁寧に撫でられた。十八歳で勘当同然で実家を出てから学費と生活費に追われて恋愛なんて無縁の代物。今日までキスもしたことがなかった。はじめて人と肌を合わせるのが親友だと思っていた男。それもそう思っていたのはこちらだけで向こうはなんとも思っていなかった。なんて間抜けな話だろう。唇が離れて彼が語った。  美大の入学式で別段変わった風情はないのになぜか僕が目立っていてそれから無性に気になった。どうしても抱きたくなって友達のふりをして近付いた。馬鹿みたいに無防備に懐く僕の性格を時間をかけてじっくりと見極めた。分析結果は『愛と優しさに飢えた甘ったれ』。だから徹底的に甘やかして砂糖菓子のように優しい男を演じ好きなだけ甘えさせた。洗脳するほどの気合いを入れて僕を取り込みにかかり依存させて離れられなくさせた。孝介もまた僕が食べ頃になるのを待っていたのだ。突然現れたおじさんに一時期でも横取りされたのは俺の一生の不覚だけどねと彼は静かに笑った。 「災い転じて福となす。結果としてまもるはいま俺のベッドの上」  もう一度ついばむようなキスをして「しかもバージンのままでね」とクスクスと笑う。シャツの裾から大きな手が滑り込んできてあっという間に脱がされる。素肌に一枚だったそれを剥ぎ取られて反射的に僕は裸体を抱えて丸まった。手首を握られて力任せに仰向けに身体を開かれる。いつの間にか荒い呼吸を繰り返している彼が加減なしに握る手首がギリギリと軋んで痛い。こんな握力も腕力も僕にはない。同い年の男なのに筋骨隆々とまではいかないものの適度に鍛えられた肉体美を誇る孝介とひきこもりよろしく私室に籠もりっぱなしで世を憂いてばかりいた僕とでは目に見えて歴然たる体格差があった。身が縮こまり僕は矢庭に青ざめる。これでは本当になすがまま、されるがままだ。恐々とする心情を察してか彼がにんまりと口角をあげた。 「まもるは小さいけれど、それでも男の子だからね。抵抗されたら女の子よりは多少は面倒だからこの十年、俺筋トレに励んだんだ。元々女の子には困ってなかったけれど良い身体になったら前以上にモテるようになったよ。俺も同性愛者ではないから男を抱くのは初めてだけど俺上手いから安心して。女の子たちには好評だから」  氷のような息を吸い込み冗談じゃないと渾身の力で暴れ倒す。憐憫の情でも抱いているかのように彼は薄く笑みすら浮かべてビクともせずに悠然と僕を見下ろしている。 「まもるには無理だよ。疲れるだけだからやめときな」 「ふざけるな!」 「俺の十年は伊達じゃない。甘ったれた子猫ちゃんが今更必死になったってなんの阻害にもならないよ」 「だ、誰が」  子猫ちゃんなどと揶揄されて狼狽しながら泡を吹く。そんな僕の有様をみて彼は親が子をみるように兄が弟をみるように可愛くてたまらないと言わんばかりに目を細める。 「女の子より優しくしてあげるから大丈夫だよ。恐がらないで?まもるは優しくされるの好きでしょう?」  するりと素肌の上を滑り下りた手が剥き出しの双丘の下に潜り込みとある箇所を探る。 ビクンと飛び跳ねた身体に彼が体重を乗せてきて逃がしてもらえない。 「い、やだ。孝介」  情けないほど震える自身の声にショックを受けながらゆるゆると首をふると下半身を眺めていた彼が顔をあげて視線を寄越した。 「どのツラさげて言ってんの」  氷柱のような眼差しが僕を刺し彼の口から聞いたことのない粗野な暴言にビクリと目を見張る。 「金もない家もない能もない!なんにもない癖に何一丁前の態度取ってんだよ。いま俺に棄てられたらお前どうやってメシ食うの?あてもなくさ迷う他ねぇじゃんよ!」  