紅い絵の具

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紅い絵の具

 「……まもる?」  ぼやける視界に端正な顔立ちの友だった彼が映っている。その彼がふわりと破顔して脱力した。 「良かった、やっと気が付いた」 「……孝、介」  周囲を見渡せば見たことのない白い部屋、簡素なベッドの上だった。 「病院だよ。あんな寒い所でずぶ濡れで倒れてて、凄い高熱だったから慌てて病院に運んだんだ。丸二日も昏睡状態だったんだよ」  安堵したように話す彼の声を聞きながらぼんやりと天井を眺める。生きている。ふいに涙が込み上げてきて味気のない真っ白な掛布団を頭から被り胎児の様に丸まった。 「まもる?なにしてるの、窒息しちゃうでしょう?先生呼んでくるから良い子で待ってて」  幼子を諭すような口調で掛布団を剥がされた。掛けなおされた布団を鼻の下まで摺りあげて滲んだ視界で彼を見やる。あやすように前髪を撫でて病室を出ていく彼の背中を見送った。 「……切れてた」  せっかくの綺麗な顔の唇の端が切れていた。だんだんと鮮明になる意識と共にとんでいた記憶が否が応にも戻ってくる。  組み敷かれて裸に剥かれて、暴れ倒した挙句孝介の急所に膝頭を思い切り打ち当てて僕は彼をベッドから蹴り落とした。そのときの衝撃で彼は唇の端を切ったのだろう。僕は夢中で服と鞄ひとつだけを掴み彼のもとから逃げ出した。土砂降りの雨の中、紅い絵の具を握り締めて……。  過度のストレスと疲労、体力低下、免疫力低下。清潔感のある気のよさそうな医者にあまりストレスを溜めずよく睡眠をとるようにと言われ頷くと医者は孝介だけを病室の外に呼び出して何かを告げていた。孝介が戻ってきてベッド脇の紙袋を手渡してくる。 「熱下がったしもう帰っていいって。着替えて帰ろう」  中をみると替えの洋服が入っていた。逡巡して彼を見ると「早く着替えて」と急かされる。 「……先生となに話してたの?」 「まもるは気にしなくていいよ」 「でも」 「いいから早く着替えて」  軽く腕組みをしながら孝介は仁王立ちでベッドの上の僕を見下ろし「手伝おうか?」と小首を傾げる。狼狽しつつ唇を噛みながら彼に背を向けて僕は甚兵衛型の患者衣の前を解いた。 「急いで帰ろう。帰ったら仕事してもらうから」  ビクッと患者衣を脱ぐ手が止まる。セミダブルベッドで身悶える我が身の姿が脳裏に浮かんだ。  ――稼げる男に抱かれる仕事  震える睫毛を伏せて僕は力なく患者衣を脱いだ。  マンションに到着すると倒れた日の服がセミダブルベッドの上に綺麗な状態でたたんで置かれていた。 「洗濯して乾燥機かけたよ。下着までビショビショだったから」  背後から両腕がまわってきてギュッと強く抱き締められる。俯きつつ彼の腕に手を添えると彼が耳元に唇を寄せた。 「お礼も言えないの?」  わざと耳の中に熱い吐息を吹き込むように囁かれてゾクッと身体に電流が走る。自然と彼の腕を握る指に力が入り朱に染まる頬を背けながらなんとか答えた。 「あ、りが、とう……」 「お願いだからもう家出みたいな真似しないで。俺がどれだけ心配したかわかる?」  そういえば病院からマンションへの帰路の間、彼はほとんど口を開かずどことなく覇気がなかった。死に損なって腑抜けていて、口の端の切傷以外にも彼の綺麗な顔に異変があったことに僕は留意できていなかった。目の下にひどい隈があったのに。 「……寝て、ないの?」  恐るおそる尋ねると答える代わりに背後から頭をグリグリと撫でられた。あんなふうにベッドから蹴り落とされたのに雨の中を走りまわって僕を捜し僕が眠っている間に彼はマンションと病院を行き来して僕の着替えの用意や入院の手続きに奔走した。そして寝ずに付き添っていたのだ。そんな義理彼にはないのに。 「ごめんね……、家族でもないのに」  耳元で微かに彼が笑ったのが聞こえた。 「他人行儀だね、俺ショックだな」 「だって」 「俺はまもるとひとつになりたいのに」  一瞬またたいて振り返る。その途端に唇を塞がれた。「んっ」とくぐもった声が漏れて舌が絡みついてくる。満足したように彼の唇が離れてギュッと閉じていた瞼を開けた。硬く閉じすぎて広がった視界に幾つかの小さな星が飛ぶ。 「まもるはね、紅い絵の具だよ」  緩徐に両目が見開き、柔らかで気品漂う彼の微笑に亡き母の面影が重なる。 「こんなに渇望してるのに、欲しくてほしくてたまらないのに、神は俺にはくれなかった神聖なる『紅い絵の具』」  亡き母の遺言ともいえる言葉をなぞった彼を僕はまじまじと凝視する。