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ハニーカミングの笑顔。(後編)
中に入るなり、芹井さんはカウンター越しにマスターに注文した。青いドレスがよく似合う女性と話していたマスターは、オレらを見るなり目を点にした。
「……なに、いきなり?」
マスターの問いを無視して、芹井さんはオレをカウンターに座らせる。隣に腰掛け、彼女は鼻を少し鳴らした。
「よく分からないけど、作ればいいの?」
困惑するマスターをよそに、芹井さんは大きく頷いた。マスターが出したのは、ハチミツの瓶だった。
「何味にする?」
「お任せします」
凛とした態度の芹井さんとは裏腹に、マスターは苦笑いでカウンターにカシスシロップを置いた。最初に何の味にするか聞いたのって、そういう事なのかもしれない。
まずマスターはジガー・カップと呼ばれる、円錐の計量具にハチミツを注いだ。それをシェイカーに注いでから、ミネラルウォーターをシガーに入れる。
何をするかと思えば、小さなスプーンでシガーの中をかき混ぜている。どういう行動なのだろうか。よく観察してみると、円錐の中を洗っている様子だった。
そっか、ハチミツって、かなりドロっとしているんだ。だから、ちゃんと全部入るように水で付着を落としているのか。マスターはジガーの中の水を、シェイカーに注いだ。
水入れて大丈夫なのか。オレの心配をよそに、マスターはカシスシロップを注ぐ。既に絞ってあるレモンの小瓶を取り出して、それもシェイカーの中に収めた。
バースプーンで、シェイカーの中の液体をクルクル回す。マスターは止めたスプーンの先を見て、再びクルクル回す。シェイクする前に、ハチミツが馴染んだかチェックしているのか。
暫くすると、マスターはスプーンの先を見てから味見。これでオッケーなのかもしれない、バースプーンを水の入ったカップに戻し。シェイカーの蓋を閉める。
二つのタンブラーに、夕方にオレが割った氷を二個入れて、クルクルと回して馴染ませる。グラスに霜が張った所で、中の溶け水を捨てる。シェイカーを持ったマスターは、開けて中に氷を詰める。蓋をして、構えて、音楽に合わせてシェイクを始める。
氷の響くサウンドは、心地いい音色だって思った。どうやら芹井さんも、青いドレスのお客様も似たような事を思っているらしい。喜怒哀楽でいう、楽の表情がそれを物語っていた。マスターは、自分のシェイクの癖に合った音楽を選ぶ才能があるのだ。珍しく8の字を描いたシェイクなのは、使っているのがハチミツだからかもしれない。
並べたタンブラー・グラスに、シェイカーの中身を交互に注ぐ。バースプーンで、クルクルと氷と馴染ませる。ミネラルウォーターを注いで、氷を二度も三度も上げてからステアを五回した。最後にグラスに輪切りレモンを、半身浴のように浸けた。
「ハニー・カミングです」
オレらの前にコースターを出して、マスターはカクテルを置いた。カシスを使ったカクテルは、どれもルビーのような色彩になるんだけど。薄まっているし、レモンが入っているからか。ひだまりのような、オレンジ色にも見えたんだ。
芹井さんがグラスをこちらへ掲げたので、オレも同じようにする。薄いグラスは割れやすいので、ぶつけると危険だ。こうして、掲げるだけでも乾杯の意味になる。
一口飲むと、舌一杯にハチミツの優しい甘味が溶けだした。それを追うように、レモンの酸味が舌に広がった。後味にカシスの風味が来るのが、いいアクセントとなっている。芹井さんの方を見ると、蜜だけに満ち足りた表情を浮かべていた。
ハチミツ入りのレモンジュースは自販機なんかでも見るけど、ちゃんとした材料を使ったものは全然違うって思った。市販のアイスと牧場の手作りと、同じようなものかもしれない。
「知ってますか、先輩。ハチミツって、薬にもなるんですよ?」
何を言うかと思えば、芹井さんはいきなり雑学を話しだした。おそらく、これはマスターの受け売りだろう。うちの店長は、豆知識をお客様に披露するのが好きなのだ。
「擦り傷、火傷。時にはスキンケアも出来るし、食べて健康にも良い万能薬」
マスターが付け加えるように言った。青いドレスの女性が食いついたので、ハチミツの歴史を語り出した。オレはカクテルをもう一口飲んだ。確かに甘酸っぱさが、疲れた身体を癒してくれているみたいだった。
「こんな色々出来るって、まるで先輩みたいですね」
彼女の笑顔を見て、オレは皮肉かって思ってしまった。まだカクテルをお客様に出せていない相手に向けていい言葉ではない。けど芹井さんは、間違っても人に嫌な事は言わない。きっと、先輩に対して気を遣っているだけなのだ。
「色々出来るのは……芹井さんの方だよ。オレより知識あるし、腕も立つし。優しいし、可愛いし」
誠意を持ってくれているんだろうから、こっちも誠意を持って正直に話す。おかげで自分の中の劣等感が、膨れ上がったような気がした。
「かっ! ……え?」
妙な声を出して、芹井さんは顔を真っ赤にしていた。こんなに顔が赤くなるなんて、アルコールが入っているのか。もしかして、使ったのはハチミツじゃなくて、ミードっていうハチミツの酒なのかと思って飲み直す。アルコールの匂いは、微塵もしなかった。
「どうしたの?」とオレが問うと、彼女は取り繕うように居住まいを整えた。
「そ、そんなことはないです! あたしなんかより、先輩の方が……今日だって」
芹井さんは顔を真っ赤にしたまま、驚きの事実を述べた。
「実はあたし、ダージリン・クーラーのレシピ忘れてたんですから」
オレは自分でも、目が点になったのが分かった。嘘だろう。あんな簡単なレシピのカクテルを、忘れるわけがないだろう。
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