壺の海に溺れて

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 私はそっと、その壺の表面を撫でた。陶器で出来た、美しい壺である。  大きさは……多分、赤ん坊くらい。抱いた事はないけれど、きっとそれくらいの大きさだろう。壺の側面下部は、珊瑚の文様が描かれている。水彩画の淡い色どりが印象的だ。その絵図から、壺自体が海中をイメージしてデザインされた意匠である事は想像に難くないが、その珊瑚や、思い出した様に散りばめられている海藻の絵図以外に海を連想させる物は無く、薄いエメラルドグリーンの染料が、透明度の高い浅い海底に差し込む陽光とその海をイメージして彩色されたのだと、かろうじて分かる。  一人暮らしには不相応に広い和室で、私は正座をし、じっとその壺の側面を見つめていた。傍から見れば私のその横顔は、慈しむものを見る目をしているだろうか、苦しんだ目をしているだろうか、泣きそうな目をしているだろうか。  誰も私を見る者の居ない空間で、私はじっと壺を見ていた。  美しいその重い壺は、そんなデザインなものだから、ともすれば壺の形をしたガラス製の水槽なのではないか、と錯覚してしまう。月明かりの差し込む今の様な夜には、特にそんな妄想を抱く。  だが勿論、壺を覗き込んでもそこには何も無い。何も変わったところは無い。ただ、私が毎日毎日、丁寧に拭いている滑らかな曲線だけが、暗い闇を作り出し、私を呑みこもうとしている。塵一つ無いその壺から、あの子が手招きをしている様だ。  行けたなら、どんなにか嬉しいだろう。  でも、それら全てが妄想である事を、私は理解していた。  だからこそ、空しくて。  左手にある、障子戸の開け放たれた縁側から臨む庭に、小雨が降りつけている。天気雨で、空には満月が浮かんでいた。隣の客間に続く襖も、廊下に続く襖も、閉め切っている。欄間から吹き込む僅かな隙間風が生ぬるく、夏も本格的に始まろうとしている事を告げていた。  小雨は、まだ続いている。湿った、しかし涼しい風が座敷にゆっくりと流れ込み、廊下側の欄間から流れる生暖かい風と混ざり、奇妙な空気を滞留させている。  まるで、水の中に居る様に。  もうすぐ、雨は止むだろう。  私はそっと壺を動かし、小脇に置く。浴衣の胸元をちょいとつまんで正し、厳格な祖母から教えられた通り姿勢を美しく維持し、品を以て立ち上がる。  そうして障子戸に近付き、一枚、二枚、と戸を閉めていった。  最後の一枚が、たん、と乾いた音を立てて、部屋を外界と隔てる。 この瞬間、部屋は完全に閉ざされた。まるで、水槽の中の様に。  ぴちょん  水の音が、確かにはっきりと部屋に響いた。畳と漆喰、木材に吸収され、その音はすぐに余韻も残さず消えてしまう。  私は閉めた障子戸に手を掛けたまま、緊張でこわばった自身の体を、深呼吸で和らげる。  つい、と振り返り、私はゆっくりと、部屋の真ん中へ戻る。部屋の畳に置かれた唯一の物、陶磁器の元へ。障子越しに満月の明かりが淡く頼り無く照らし出す壺の元へ。  再び正座をし、今度は壺を私の正面に据え、ただじっと、見つめる。  月に一度の、満月の日。この日だけ、私はただ一人、こうして密室にこの壺と共に籠り切り、一晩を寝ずに過ごす。たった五時間だけの幻覚を見る為に。  十分もしただろうか。障子戸の上、欄間の代わりに磨り硝子が埋め込まれたその硝子越しに差し込む月の光を受け、陶磁器の壺の表面が揺らいだ様に見え始める。  それは丁度、真夏のプールの底で目を開けた時に見える、乱反射する光の波。または、海の中で暗い暗い海の底まで届きそうな、光のカーテン。  そんな壺の表面を、黒い影がよぎった。右から左へ、一瞬だけ。  イシダイかな、と考えて、また次によぎる小さな影を目で追う。あれは、タイ。  それから間を置いて、しかし次々と、黒い影が壺の表面を「泳いだ」のだが、私はそれにさして興味を持てなかった。ただ私は、ひたすら、じっと待つ。瞬きさえも忘れて。  やがてもう一度、ぴちょん、という水の跳ねる音がした。再び私は体をこわばらせ、両膝の上に乗せた握り拳に力を込める。  もう一度、ぴちょん。  今度は、音がすると同時に陶器の表面に波紋が生まれた……気がした。すぐにその波紋は消え、また静寂が続く。壺の表面を滑る黒い影は、徐々にその数を増やしていた。  とぷん  大きな音がした。同時に、壺の表面から何かが飛び出した。  それは、時間にして二秒にも満たなかったと思う。だがその短い瞬間に、確かに壺の表面、私から見えない壺のほぼ反対側から、小さな人の手が伸びたのだ。九歳児の女の子の、少し丸い可愛らしい腕。傷一つ無い、美しい腕。  私は口から漏れ出そうになるその「名前」を必死に呑み込んで、浮いた腰をゆっくりと下ろす。  腕は大きな波紋を作って再び、壺の中へと消えていった。私は両手を口に当て、必死に声を殺す。震える自分の体を押さえる腕がもう二本、欲しいと思った。  声を上げれば、消えてしまう。そんな、泡沫の夢よりもはかなくて脆い、夢。  夢、夢なのだ。いつもそう自分に言い聞かせている。  夢でなければ、私は、この子は。  ……そうして、どれだけ待っていただろうか。  ちゃぷり、と音がして、今度は腕が一本、ゆっくりと壺の表面から……生まれた。  少女の腕は真っ直ぐに月明かりへと伸びていき、やがて肘が、肩が、そして頭が、その姿を見せる。  やがて、壺から少女は抜け出し、その全容を露わにした。  流れる様な艶やかな髪は長く、腰の辺りまで伸びている。先月よりも少し伸びた様だった。両手の指の間をよく見れば水かきが出来ていて、こちらも少し成長している。少女の裸体を覆う虹色の鱗は先月と特に変わりはないものの、昨年に比べればその数と大きさは確実に成長の兆しを見せていた。  腰から下に伸びる、やはり虹色の鱗を纏った魚の体。人間の脚は初めから存在しなかったかの様に、計算され尽くした芸術作品の様な完成度で、生物としての機能を発揮していた。  少女は、閉め切られた二十四畳の部屋の中で、優雅にゆったりと泳いだ。一切の音を立てず、ただ、踊る様に、滑らかに。  私はただ伏臥する様に体を折り、漏れそうになる声を必死にお腹の中に押し込んだ。  嗚呼、名前を呼びたい。彼女の名前を。あの子の名前を。  だが、それは叶わない。声を出して名を呼べば夢は覚め、また一カ月の現実を無為に悪戯に、生きなければならない。私に出来る事はただ、水の無い水槽で自由に泳ぐその子の姿を一晩、目に焼き付けるだけだ。  少女は、部屋を縦横無尽に泳いだ。私に聞こえない笑い声を上げ、決して私を見付ける事も無く、ただ彼女は一人、静寂の支配するこの小さな世界で泳ぐのだ。月明かりが消えるその時間まで。  夜が明けるその時まで、私は静かに泣き続ける。  たった一晩の夢が、永久に覚めない様にと、叶わない『夢』を願いながら。  小雨が、まだ振り続けている。  もうすぐ、雨は止むだろう。  私の思い通りにならない、美しくも残酷な世界で。
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