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続きの話 3
*
それはただの暑気払いのはずだった。
はずだった、のだが……。
――他人の舌が俺の口の中をクニクニと生き物のように這い、なぞっていく。
クチュクチュと濡れた音が聞こえる。他人の息と自分の息が混ざってくらくらする。アルコールとはちがうもので酔っぱらっているみたいだ。
歯の裏をなぞられたとたんにゾクッとし、その隙にもっと奥の方を舌で吸われる。
まったく身動きがとれない。顎を指で押さえつけられ、首のうしろを壁に押しつけられて、前には王子様の肩がのしかかる。
いやいやこれは冗談だろ? と俺の頭の一部がいっている。冗談の上での合意だ。いや逆だ。合意の上の冗談だ。にしても、おかしい、どう考えてもおかしいぞ……なんでかって……。
「やっぱり嘘ですよね」
呼吸が楽になったと思ったとたん耳のあたりに息を吹きかけられ、飛び上がりそうになった。王子様の膝が俺の膝を壁に押しつける。なんだこの身長差。ちょっとしかないはずなのに、ずるい。
「ウラシマさん、ED気味なんていって――ほんとに気持ちいいこと、知らないだけじゃないですか」
俺はヒッと声をあげそうになる。服の上からもしっかりはっきりわかるくらい、左胸のど真ん中、つまり乳首をつままれたからだ。さっきから俺の意思を無視してもぞもぞしている腰のへんがはねあがった。
「――あ、あのな……」
俺はなんとかまともな声を絞り出そうとする。
「このくらいでそろそろ……やめましょ?」
「どうしてですか?」
俺を壁に押しつけているイケメンは余裕の表情で、俺は猫にいたぶられるねずみの気分だが、この事態はもっとたちが悪かった。
「キスだけでこんなに感じるなんて、ウラシマさん、びっくりするくらい感度がいいですよね」
「いやだからその――もう――いいでしょ」
「口や耳だけじゃないですよ。胸だって、ねえ、ほら。自分でわかります? 立ってますよ。生で触ってもいないのに」
そんなこと知るか、といいたかったが、口から出たのは情けないうめき声のようなものだ。王子様の手が俺の股間をさぐったからだ。その手は後ろにまわって尻をつかむ。うわぁ、と俺は思う。まずい――まずいなんてものじゃない。
「もっと擦ったり舐めたりしてあげますよ。ウラシマさんはね、ほんとに気持ちいい経験が足りないんですよ。だからもうダメとか枯れたとかふざけたこというんでしょ?」
パニックに陥りかけた俺に王子様はそんなことをいう。声にはいささか物騒な気配がある。さっきからの展開も含めて俺にはいまひとつ納得しかねるのだが、もしかしたら王子様は俺に怒っているのかもしれない。俺はどうして怒られているのかよくわからないのだが、いや、だからこそこんな冗談みたいな災害みたいな状況になっているのだが――
「わかった、降参、わかったって」
俺はあわてて口走る。
「俺は間違ってた。王子様が正しい。それはわかったから、もう――もういいでしょ? もう――あっひっ……」
「王子様ね」
イケメンの流し目が降ってくる。
「僕のことをそんなふうにふざけて呼べるうちは、到底わかったなんて思えませんけど?」
「あ、いやごめん、ふざけてないって。俺はかけらもふざけてないし、ふたりともけっこう飲んでるし、それで十分……」
「ほんとにいいんですか?」
王子様の手が俺の股間でうごめいた。
「やめちゃっていいんですか? ついさっきまで、こんなんじゃセックス一生無理とかふざけたことぬかしてたのに? そのくせ今はこんななのに? やめたいんですか?」
俺は口をぱくぱくさせた。王子様はふっと笑った。
「僕が王子様なら、ウラシマさんは一般人らしくひれ伏してればいいんですよ」
*
その日はただの暑気払い、になるはずだったのだ。
