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マフラー地獄
明け方の崖にて
「おい、お若いの!早まっちゃいかん!」
木枯らしに黒いマフラーをなびかせながら立つ不思議とも不気味とも言える雰囲気に満ち満ちた老年の男に喚ばわれた健一は、出鼻から振り向きざま叫んだ。
「止めないでくれ!」
「いや、私はあなたをどうしても放ってはおけないのです」
「何故だ!」と健一は叫びながら男の方へ体を向けた。
「あなたは不幸な雰囲気が漲っている。不幸の儘、死なせたくはない。どうか私に不幸話を打ち明けてくれませんか」
「打ち明けてどうなるって言うんだ!同情でもしてくれるのか!」
「いえ、そんな気休めみたいなケチな事をしようというのではありません。話の内容次第では可愛い子とデートとかあれとかさせてあげましょうと言っているのです」
「はぁ?ポン引きじゃあるまいし、そんなこと言うあんたって何者なんだ!」
「私は悪魔です」
「悪魔!?」
「ええ、ですから人の不幸な話が三度の飯より好きなんです。従ってあなたが不幸な話を私にお聞かせくださり私を楽しませてくだされば、そのお礼に可愛い子とデートとかあれとかさせてあげましょうと私は言っているんです」
「じゃあ、その可愛い子を先に見せてくれないか。でないと俺はあんたが悪魔と信じることはできないよ」
「分かりました。ではお見せしましょう」
そう言うと、男は背後にある山林に向かって叫んだ。
「おーい!出て来るんだ!」
すると、山林の前の叢から一匹の白狐が飛び出して来て男の横に来たかと思うと、美しい妙齢の女に一瞬の内に変化(へんげ)した。
「どうです、こんな可愛い子とデートとかあれとか出来るんですよ」
「しかし、人間じゃない」と言いながらも健一が女に魅せられ、男をどうやら悪魔だと認知すると、「人間ですよ」と悪魔は実しやかに言うなり女に向かって命じた。「さあ、あの人にあいさつしなさい」
「はい」と女はしおらしく返事をすると、健一に近づいて行って丁寧に一礼してから、「さあ、私と御一緒に」と言って右手を差し出した。
健一は恐る恐る右手を差し出し女の手を握ってみると、人間らしい温かみと女らしい柔らかさを確と感じ取り、姿と言い、動きと言い、声と言い、正しくこれは本物の女だと思った。
「どうです?」と悪魔が問うと、健一は感激して言った。
「す、素晴らしい!こんな可愛い人と手を繋げるなんて最高だ!」
「でしょう。デートとかあれとかしたくなったでしょう」
健一はごくりと生唾を飲み込みながら頷いた。
「では、私を楽しませられるようになるべく詳しく不幸話をお聞かせください」
「分かった」と健一はぽつりと重々しく呟くと、依然として女の手を握りながら照れ臭そうに語り出した。「お、俺は彼女に気に入られようと無理して高年式のアルファロメオを買ったんだけど、多走行車だったからいけなかったんだ・・・と言うのは、つまり故障が多くて修理代が嵩み生活が苦しくなってデートにも金がかけられなくなって彼女を満足させられない上にマフラーの一部が錆びていて選りによって彼女とドライブ中にその腐食してるところからマフラーが捥げてマフラーを引きずりながら走る破目になって・・・へへへ、だもんだからガリガリギギギと矢鱈に響く物凄い金属音が下から聞こえて来て驚いた俺は、やばいことになったと半端でなく心配になって彼女と共にパニックになってますます彼女の機嫌を損ねて、びびりながらガソリンスタンドに寄った所、初めてマフラーが捥げてるのが分かったんで店員にジャッキアップしてもらって店員にマフラーを外してもらってマフラーをトランクに入らないから後部座席に置いたんだけど、長いもんだから前の座席の方にはみ出しちゃって・・・へへへ、だから彼女がマフラーを鬱陶しがるわ、メインマフラーがついてない所為で排気音が無茶苦茶煩いわで更に彼女の機嫌を損ねて、びびりながら修理屋へ向かって修理屋で整備士に溶接してもらってマフラーがくっついて、まずは一段落ついたんだけど、その後、彼女と公園を散歩中に彼女の肩に手をかけようとしたら、選りによって躓いてしまって勢いこけそうになって、それで、その、彼女につかまろうとしたのがいけなくて彼女のマフラーをつかんだ拍子にマフラーが彼女の首から解けてしまって、それで支えを失った俺は、マフラーをつかんだ儘、こけてしまって、へへへ、それがまた運の悪いことに前に水たまりがあったんでマフラーと共にぼっちゃんって嵌っちゃって、へへへ、だからマフラー諸共びしょ濡れになった俺は、彼女に怒られるわ笑われるわ呆れられるわ嫌われるわで振られてしまったと、まあ、こういう訳なんだ、へへへ」
「なるほど、実に面白い。自分のドジさ加減と間抜けさ加減に嫌気がさしたのと彼女を失ったショックとで死ぬ気になったとこういう訳ですな」
「それと・・・」と健一は言いかけて止めた。
「何です?序でにお聞かせ願います」
「会社を首になったんだ」
「ほう、どうして?」
「彼女を失ったショックから立ち直れなくて無断欠勤し続けたから・・・」
「なるほど。そうすると、お金の方も・・・」
「ああ、所持金がほとんどない」
「なるほど、いやはや、あなたは全く不幸だ。いやあ、こんな不幸話を聞けるとは悪魔冥利に尽きます。十分楽しませていただきました。ですからこの子とデートとかあれとかさせてあげたいのですが、もう一つ条件が有ります」
「えっ、不幸話だけじゃダメなのか?」
「ええ、不幸話だけで、この子とデートとかあれとかさせてもらえると思うのは虫が良すぎます。私はそれ程、お人よしではありません。悪魔なんですからね、魂を頂くためには騙しもします。私に命を売ってください」
「えっ!」
「この儘、死なすと、あなたは天国へ行ってしまいます。何しろ、あなたは比較的潔癖にお暮しでいらっしゃいましたからねえ、それで私は黙っていられなくてあなたに声をかけたというのが本当のところでありまして実際にこの子と付き合えるのは一日だけで、それが終われば、あなたは地獄行きになります」
「そ、それは嫌だ!」
「それでは可愛い子とデートとかあれとかすることなく、あなたは死ぬことになります。それでもよろしいんですか?」
そう言われてこの儘、死ぬのが堪らなく惜しくなった健一は、相当迷った末、手を通して伝わって来る直接的な誘惑に負け、長年の念願だった可愛い子とデートとかあれとかする方を選び、命を売る契約を悪魔と結んでしまった。
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