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八月七日の守護星。
基本的にBar.ゼロワンの上がり時間は、午後十一時。基本は、終電一時間前。どんなに混んでいても終電前には上げるというのが、マスターのポリシーだった。
俺と芹井さんの上がり時間も同じで、ここから先はマスターの一人運営の時間なんだ。にも拘らず、芹井さんは動く気配が無かった。
母さんにレディファーストを身につけられているオレとしては、先に彼女に着替えてもらうべきなのに。ボトルを拭きながら、全くカウンターから離れようとしない。しかも、そのボトル。さっきも拭いていたような気もする。今日の芹井さんは、どこか挙動不審だった。
声を掛けるが、お先にどうぞの一点張りだった。喉も乾いているし、さっさと帰ってビールでも煽りたい。そんな欲求が母さんの指導を破る羽目となり、オレをクロークへと向かわせた。
着替えを済ましてホールに戻ると、芹井さんがカウンターから踊るように飛び出した。何をするかと思えばオレの両肩を掴んで、ご機嫌そうにカウンターへと座らせた。
いきなり、一体何だ。意味が分からずキョロキョロするオレを見て、いつもの青いドレスのお姉さんが小さく微笑んだ。なんだか知らないけど、気恥ずかしくなってしまった。
金属音が聴こえ、顔を上げる。何故か不満そうな顔の芹井さんが、カウンターの向こうでシェイカーとオールド・ファッションド・グラスを取り出した。
彼女と目が合うと、恥ずかしそうに逸らされてしまった。いつもコロコロと表情が変わる女の子だけど、今日は特に色鮮やかだ。
オールド・ファッションド・グラスとは、いわゆるロック・グラスと呼ばれる種類のものだ。大きな氷を入れて、スピリッツをロックで愉しむのが主な使い方だけど。元々はオールド・ファッションドという、カクテルに由来するものなのだ。
次に派手な花の総柄模様のボトルが、カウンターに置かれた。見た瞬間に、オレはパッソアだって理解した。かの有名なレミー・コアントロー・グループのもので、パッションフルーツのリキュールだ。
彼女はパッソアをジガー並々に四十五注いで、シェイカーに移す。ボトルの口を拭いてキャップを閉めると、次に何かの缶ジュースを取り出した。黄色い果実が描いてあるラベル、デルモンテのロゴ。パイナップルジュースか。それを並々の四十五を二回、シェイカーに入れる。
最後にレモンジュースを入れ、バースプーンでかき回して、味見してシェイカーを閉めた。
なるほど、今日は八月七日だったな。
オールドファッションド・グラスに氷を入れてステア、開けたシェイカーにも氷を入れる。店内には八月に合うけど、タイトルの合わないアースウィンド&ファイヤーの「セプテンバー」が流れていた。
彼女それに合わせるように、シェイクを開始。「パッパッパー」の辺りで振りを止めて、グラスにピンク色の液体を流していく。最後の一滴まで注ぎ終えたら、グラスの中の氷と馴染むようにクルクル回す。
「お待たせしました。オーガスタ・セブンです」
ピンク色のカクテル、予想通りのオーガスタ・セブン。実は八月七日とは、全然関係なくて。オーガスタというbar.の品野さんという人が作った「七番目のカクテル」っていう意味なのだ。
オレは彼女に差し出されたカクテルを一口飲んで、溜らずもう一口飲んだ。喉が渇いていたってのもあったけど。甘酸っぱくて清涼感のたまらない味わいが、枯渇した口内を優しく癒してくれるように思えたんだ。
二口で飲みきってしまい、やばいって思った。折角、芹井さんが作ってくれたのに、味わう余裕も無く飲み干してしまった。それでも彼女は、パッションフルーツのように赤く染めた頬で、俺に可愛い頬笑みを向けていてくれた。何故か胸が高鳴ったのは、カクテルを一気飲みしてしまったせいなのだろうか。
「あの、ロッソさん」
照れくさそうに言ってから、芹井さんはカウンターの下から何かを取り出す。綺麗にラッピングされた小箱は、彼女の小さな両手にすっぽり収まっていた。