その日俺は約束通り王子様と並んで彼のマンションへ向かっていた。空はまだ夕方の気配を残してうっすら明るい。王子様の住居は以前俺がタクシーで連れて帰ったマンションである。地名だけで家賃の高さがわかる地区にどかんと建つ高層マンションのひとつ。足元には坂道のあいだに寺が点在し、古い石塀からこぼれる緑には意外なほど風情がある。
最近なんとなく知ったのは(名刺をもらったわけでもないのであくまでもなんとなくだが)王子様は「二十代で年収が大台に乗りますよ」といわれるタイプの会社、いわゆるコンサルの社員らしいということだ。なるほど、外見も経歴も収入も一直線。遊園地のちゃちな迷路みたいにジグザグの俺とは天と地の差だ。
ふつうなら何の接点もないはずの俺たちが宅飲みにGOとはちょっとおかしい。しかし正直いうと俺はこの状況をけっこう楽しんでいた。人生、たまには意外なことが起きる方がいいと思う。酒もつまみもありますからという王子様に「あとで割り勘にしましょう」と俺はいう。
王子様への口のききかたが俺はいまひとつ定まらない。何せ相手は王子様だし、年下でも赤の他人だし、丁寧に話してくるから俺も丁寧に返すべきだと頭では考えるのだが、ときおり妙に可愛くみえるときがあって、つい言葉が崩れてしまう。大学の後輩や非実在の弟のような存在に思えるのだ。
要するに俺は油断していたのだ。思いがけないところから知り合いができて――この年齢になると仕事とも家族とも無縁なただの友人なんて、めったにできるもんじゃない――なんとなくいい気持ちだったから。
王子様のマンションは天井が高く、インテリアもほどほどに高級で、かつ整理整頓されていた。入ったとたんにロボット掃除機がサーっと視界を横切った。さすが王子様。俺のアパートでこいつを飼おうと思ったら、その前にまず俺が床掃除をしなければならないだろう。大画面の液晶TVの前にはでっかいソファが鎮座している。
「へえ、住宅展示場みたいだ」
俺は思わずそういった。
「住宅展示場?」
「あ、悪い。褒めてるんだよ。住宅展示場って行ったことない?」
「ないです」
「そうか。俺には絶対建てられそうにない広い家が並んでる。家なんか建てる気がなければ楽しいところで」
「建てる気があったら楽しくないんですか」
口がすべったと思った。俺は苦笑した。
「そりゃ、予算も土地も住む人間も自由なら楽しいだろうけどね。手伝います」
「あ、大丈夫ですよ。ビールとウイスキーとワインのどれにします? それいつですか?」
「いつって」
「家ですよ」
話を変えようという俺の空気を王子様はまったく読んでくれなかった。俺は彼のさしだすグラスをうけとり、ウイスキーとソーダを適当にまぜる。
「たいした話じゃないですよ。別れちゃった人とね」
「ウラシマさん、結婚してたんですか?」
「いやいや、結局そこまで行かなかった。二世帯住宅がどうとかいってたんだけど、俺の仕事とか実家とか、いろいろもめてね。そのうちダメになっちゃって」
「ダメに」
「そ、全部。すべては水に流れましたとさ。俺の話はいいから何か見よう」
王子様は俺と並んでソファに座り、リモコンを操作した。彼の膝と俺の膝の間隔は三十センチ。TVは大画面だしソファは長いんだからもっと離れてもいいように思うのだが、エアコンも効いているし暑苦しくはない。久しぶりに飲んだウイスキーはうまかった。ソーダで割るのがもったいないくらいだ。ビールを外で飲まないというのも道理だなあ、と俺は納得する。
俺と王子様の応援するチームは今季も鳴かず飛ばずである。そんなチームを応援して何がいいのかという向きもあろうが、べつにいいのだ。そもそも野球とは理屈とデータ分析のスポーツであり、他の野蛮なスポーツとは異なるのである……などという与太話で盛り上がったのは、酒だけでなく宅飲みの気安さもあったにちがいない。
うっかり住宅展示場みたいな部屋といってしまったが、王子様のリビングは居心地がよかった。ふだんとちがう酔い方――そもそも俺は酔った自覚をもつことがほとんどないのだが――をしたのはそのせいだったのか。