身体を反転させて彼と向き合った。思わず彼の胸元のシャツを両手で掴み強く握る。僕の腰に両腕をまわして彼は僕を自分の身体にぴったりと引き寄せた。  この歳で母親が恋しいだなんて言えない。とっくに死んだ母に執着しているようで母の遺言なんて孝介にだって打ち明けたことはなかった。 「ど、して」  震える唇でなんとか紡ぐ。 「どうしてそれ」 「絵を描いていれば」  彼は視線を逸らし小さく「いや」と訂正して再び僕を包み込むように見つめる。 「芸に賭する芸術家であれば誰もが欲しがる最強のものをまもるは持ってる」  小さく「え」と漏らした僕に孝介は破顔する。 「『華』だよ。内面から醸し出す華々しいオーラ。生まれながらにして当たり前に持っているから、まもるにはそのありがたみがわからない。でもね、みんな喉から手が出るほど欲しいんだ。どんなに技術を研鑽しても血の滲む努力をしても後天的には手に入らない珠玉の才能。紅い絵の具のような存在感がまもるにはある」    紅い絵の具。それが才能?僕は俯いて力なく笑った。 「呪いの間違いでしょ?」  そのせいであなたまで失ったんだぞと罵倒してしまいそうだった。 「俺がずっと思っていたことが何かの小説にも書かれていたよ。才能は同時に呪い。みんなが欲しがるものを一人だけ持っていれば嫉妬されてなんだかんだ理由をつけられ辛辣に当たられて当然だ。絞め殺してでも失脚させたいほど邪魔な存在だろうね」  ゾクリとして顔をあげた。 「……俺もね、まもるが憎らしい」  息をのんで僅かに身を引いたのをすぐに引き戻されて再び密着する。 「殺してでも奪いたいよ。その華、その才能。奪えないならいっそまもるごと手に入れたい。欲しくてたまらない才能を持つまもるを一生俺の手元に置いて取り込みたい」  切迫した表情で訴えたあと一息置いて僕をきつく抱き締め、彼はもう一度耳元で懇願した。 「俺はまもるとひとつになりたい」  僕を抱き締める腕にも一段と力がこもり苦悶の表情を浮かべる王子様に僕は恐るおそる口を開く。 「……孝介が僕から奪うものなんて何もないよ。華とか才能とか孝介のほうが持ってる。受賞歴や仕事量が証明してる」 「俺のは努力次第で誰でも手に入るもの。恵まれた環境で存分に腕を磨いた成果さ」 「僕だって努力してるけど売れない。それで才能があるだなんて」 「甘えんぼだからだよ」  すかさず言われて面食らう。 「あ、甘えてないよ」 「どの口が言うの?」 「僕より甘えてる人なんていっぱいいる!いくつになっても親の脛かじったり一人で立とうなんてしたこともない甘ったれ!世の中そんな人だらけじゃないか!」 「まもるに限ってそれは許されない」 「だから僕は甘えてない!ずっと一人でやってきた!」 「俺に甘えてるでしょう?」  またもや間髪入れずに言われて閉口する。 「反論出来ないよね?」  念を押されて気まずさに視線を逸らした。 「人より多く与えられたら人より多く苦労も背負う。幸福と苦労の量は同じ。まもるの人生が波乱万丈なのはね、与えられた才能の代償。このまま苦労だけして死にたい?」  目を見開いて逸らした視線を彼へと戻す。 「刃のように鋭い感性を与えられて普通になんて生きられない。苦しむだけ苦しんで悶絶したまま死んでいった芸術家は山程いるよね?いくら才能があったって世に認められなきゃ世間に馴染めないただの変人だよ」  唾液が漢方薬の顆粒のように苦みを帯びて思わず眉間に皺が寄る。  ゴッホは生きているうちにたった一枚しか絵が売れなかったという。モーツァルトやシューベルトも生前は一向に評価されずに苦しんだ。  人にはそれぞれ持って生まれた使命がある。大なり小なり命題を抱えて生まれてきてはそれに向かって生きていく。達成しようとするテーマが大きければ大きいほどその人生は波乱万丈になるのだ。 「神はサディストだよ。気に入った子に特別な才能を与えるくせにただでは開花させない。死ぬほど打擲して泣き叫ぶ様をみて楽しむんだ。そこで本当に死ねば終わり。どんな形であれ生き残りそれを乗り越えてなおも立ち上がる時、神はようやくその子の人生を百花繚乱に彩る。辛酸をなめつくしたその先にこそ才能が花開くんだ」  芸術家が命と引き換えに描いた作品は何百年経とうとも時代を越えて僕らの心にずしんと響く。泥水を啜った作品こそが魂の叫びを伝えるのだろう。甘ったれて生きている者にそんな芸当は到底出来ない。 「まもるは悩み、喘ぎ苦しまなきゃいけない。人の何百倍もの苦難に見舞われてそれを自らの奇想天外な発想で乗り越える。そこで見た景色を描いて未来の子供たちに伝える。