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続きの話 1
*
「お連れさん、大丈夫ですか?」
言葉の上では気遣っているものの、タクシーの運ちゃんの表情はこわばっている。俺は曖昧な笑いを返しつつ王子様の腕を自分の肩にひっかけ、なんとか車内から連れ出そうとする。王子様、シュッとして細身のくせに案外重い。しかしつぶれていてもイケメンはイケメンである。ずるい。
「どうします? 待ちますか?」
「あーそうですね、ちょっとだけ待ってもらって……」
俺は王子様を正面から抱っこしてタクシーの外へ押し出した。幸い明日は休日である。王子様の酔っぱらい加減をみるに、マンションの入り口まで連れて行けば気がつくんじゃないか。だったらこのまま最寄りまで乗っていこう。
そう思った時だった。王子様がむくっと顔をあげた。
「ウラシマさん、うちで飲みますよね?」
ウラシマさん? 誰だそれ。俺は笑った。
「いや、帰りますって」
「だめですよ……明日は休みだっていってたじゃないですかぁ……」
そんなこと話したっけ俺? とまどいをよそに王子様はすぅっと寝息をたてている。あー俺も飲んでるからあまり気にならんが、かなり匂ってるだろうし、タクシーは嫌だろうなあ。俺は大きなマンションの入り口をみる。さすが王子様、なんかいいところに住んでいるぞ。ロビーはこぎれいな植え込みときらきらした通路の先らしい。意外に距離がある。
「あーいいですよ待たなくて。行っちゃってください」
ばたんと車のドアが閉まり、俺は王子様を支えながら通路を進んだ。王子様は泥酔と表現してさしつかえない酔っぱらいようではあるが、自分の家に到着したのがわかったのか、意識はほとんど飛んでいても長い脚は目的地めざして動いている。
これぞ酔っぱらい七不思議の帰巣本能。どうせ暗証番号がないと奥には行けない建物だろうから、入口にたどりついたら捨ておくべし。こんなにマンガみたいな酔っぱらいも久しぶりにみたが、きっかけがきっかけだし、ザルの俺につきあううちに飲みすぎたのかもしれない。居酒屋で飲むのも久しぶりといっていなかったか?
「おい、王子様。ついたぞ」
やっとロビーの奥、ロックされた住人用のマンション入口に到着し、声をかける。と、むくっとイケメンが顔をあげた。
「王子様――って」
しまった。口がすべった。
「なんですかそれ」
「いいだろなんでも。中に入りなさいって」
「ウラシマさんも入りますよね」
「俺はウラシマさんじゃないです」
「何いってんですか。カメを助けたウラシマさんでしょ?」
はあ? そう思ったときイケメンはぐいっと俺の腕をひき、開いたガラス戸の向こうへひっぱりこんだ。
「た~すけたカメにつれられて~行きたいでしょ~りゅうぐうじょ~」
*
さて、どうしてこんなことになったのか。
話は数時間さかのぼるが、原因の半分は俺にあるかもしれない。
「あ――なんか、大丈夫? 大変そうだけど」
ガラス窓のむこうから指さされ、向かいの高層ビルのトイレにたどりついた俺が発した第一声はそれだった。
実をいうとどうしてここまで来てしまったのかもよくわからなかった。やはり相手が王子様だったからじゃないだろうか。ほら、王子様に呼ばれたらそのへんの家来とか通行人Aは駆けつける義務がある。
王子様は鷹揚にうなずいた。いまだ右手をグーで握りしめている。俺は口をぱくぱくさせた。
どう考えてもおかしな状況だ。たしかに俺は以前同じトイレで王子様に話しかけているし、向こうだってそれを忘れてはいないと思うが(だが通行人Aを覚えているものだろうか?)今のこのよくわからない感じを打破するには――
「とりあえずビールとかどう?」
あー何をいってるんだ俺の口!