驚愕に凝固する僕を横柄に見下ろし覇者のように彼は振る舞う。 「他に能がねぇんだから男に可愛く媚び売れよ。稼げる男に可愛がられるのがお前の仕事だっておしえてやっただろ?お前にはそれがお似合いだ!」  一度だけ「よく孝介と付き合えるね」と美大の同級生に言われたことがあった。どういう意味かと尋ねてもはぐらかされてそそくさと去ってしまった。冬将軍のように不遜な男に組み敷かれながら僕の視界は真っ赤に染まり、光を失くした瞳からは涙が溢れて枕を濡らした。  僕だけが知らなかった。お菓子の家に潜む魔女を。甘い王子様の正体を。  お菓子の家で魔女に喰われかけた子供たちは燃え盛る炎の釜戸の中に魔女を突き落として殺した。勝手に甘いお菓子にはしゃいで好き放題に食べ散らかした子供たちが悪いのに、自分たちの都合で魔女をあっさりと焼き殺した。お菓子の家にまんまとつられた自業自得なのに。   赤い手のひらをぶら下げて土砂降りの雨の中をふらふらと歩いた。指先を伝ってしたたる涙型のルビーの粒が雨つゆに溶けて流れていく。傘もささずにふらつく不審者にすれ違う人々は皆目を逸らし、または眉を潜めて厭忌した。自分たちと違うものはなんの逡巡もなく迫害する。世間なんてそんなものだ。みんな死ねばいい。血で血を洗ってみんな死んでしまえ。  住宅街の狭い路地を向かい側から黒塗りの高級車が近づいてきた。左ハンドルの運転席の窓が開きうんざりするほど聞き慣れた声がとぶ。 「まもる!」  腹筋に全く力が入っていない歯の隙間から抜け落ちるような気の抜けた声質と発声方法。聞き取りづらいその声にのろくさと振り返ると案の定自身で起こした火事の白煙の中でただクルクルと回る三上さんだった。 「捜したんだぞ!ずぶ濡れじゃないか、乗って!」  ゆるゆると首を振って拒否する。懸命に説得する彼をよそに僕は歩き出した。必死に何かを叫んでいるがただでさえ難ある発声が雨音に邪魔されて余計に聞こえない。アスファルトを叩く水音如きに負けるのならそれほど伝えたい想いではない。そんな想いで何も動かせるわけがない。どんな華々しい学歴も職歴も台無しにする機知のなさ。もちろん人間には得手不得手がある。同胞、同類以外は認めないほど僕は軽薄なわけではない。理科系の研究者もシステムエンジニアもこの国に必要不可欠な博識の智者だ。尊敬すべき点は多分にある。けどやはり人には好みがあるのだ。虚勢と口先ばかりが立つ畜生じみた輩とはとても共存できないが、型通りにしか物事を運べない四角四面にプログラムされた感情のないロボットにも残念ながら僕は心惹かれない。僕はいつでも、人の感情の機微に敏感で当意即妙な洒落具合と人間らしさを慈しむ。泣いて笑って狂乱して舞い上がる。それであってこその人間じゃないかと確信している。幾多の荒波を乗り越えて獲得した我が人生の命題を血の滲む研鑽の末に確立した腕をもってして表現する。それが出来る芸術家は得てして目が覚めるほどの眩い個性を秘めており内面から煌びやかに発光して意図せず誰の目でもひき付ける圧倒的な存在感を持つ。  兎にも角にもつまり僕は機知に富んだ魅力的な『らしさ』を持つ人を好むのだ。わかっていたのに、生きるため、絵を描くためとはいえ一番遠い人物に寄り掛かり結果すべてを失った。戸籍も汚れて一番大切だった人まで失ったのだ。  見るも無残な画家崩れの失敗人生物語。  散々孝介に言われてきた通り甘ったれた性格であるという自覚はある。だけどその僕が三上さんを見ていていつも思っていたこと。  ――そんなに甘えててよく生きていけるね  過保護な家庭で四十歳まで甘え続けて生きた人。