「これからどうしたもんかなってのは、たまに思わんでもないんだが、社長には拾ってくれた恩もあるし、いまさら転職ってもなあ」
気がつくと俺は愚痴めいたことを喋っている。王子様は長い足を組み、すぐ横で格好よく座っている。
「ウラシマさんって何歳なんですか」
「俺? 十一月で三十九」
「ええ?」
王子様は愕然とした表情になった。
「もっと――下だと思ってました」
「あーよくいわれるんだよねえ」
俺は苦しまぎれに頭をかく。
「フラフラしてた年数が長いんでちゃんと年をとれてない」
「何やってたんですか」
「いろいろ。イベント運営したり、海外行ったり、大学入り直したり」
「大学?」
俺は王子様の質問をかわそうとしたが、酔いもあってか適当に濁すのが面倒になっていた。古い友人には俺のような経歴の連中は少なくない。だが時には俺を完全に異物とみなす人たちもいて、脳天気な出たとこ勝負が身上の俺も数年前のごたごたはいささか堪えたのだった。
思い出さないようにしていた昔の女の顔が浮かんできて、サーっと正気が戻ってくる。おっとこれはまずい。
「それから誰とも付き合ってないんですか?」
「まあねえ」俺は知らないうちにため息を吐いている。
「いまさら婚活したってな……若い子がいいなんて思わないけどさ……なんていうか……デートとか結婚とかいう話になったら、どうしてもやらざるをえないのが」
「何を?」
「その、シモの方だよ」
「? ウラシマさん介護が必要なんですか?」
俺は吹き出した。
「ああいや、ごめん。そうじゃなくて、俺アレなんだ、たぶんできないんだ」
「……」
「プレッシャー強すぎて勃たなくなってさ」
王子様は無言だ。俺は立ち上がった。
「トイレ借りていい?」
「廊下出て右です」
「サンキュ」
トイレもその横の風呂も広くてキレイだった。王子様は掃除好きなのか、掃除が好きな女の子――はいないんだった、と俺はまた思い出して苦笑する。しゃれたデザインの洗面台で俺は顔に水をかけた。鏡の前には髭剃りローションや洗口剤の他に見慣れないボトルが何本も立っている。このごろ流行りの男性用化粧品だろうか。
気配がして顔をあげると、鏡に王子様が映っていた。洗面所の敷居に立って腕を組んでいる。
「大丈夫ですか?」
「ああ? うん、悪いな。辛気臭い話して」
「ダメっていう話ですけど」
「いやだからいいよそれは」俺は笑った。「戻って飲もう」
王子様は話を聞いているのかいないのか、戸口をあいかわらずふさいだままだ。
「ほんとにダメなんですか?」という。
「何が」
「セックス」
「あー」
俺は口をあけたりしめたりした。イケメンの口からズバリこの言葉をきくと、バズーカ砲を打たれた気分になる。
「知らんけど、無理かも。一生」
ハハハっと笑って、だから全部冗談みたいなもんだからといいたかったのだが、王子様は「ほんとに?」とまた聞いてくる。眼が怖かった。真顔もいいとこだ。
「それ単に、前の人がダメだっただけかもしれないでしょう」
「いやもちろん、その可能性はありますけどね……」
けどね……とこだまを心の中に響かせながら俺はいう。
「そんなに好きだったんだ」
「いや、そういうわけでもなくて」
俺は言い訳のように呟いた。あの手の感情的な経験というのは度を超すと好きとか嫌いとかを超えるのである、といいたかったのだが、うまくいえなかった。
「でも勃たないってだけなら、単にそれだけの経験がないだけかもしれないですよ」
「経験」
「今までもほんとに気持ちよくなったこと、ないんでしょう。単に射精できたってだけで」
おいおい王子様、頼むから射精とかいうな! 俺はそう叫びたくなったが、ふと好奇心をそそられた。
「あのさ、そっちは経験豊富みたいだけど、そんなにちがうもの?」
「僕は男しか知りませんけどね」