王子様の眼が驚いたようにぱちっと開いて、すうっと細くなった。まったくサラリーマンの悪い癖――いやいや、主語を大きくしてはいけない、いつも余計なことをしがちな俺の悪い癖だ。相手が飲めるかどうかだってわからないのだ。まったくもって無礼極まる。しかしである。王子様はまっすぐ俺をみていったのだ。
「ビール? ビールか。ビール――どこかいいところ、知ってます?」
というわけで、俺は近くの居酒屋兼定食屋へ連れて行ったのである。ときどきひとりで行く小さな店だが、時間が遅かったせいか奥の二人掛けの席がちょうどよくあいていて、料理も飲み物もさっと出てきた。
「じゃ、まず飲みましょう。えっとその――お疲れさまです」
白い泡がのった金色のジョッキをもちあげてそういうと、王子様は不思議そうな眼つきになった。
「……お疲れさまって」
「ほら、グーで人を殴ると疲れるから」
「……」
「だからとりあえずお疲れさん」
王子様はうなずいてジョッキをもちあげ、ぐいっと飲んだ。ビールのCMみたいだった。こんなアイドルか俳優みたいなイケメンと飲むなんてどうも現実感がわかない。喉が渇いていたのかそういう気分だったのか、王子様は一気に三分の一以上を飲み干し、ぷはーっといった。あーイケメンもぷはーってやるんだなあ、と俺は思った。あれはやっぱり生理的反応なのか。
「いや、その――なんというか、落ち着きました」
ジョッキがほぼ空になるまで無言でグイグイやってから、やっと王子様は声を発した。
「早いな。もう一杯いきますか?」と俺はいう。
「すみません。ありがとうございます。あの……前も一度」
「ああうんその、外から見えてたんですよね、ビルのあそこって明るいから」
俺はなんと答えればいいのかわからないまま説明になっていない説明をする。
「その――休憩場所からさ。だからあの時もその――なんかあったかなと」
すると王子様はまつ毛をばしばしさせてこういった。
「ビールを飲むの、ひさしぶりなんで、美味しいです。それに僕も見てました」
「え?」
「屋上に座ってる人がいるなって」
通行人でも案外みられているものなのか。俺はへえっと思いながらビールをすする。王子様のペースは早い。すごく早い。
「見ててもなんとも思わなかったんですか」
口調はややきつめだったかもしれない。
「何を」
「その――」
王子様は言葉を濁し、俺はハッと気づいた。あわてて差しさわりのない表現を探す。
「え、いやその――最近はやりのドラマみたいだなと思ってただけで。なんか訳ありで大変そうだなって」
王子様はニヤッとした。俺は繊細な事柄を回避できそうだと一瞬だけほっとしたが、耳に届いた次のセリフは辛辣だった。
「あいにくドラマのようにはいかないですね」
「……」
「ほんと、僕が主役のドラマなら天誅をくだすんですけどね」
「……あの……次もビール?」
「ちがうのにします」
ここからはじまって、ふたりでけっこう飲んでしまったのはたしかだ。というのも、別の話題になったとたん意外にも話がはずんだからである。どちらも同じ野球チームのファンだったからだ。
もっとも俺も王子様も、試合中継すらろくに追えなくなっていて、なのにどちらもファンならではの不満をもっていた。あきらかに酔っぱらってきた王子様は愛のある辛口批評をとうとうとまくしたて、一方俺は、すくなくとも前はかなりいけた口で、しかも今日は王子様を隣に緊張していたせいか、あまり酔えなかった。だから大学の後輩にこんなやついたな、と思いながら話をきいていた。
「だからどんなチームでも絶対ってのはもちろんなくて、偶然ですべてが変わってしまうこともあるわけですよ。元上司と会うと思ってない場所で会ったり、とかいうとそれこそドラマみたいですけど現実は逆転ホームランとはいかない……」
辛口批評が個人的な愚痴に変わったのは店が閉まるくらいの時間である。詳しいことはわからなかったが、王子様がトイレで逢瀬を重ねていたのは元上司だったようだ。
店のトイレに立った時、俺もいささか飲みすぎたと思った。外で飲んだのは久しぶりだったので、加減を忘れていたのもある。
王子様は一見大丈夫そうにみえたが、最寄り駅へ歩きはじめたとたんそうでないことがわかった。方向を聞くと同じだったので、面倒になって俺はタクシーを拾った。
で、やっとマンションまで連れて行ったと思うと、今度はウラシマさんと呼ばれているわけだ。
しかしこれも元々は俺の余計なお世話とのぞき見が原因にはちがいない。むしろ王子様が俺に腹を立てなかったことの方がすごいんじゃなかろうか、とその時俺は思ったのである。なにせ長期に渡って他人のプライベートな事件をドラマ気分で眺めていたのだ。そのツケが来たというべきなのだろう。
王子様は若さゆえか筋力が見た目以上にあるのか、それとも酔っぱらいの馬鹿力なのか、俺をエレベーターまでひっぱりこむ。しかたない、乗り掛かった舟だと俺はエレベーターが止まるところまでつきあった。止まったのは十二階。ここもなかなか眺めがよさそうだ。