それがまもるに与えられた使命だから」  ――俺に甘えていたらそれは出来ないよ  王子様の翡翠のような瞳が無言でそう訴えていた。目の下に隈を作りきっといま立っているのもやっとなほどにボロボロだ。病室の外に呼び出されたとき医者に自身の養生も気に掛けろと忠告されたのかもしれない。 「やっぱり、孝介が僕から奪うものなんて何もないよ」  ――よく孝介と付き合えるね  美大の同級生の台詞が頭に響いた。やはり僕だけが知らなかった。本当の緋村孝介を。甘い王子様の正体は誰よりも男らしい懐の深い男。思慮深く聡明で芸道に明るいこんないい男にこんなふうに身を粉にして尽くされて、そりゃあ、あんな嫌味のひとつも言われるだろう。緋村孝介だって間違いなくドSな神に愛された人間だ。これだけのルックスと頭脳と腕を持っていながら十年も僕のお守りをさせられた。ハチャメチャなことをやらかす僕を東奔西走しながら捜し守り諭し世話して抱き締める。  感受性の絶対音感を持つ有能なアーティストがいつも僕を背後から見守り逸脱しかけると倫理や道義に基づいて全力で僕を正道へと引き戻す。それでも十年燻り続ける甘ったれを生きているうちに開花せよと、僕のために役者顔負けに化けてみせて嫌われる覚悟を決めた。  こんな無償の愛、他にはない。 「孝介……」  いつの間にか涙が溢れて頬を濡らしていた。 彼がそっと長い指先でそれを拭う。 「ごめんね、いっぱい泣かせて」  ゆるゆると首を振ると彼は再び僕の背に腕をまわしギュッと強く抱き締めた。僕も同じく抱き返し彼の胸に顔を埋めて泣いた。  みんなが持っているものを僕は持っていないけれど、だけどもう僕は指を咥えて眺めたり嫉妬に狂ったりなんかしない。世界中の誰の前に立ったって自信を持って対峙できる。  この愛の記憶はきっと僕を強くする。 「そんなに泣いたら目が腫れちゃうよ。これから仕事なのに」  ゆっくりと顔をあげて濡れた瞳で彼を見上げた。にこやかに僕を見下ろしながら彼はいつも通りに僕の髪を柔らかく撫でる。覚悟を決めて僕は尋ねた。 「……脱げば、いいの?」  彼は僅かに面食らったように「ん?」と聞き返す。 「僕、はじめてだから」  見つめられて羞恥が込み上げ狼狽しながら目が泳ぐ。途端に彼が短い息を吹き出した。それから彼は肩を揺らしてクスクスと可笑しそうに笑う。僕は肩透かしを食らったようにそんな彼を唖然と見やる。 「まもる、いま何を決意した?」  茫然としたまま「え」と漏らす。 「俺に抱かれてくれるの?」  狼狽したまま大きく息を吸い込み真っ赤に頬を染めて訴える。 「だ、だって!仕事って」 「まもるは画家でしょう?」  瞬いて彼を見つめると穏やかに微笑んで彼は続けた。 「『紅い絵の具の君』審査員特別賞受賞、おめでとう」  緩徐に目が見開き薄く開いた唇からまたもや「え」と気の抜けた声が漏れる。 「渾身の紅のグラデーション見事だったよ。タイトルは俺が勝手につけちゃった。『紅い絵の具の君』なかなか良いと思わない?泥水啜った魂の叫び、ようやく世間に届いたよ」  すべてを失って仕上げた遺作。魂を刷り込むように手に残る紅を擦り付けて皮膚が擦り切れ僕の血と絵の具の紅が混ざり合い完成した、泥水啜った僕の遺作。 「若手特有の荒さはあるけど描かずにはいられない作者の熱意がビンビン伝わるって審査員がまもるのために特別賞を用意した。ある意味大賞よりも凄いと思わない?」  目頭がジンと熱くなり僕は思わず俯いた。 そんな僕の頭の上に彼は大きな手をのせてもう一度囁いた。 「おめでとう」  みっともないほどボロボロと大粒の涙が溢れて手の甲で必死に涙を拭う。そんな僕をギュッと抱き締めて彼は耳元でそっと唱える。 「よくがんばったね。今日までよく生き抜いた」  彼の胸元のシャツを皺になるほど強く握り締めて泣きじゃくった。  ――母さん、ようやく僕はあなたの夢を叶えました    孝介が用意してくれていたブランド物のスーツに着替えて彼と一緒に受賞式に参加した。絵画の世界で名の通った賞だけあって列席者も多い。僕の過去の応募作を全作観ている審査員長から正賞の楯を受け取り「作品に甘さがなくなった」と握手をしながら引き寄せられて「成長したね」と背中を二度叩かれた。舞台上でまたもや涙が込み上げたが決死の思いでそれを堪え僕は深々と頭をさげた。  舞台上から客席を見やると喝采の中孝介が 目頭を押さえていた。  もうお菓子の家はいらない。
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