今の自分では手の届かない欲しいものを限界以上に手を伸ばし何がなんでも掴み取ろうと汗まみれ泥まみれで努力をした経験が人生でただの一度もなかった人。そんなに甘えて生きてきてこの年齢になってからもなおまだ家族の慈愛に包まれ続ける中年の姿に気が狂うほど嫉妬した。  タダなんて虫のいい話はこの世にはない。物はもちろん愛も優しさもタダではない。受けた恩は返すのが道理であり人として当たり前のことだ。だけどたったひとつ、無償のものがあるとすればそれこそが家族の愛。  親が子に注ぐ慈愛。見返りを求めないこの世で唯一の無償の愛。  一度でいいからそんなふうに愛されてみたかった。  公園のドラム缶が連なる形の遊具の中で夜を迎えた。散々雨に打たれたせいで髪も服も下着まで雨水が浸透して全身がグッショリと濡れそぼり身体の芯まで冷え切っていた。テレビの砂嵐のような雨音を聴きながら遊具の中の冷たいコンクリートに寝そべる。濡れた鞄を抱き締めて目を閉じると色鮮やかな景色が巡った。薄れ行く意識の中でこれが走馬燈というものかと瞼の裏で漠然と眺める。極彩色のこの映像が途切れると同時に僕の人生も終わるだろう。愛も夢も何ひとつ得られないまま僕は凍えて死んでいく。何日も気付かれず腐乱して悪臭を放ち唾棄されながら処分されることだろう。乱雑に燃やされて生きていた証すら残らない。  ゆっくりと目をあけると依然として目の前は真っ赤に染まっていた。濡れた鞄の中からスケッチブックを取り出し奇跡的に雨水が浸透していないページを開いて仰向けのまま手のひらを這わせて染めていく。死ぬのなら画家として死にたい。ズタボロの人生だってせめて一枚、執念の一作くらいは遺したい。画家にもなれず母の死に目にも逢えず、たった一人の大切な人さえも失った。何度も泣きじゃくり歯を食いしばりながら生きたのに。 「結局何も掴めなかった……!」  紅く巡る走馬燈を僕は夢中で画用紙になぞった。  僕は甘えてなんかいない。学生時代も卒業してからも折に触れて親や兄弟の愚痴をこぼしながらも無自覚にそれに寄り掛かり甘える友人たちを見ながら僕はいつだって両足を踏ん張りたった一人で立っていた。  母親が作ったお弁当を食べる先輩、アルバイトもせずに好きなことを存分にやり父親に家賃を払ってもらう同期。親の仕送りで高価な衣服を日替わりで纏いながら、さも自らが華麗かのように気取る者。皆が自覚なしに親に甘える様を指を咥えて眺めているとき孝介だけがそっと後ろから頭を撫でてくれた。振り返れば穏やかに微笑んでただ柔らかく髪を撫でてくれた。嘘でもなんでもあれは嬉しかった。死に際こんなに思い出すほどに陳腐な僕の人生のたったひとつの宝物だった。  紅色一色の渾身のグラデーションを胸に抱き僕の瞼は緩やかに落ちた。その瞬間地底深くから生白い手がぬっとコンクリートを突き抜けて僕の後頭部の髪を掴み地中の闇へと引き摺り込んだ。奈落の底へと舞い落ちながら僕はひっそりと意識を失った。  あなたは紅い絵の具のようだ。  幼い僕に絵をおしえながら母はよくそう言っていた。どこで使っても必ず目を引く紅い絵の具の存在感。どこにいても目立ってしまう、あなたは紅い絵の具だと。  いくつになっても特筆すべきは身長が低いことくらい。あとはすべて十人並みで目立つだなんて親の欲目だと気にも留めずにいた。だけど親友だと思っていた男にもそれを理由に近付いたと告白されて組み敷かれた。  ――紅い絵の具の呪い  ずぶ濡れの僕の死体は公園の遊具の中から運び出されて真っ白なシーツに包まれた。
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