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「ロッソ。実はその通りなんだよ」
マスターが半笑いで、オレの名を呼んだ。母親がイタリア人のオレは、日本では珍しすぎる名前を持っているのだ。
芹井さんが自分のハンドポーチを膝に置き、カウンターにメモ帳を取り出した。シワシワで使いこまれて、年季と貫禄のあるものだった。
「ヒノちゃんはロッソが入ってくる前、カクテルのオーダーが入る度に、これを取り出していたんだ」
マスターが陽乃と呼んだのは、芹井さんの下の名前だ。基本的に彼は、バイトの子をファーストネームで呼ぶのだ。
芹井さんに了解を取って、メモを見せて貰った。内容は、スタンダードのカクテルばっか乗っているレシピ帳になっていた。ホワイトレディの定番ものから、ピニャコラーダみたいな。余りオーダーの入らないものまで、ビッシリ書かれていた。
「凄い。……勉強家なんですね」
「そりゃ、君だよ。ロッソ」
オレの台詞にマスターが呆れた顔をする。
「その台詞は、ヒノちゃんにとって嫌みでしかないなぁ」
芹井さんの方を見る。彼女は引きつった笑顔を浮かべていたが、その理由が全く理解出来なかった。
「何でですか? だって、こんなにカクテルを覚えようと、頑張ってメモしているっていうのに」
オレの反論に、マスターは乾いた笑いを浮かべる。
「それをメモ無しで、頭に入っているのは誰?」
「……え、それはマスターですよね?」
マスターは頭を抱えた。どう説明すればいいのかって、芹井さんにも聞いていた。いつの間にか、青いドレスの女性も苦笑いを浮かべていた。
「……ネグローニが入りました。さあて、何を用意する?」
ネグローニはジンベースのカクテルで、カンパリを使用するビターで大人の味わいのカクテルだ。
「ビーフィーター、カンパリ、チンザノロッソ。後、オレンジカットですかね?」
何故か芹井さんが瞳を輝かせた。マスターも得意げな顔になっているのも、よく分からなかった。
「マティーニは?」
マティーニはカクテルの王様と言われるほど、有名なカクテルで店によって味は様々だ。基本的なレシピは、ジンというロンドンの酒と。ベルモットという、香味付け(アロマタイズド)ワインを使う。
「エギュベルとドラン。レモンピールとオリーブですね」
「なんでネグローニはチンザノで、マティーニはドランなんだっけ?」
同じベルモットでも、うちにはイタリアのチンザノとフランスのドランがある。マスターは自分で決めたくせに、忘れてしまっているのだろうか。
「カンパリがイタリアの酒で、マティーニに使うジンがフランスのなんで」
ネグローニはイタリア人の名前のカクテルで、使っているのもカンパリだからイタリアンベルモットのチンザノを使う。マティーニはイギリスのカクテルだけど、うちではフランスのジンを使うから、ベルモットもそれに合わせるのだ。
気づけばカウンターに居た女性二人は、呆気にとられたような顔でオレの話に耳を傾けていた。
「しょうがない奴だよ」と、マスターもため息を零していた。
「陽乃ちゃんは未成年で飲めないから、カクテルを覚えるのが大変なんだよね。それを知ったから、ロッソがサポートしてたのかと思った」
「いいえ」とオレは首を振った。彼女は背が小さいから、棚の上のボトル取るのも大変だろうし。冷蔵庫もオレのが近いから、オレが取るもんだと思っていた。
マスター曰く、彼女がメモを見ずに済んでいるのは、オレが使うものを用意してくれているお陰だっていうのだ。
「え、でも、分量は? ……製法も」
レシピが分からないっていうなら、そっちだって分からないはずだ。
「大呂先輩が出してくれるから、思い出すんです。あたしより勉強してくれている先輩のお陰なんです」
言おうか迷ったけど、別にオレは勉強なんてしていない。マスターが居ない時、練習に見せかけてカクテル作って飲んでいただけの話なのだ。だから自然と覚えただけなんだが、マスターの前でそれを言える訳が無かった。
「なので、先輩。あたしに敬語使うのやめてください!」
「いや、それとこれとは話が違いますよね」
オレは彼女の言った「なので」の理由が、全く分からない。カクテルのレシピは、オレの方が頭に入っているかもしれないが。それはそれ。学校では後輩だけど、職場じゃ先輩なんだから、そこはきちんとすべきだろう。
「振られたね、陽乃ちゃん」
マスターは苦笑いを浮かべ、芹井さんは何やらショックを受けた顔をしていた。振られたって何さ、オレは愛の告白なんて受けてないし。
「いえ、アドヴォカードは、混ざりづらいから一度シェイクするんです」
悔しそうな顔を浮かべ、何故か芹井さんはディスカバリーの話をした。だから、振ってないって。もし芹井さんがオレのことが好きならば、喜んでお請けするけど。きっと、その気は無いだろう。
「じゃあ、あたしのこと。せめて、名前で呼んでください!」
「何でです?」
オレが問いかけると、再び何故か彼女はさっきと同じような顔になった。それでもまだ負けるかって顔になったのを見て、オレは少し可愛いとか思ってしまった。表情がコロコロ変わる女の子って、何処か魅力的に思えるんだ。
「マスターが陽乃って呼んでいるんですから、先輩も……」
話している途中で、声のトーンが下がっていくような気がした。何故か、青いドレスのお姉さんが、小声で「がんばれ」と言った。
よく分からないけど、そんなに名前で呼んで欲しいものなのか。もしかして、すっごい自分の名前が好きなのかもしれない。確かに彼女の笑顔って、陽だまりみたいに暖かいから名前に合っている気もしなくもない。
「わかりました。陽乃さん」
オレが言うと、彼女の顔に陽だまりが広がっていく。ころころ変わる表情だけど、やっぱり芹井さんは笑顔が一番可愛いんだな。まるでこのカクテル「ハニーカミング」みたいな、はにかみだと思った。
「あ、あの……。さん、でなくても」
「サン?」
「いえ、何でもないです。……今はこれで満足です」
サンって太陽のことか、もしかして名前に陽が入っているから、あだ名が「サン」とかかもしれない。でも流石に、あだ名で呼ぶのは抵抗がある。それだったら、陽乃って名前の方がよっぽど可愛いし。
「あたしもロッソさんって、呼んでいいですか?」
何故か恥ずかしそうに、上目遣いでオレを見る。ここではそっちが先輩なんだから、好きに呼べばいいのにって思った。
「いいですよ」
彼女は再び、太陽のような笑顔を見せる。それを見て、こっちも嬉しくなるのは何でなんだろうか。
「それでは、よろしくお願いします。ロッソさん」
手を差し出して来たので、オレも握手に応じる。彼女の手は柔らかくて、暖かかった。
「こちらこそ、よろしくお願いします。芹井さん」
その瞬間、その場の全員の動きが止まったような気がした。
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