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鎌鼬
雅史と順子の愛は誰の目にも揺るぎないものに見えた。
その愛を確かめ合うように二人は真冬の雪が積もる苛酷な状況下で東山道の中でも随一の難所と言われ、荒ぶる神が坐すと言われる神坂峠の急峻な登山道を萬岳荘まで踏破するべく歩いていた。
その様は持ちつ持たれつの励まし合い助け合う痛々しくも仲睦まじい紛う方なき愛し合う男女の姿だった。
その象徴たるや神坂神社の境内入り口前に差し掛かった時だった。
「あと少しね」と順子が言い、「ああ」と雅史が答えると、二人は感極まって抱き合い、接吻した。
容赦なく吹き付けるどんな寒風も寄せ付けない程に熱く、そして長く・・・
その光景は一流ミュージシャンの手にかかれば、美しい旋律を奏でるラブソングになりそうな見るからにインティメートな情感あふれるものだった。
やがて抱擁を解き、二人が旅の安全を祈願する為、神社を拝そうと石段を上がりかけた時だった。
鋭利な氷柱のような旋風が空気を切り裂きながら唸りを上げて二人を襲った。
「きゃー!」
順子が裂帛の悲鳴を上げ、手袋を嵌めた両手で顔を覆うと、雅史はよろめきながら然も心配げに聞いた。
「どうしたんだい?目にゴミでも入ったのかい?」
「ち、違うの。なんか口元が・・・」
「口元?・・・痛むの?」
「ち、違うの。なんか違和感が・・・」
「違和感?・・・ちょっと見せてみて」
雅史が優しげにそう言うと、順子は恐る恐る両手を下した。
その途端、「ぎえー!」と今度は雅史が裂帛の悲鳴を上げた。
何と口裂け女のように順子の口角が両側とも裂けているのだ。
鎌鼬の仕業である。
事もあろうに順子はとんでもない数奇な目に遭ったものである。
その順子の変容に雅史は悲鳴を上げた後、腰を抜かして雪の上に尻もちをついた。
その只ならぬ気色に順子は倉皇として手袋を脱いで口元を確かめると、「ぎゃー!」とまたもや裂帛の悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。
その隙に雅史が順子から逃れるべく匍匐前進を始めると、それに気づいた順子はのそのそと歩く亀を捕らえるように難なく雅史を捕まえた。
「ま、雅史、どうしたの?私から逃げる気?」
「い、いや、だ、だって、き、君は、あの、か、鎌鼬に、あ、遭って、く、く、口が、さ、さ、裂けてしまった・・・」
「裂けたからって私たちの愛は終わるの?」
「あ、愛もへったくれもない・・・」
「私たちの愛はそんな安物だったの?」
「そ、そのようだ、は、は、放してくれ!」
「そう、分かったわ」
順子は泣きじゃくりながら意を決すると、雅史の防寒着を掴んでいた両手を離し、巻いていたマフラーを解いて雅史の首に巻きつけるや否や両手に有りっ丈の力を込めて彼の首をマフラーで強か締め付けた。
そして雅史の断末魔の苦悶を狂気しながら見届け、彼が息絶えた後、狂気した儘、石段を駆け上がって鳥居を潜ると、その横の崖っぷちまで行って、「住吉様!私にご慈悲を!」と叫ぶが早いか身を投げてしまった。
その時、拝殿の石垣脇に亭々と聳え立つ巨木の日本(やまと)杉に付けられた紙垂が冷風に物悲しそうに戦いだ。
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