「あっ――いや、その――」
「気持ちよくなりたいですか?」
いつの間にか鼻先十センチのところにあるイケメンの顔圧がすごかった。俺は無意識にこくっとうなずいてしまう――しまったのだと思う。
おかしな話だが、自分の行動の認識が実際の行動より何秒か遅れてやってくる感じだったのだ。
「――そんなにいいものかよ」
思わず漏れた言葉は多少反抗的だったかもしれない。
「ウラシマさん、僕ね、キスがすごくうまいんですよ」
はい? そう思ったとき王子様の顔が視界いっぱいに広がって、唇がやわらかいものでふさがれた。
そして事態はこんなことになっている。
俺はいまだに洗面所で立ったままである。立ったまま――いや、壁と王子様の腕に支えられて立たされている。王子様の器用な片手は俺の股間をズボンの上からそっと押さえつつ、俺のシャツを半開きにしている。チロチロと舌に乳首を舐められ、吸われて、俺は完全に参っている。舐められるたびに腰と股間とくるぶしと、つながっているなんて思いもしないところがビクビクするのだ。
乳首だぜ、乳首! なんで乳首だけでこうなんの? とてつもなく気持ちいい――しかし俺が心の底から困惑していたのは、これが嫌じゃないってことだった。この数年、誰かと(女の子と)こういう状況になったときに感じていたどうしようもない自己嫌悪とか、そういうのがぜんぜんなくて、こんなピカピカの王子様が俺なんかにその、かまってくださっているのがたまらなく良かったのだ。
しかし王子様の愛撫はいまだ乳首から離れない。このままじゃどうにかなりそう、生煮えもいいところだ。もうトロ火で炙るのはやめて、パッと煮るなり焼くなりしてほしい――そう思ったときズボンがずいっと押し下げられ、膝下へ落ちていった。
王子様の手が俺のボクサーの上をなぞる。ああ――俺は上を向いて息を吐く。絶妙な支え方で睾丸を下から持ち上げられ、布の上から亀頭をなぞられる。
「やっぱりビンビンですよ」
王子様は俺の胸をぴちゃぴちゃ猫みたいな音を立てて舐めながらも冷静な実況中継を続けている。
「濡れ濡れだし。ウラシマさんの、キレイですね……お尻って経験あります? 女の子でもお尻攻め、するでしょ?」
「――ない……ないよ! こっちで気持ちよくなれるのはわかったから――もういいって」
「まだどこもイってないじゃないですか」
王子様の声が下から聞こえると思ったら、一秒後にはボクサーをずらされて咥えられていた。やばい、まずい、たまらない――俺の前に膝をついた王子様の頭が前後に動き、グチュグチュっと音が響く。温かい粘膜に吸いつかれて追い上げられる。
やば――と思ったときは遅かった。俺はあっけなく爆発したが、王子様の口はくいくいと俺自身を吸い上げる。ぎゅっとつぶっていた目をあけて見下ろすと、上目遣いに俺をみつめるイケメンと視線があった。赤い舌が唇のまわりを舐めている。顔がぱっと熱くなる。と、王子様がいった。
「ウラシマさん、カワイイですね」
カワイイって――あの……。
絶句したそのとき、尻のあいだを指で探られた。
「へ?」
「前は気持ちよくなれるのがわかりましたよね。今度はこっちで」
「待て、待って待って――」
「お尻の経験ないんでしょ?」
「だって俺その、あ、ひゃっ」
尻穴の周囲を指でなぞられておかしな声が出た。その時だ。
ピンポーン。
玄関の方でインターホンが鳴った。
王子様の手が止まった。
「だ、誰か来た――んじゃ……」
「宅急便ですかね」
王子様の声は冷静である。さすがは王子様――いやそんなことをいってる場合じゃない。俺は下半身むきだしなのだ。宅急便を受け取るあいだにせめてパンツを拾わせて。
情けない調子でそう願ったときだった。インターホンから声が流れた。
『貴元? いるんだろう? 入るぞ』
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