扉の外へふらふら出ていく王子様に俺は手を振り「閉」のボタンを押した。ここまで見送ればさすがに大丈夫だろう。王子様の今後に幸あれ。
こうして通行人Aの役割は終わった、そう俺は思っていた。
翌日は休日だった。
起き抜けに前夜の出来事を思い出した俺はいささか反省はしたものの、たまにこういうことがあったっていいじゃないかとも考え、結論としては気にしないことに決めた。
切り替えの早い性分なのだと自分では思っている。俺が今の会社で働きつづけていられるのもコロコロ気が変わる社長についていけるのも、良くも悪くもこの性格のおかげなのだ。それにいくらイケメンでも相手は男だし、ドラマみたいな展開があるはずもない。
あ――いや。そこまで考えて俺はハッとした。王子様の趣味嗜好はちがうんだった。しかしあっちのオフィスや見かけのキラキラ具合に対し、こっちはしょぼくれた社畜だ。
というわけで、翌週会社へ行ったとき、俺の頭から先週末のことはほとんど消え去っていた。なにしろ月曜日だったのだ。今日も遅くなりそうだった。外が薄暗くなったころ、俺は屋上で缶コーヒーを飲みながら、残った仕事を片付ける前に外へ飯を食いに行くか、そのへんで何か買ってくるか――と考えていたのだ。
いきなり背後から声をかけられたのはその時である。
「すみません」
完全に不意打ちだったので、俺はほとんど飛び上がった。
「なんですか?」
答えた声も裏返っていたと思う。ふりむくとシュッとした立ち姿で王子様がそこにいた。
「先週はどうもすみませんでした」
今日の王子様の外見は完璧だった。先週の崩れた感じとは比べようもない。これは女性にモテるだろうなあ……と俺はすぐさま余計なことを考えてしまい、いやいやちがうんだったと思いなおす。王子様はそんな俺に「迷惑もおかけしましたし、店の代金とタクシー代も……」等々という。
名前も知らないおっさんのことなんて忘れてもいいのに、と俺は思ったが、真面目な性格なのか、それとも借りを作りたくないたちなのかもしれない。
「じゃあ割り勘ってことで」俺は適当に指を立てた。
「こっちもその、人の事情に首をつっこむようなことをして悪かったし、気にしないでくださいよ」
「いえ、社会人としてありえないので」
王子様は大変恐縮していた。なんだか可愛いかった。
それでつい、割り勘分を受け取った俺はまたいらぬ口を開けてしまったのである。
「じゃあ残業の前に定食屋へ行こうと思っていたんだけど、良かったら一緒にどうです?」
「それならおごらせてください」
「いや、それはいいよ」
そう返したものの、王子様に下手に出られるのは悪くない気分だった。それからふたりで蕎麦屋に行った。素面の王子様と食べる飯は異業種交流会みたいだった。それはそれで悪くない。自分が食べた分をそれぞれ支払って、俺たちは別れた。
それから時々、そんなふうに王子様と飯を食うようになった。
俺としては変な組み合わせだと思っていた。だがもしかしたら俺と王子様が年齢も業種もまったく違うのが逆によかったのかもしれない。近い業界だと話が合う反面、うかつなことをいえなかったりする。
共通の好きなモノは野球しかなかったが、たがいのチェックした情報をくらべて今季の予想をしたり論評したりするのは楽しかった。よく考えるとここ数年というもの、仕事と関係なく話ができる人間が俺の周囲にはいなかったのだ。
一度か二度、俺の方から今の仕事についてうっかり愚痴めいたことをいいかけたこともあった。俺はそのたびにへらへら笑ってごまかした。
「でもまあ私生活はないも同然だから。女っけなし、三角関係もないし、修羅場もなし、何もかもお留守」
王子様は妙な顔をした。文句でもあるみたいだった。変なやつだなあと俺は思った。
むしむしする長い梅雨が明け、猛暑がやってきた。屋上で夕涼みも困難になったある日、王子様が蕎麦をすすりながら「暑気払いしませんか」という。
「いいね」と俺は何も考えずに答えた。
「どこに行く?」
王子様はさらっといった。
「僕のマンションはどうです? 休みの前日に」
「え――でも」
俺はとまどった。そんな、人の家によばれるような間柄ではない。
「いや、あれです。前に醜態をさらした反省があるので」
「あのときは特別だったんじゃないの」
「ウラシマさんかなり飲める方でしょう。つられて飲みすぎて同じことになるのは嫌ですからね」
王子様はあいかわらず俺をウラシマさんと呼ぶ。いや実は俺もまだ王子様の本名を知らないのだ。
「録画した試合もあるし、高校野球も撮ってますよ」
「あ――それはいいね」
俺は反射的にそう答えてしまった。エアコンの効いた部屋で飲みながら知り合いと野球観戦というのは、たしかに悪くない。王子様はいい笑顔をみせた。
「じゃ、約束しましたよ」
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