「お誕生日、おめでちょうございます!」
見事に噛んだ。よっぽど恥ずかしいのか、彼女は真っ赤な顔で少し涙目になっていた。少し震えながらも、オレから目を離さないのは、彼女の意地なのかもしれない。噛むことより、もっと大きな問題があるのだが。さて、どうしよう。
オレの誕生日は、エイト・オーガスタ。つまり、一時間後なんだ。
けれど、これ以上、彼女に恥をかかせるわけにはいなかい。芹井さんが両手で差し出した箱を、オレは恭しく受け取った。彼女が太陽のような眩しい笑顔を浮かべたので、何故か知らんけどオレも顔が綻んでしまう。
「開けてください!」
そう言われたら、開ける他無い。オレも何を貰えたのか気になって、几帳面に包装を剥がした。折角の芹井さんからの贈り物だから、乱暴に扱いたくないんだ。箱を開けると、銀色のネクタイピンが入っていた。ヒトデみたいな、八芒星みたいな、デザインが端についていた。
「星のタイピン?」
「太陽です!」と芹井さんは言った。そっか、だからオレンジ色の宝石みたいなのが、八芒星の真ん中にめり込んでいるのか。
「何故に太陽なんですか?」
その質問に芹井さんは無い胸を張る。これはマスター受け入りの、雑学を話す姿勢だった。
「ロッソさんはしし座ですよね。しし座の守護星は太陽なんです」
すると今度は、芹井さんは恥ずかしそうな顔になる。彼女の何がそうさせるのか、オレは全く理解が追い付かなかった。
「この時間は、太陽は無いので……」
なるほどって、俺は思った。タイピンを使うとなると、仕事中だけど。その最中は太陽が出ていない。その代わりに、これが守護してくれるって訳か。
「ありがとうございます」
オレが頭を下げると、芹井さんは照れくさそうに笑う。どこか嬉しそうに見えるのは、オレの自惚れなのかもしれない。
「これで守護が二倍になりますね」とオレは言ってみた。
「二倍?」
言い方が遠まわしすぎたのか、芹井さんは細い首を小さく傾げた。
「このタイピンと、芹井陽乃さん。二つ太陽があるので」
ちょっと、中二病みたいな言い回しだったのかもしれない。芹井さんは再び、顔を真っ赤にして俯いてしまった。赤面症なのか、彼女は仕事中でも度々顔が赤くなることがある。それも相まって、太陽みたいだってオレは思うんだ。
「はい、ロッソ。僕から」
奥から出てきたマスターが、オレの前にビアグラスを置いた。中の黄金色の液体は、普通にビールみたいだけど。
「銀座ライオンのビールだ」
「マジっすか! ありがとうございます!」
銀座ライオンといえば、オレみたいな大学生が間違っても入れないビアホールだ。銀座は遠いし、何より敷居が高い。そんなオレを知って、マスターはわざわざビールを調達してくれたのか。
オレは意気揚々に、ビールに口を付ける。喉を鳴らす。エビスのように濃厚で、苦みがあってキレも良い。これがオレが追い求めていたビールだったのか。
一気に飲み干すと、何故かそこには不満げな顔の芹井さんの姿があった。青いドレスのお姉さんも何でか知らないけど、マスターを睨んでいたのだった。
マスターは目を逸らす。理由は分からないけど、お姉さんと目を合わせにくい事情でもあるのだろうか。
「……あっ」という、素っ頓狂な声が宇宙のファンタジーの音楽に乗って響いた。マスターが携帯電話を取り出すと、すぐに青い顔になる。
「ごめん、二人とも。時計、一時間遅れてた……」
これはとんでもない、誕生日プレゼントだってオレは思った。オレと芹井さん、マスターとドレスのお姉さん。四人が始発まで、ゼロワンに居ることに決まった瞬間だった。
こうなるのなら、原付で来ればよかったって思ったけど。それをすると、芹井さんからのプレゼントは受け取れなかったんだ。
それなら、それで仕方ない。守護星が出るまでは外には出れない、ゼロワンの守護者に誕生日を祝って頂こうって思った。
太陽の名を持つ、笑顔の素敵な陽乃さんに。
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