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 残りの夏休みはバイトに明け暮れて、悠真とは一切会わなかった。合鍵は渡しっぱなしになっていたが、それを勝手に使って部屋に入ってくるということもなく。  遊園地で一方的に別れを告げた次の日に、悠真から『もう一度話がしたい』とLINEが来たが『俺は話すことない』と返信を送って、それから彼のIDをブロックした。  もう、色恋沙汰で悩んだり悶々としたりする余裕が佑生にはなかった。来年の後期の授業料を払うまで、就活が終わるまで。  三年の後期が始まってから、悠真と同じ講義を受けることはそれなりにあったが、遠く離れた席に座って、彼の存在を視界から締め出した。  彼の姿を見たら胸が高なるのは必至だし、いつまでも好きなままでい続けてしまう。  土日の日中はカフェのホール係、深夜帯はコンビニで働き、平日の夕方からは居酒屋でバイトをした。三つ掛け持ちのうえ、大学のレポートも締め切りまでに提出して、テストもクリアする。こんなんじゃ毎日が目まぐるしく過ぎていく。  あっという間に三年が終わり、四年に上がる。就活が始まり、大学に行く回数も減ってきて、悠真と同じ講義を受けることもなくなっていく。  六月。ゼミの集まりに出たあと、すぐに帰ろうと校門まで歩いていたとき、バッタリ悠真と会ってしまった。彼は校門から入って来たところだった。このまま無視してすれ違おう――そう思うのに、佑生の足は勝手に止まった。  久しぶりに見る彼の美貌から目が離せなかった。  茶色っぽい優しい目、常に笑みを浮かべたような口角が上がった唇、きれいな鼻筋。  相変わらず格好良いが、何か変わったような気もする。  純粋に彼と話したい、と思った。もう以前のような関係にはならないにしても、今ここで彼と話をしなかったら後悔しそうな予感。  立ち止まってこちらを見ている悠真に、佑生から声をかけた。 「久しぶり」  本当に久しぶりだった。彼と話すのは十か月ぶりだった。 「久しぶりだね」  悠真がぎこちなく笑って、一歩ずつゆっくりと佑生に近づいてくる。  ドキドキと胸が弾んだ。まだ好きなんだ、と急に自覚した。  新緑に囲まれたベンチに二人は座った。 「ちょっと痩せた? ちゃんと食べないと駄目だよ」  開口一番、佑生の健康の心配をしてくれた。こういうところは変わってないなと思う。  ――悠真はよく俺の心配してくれたんだよな。  最後のデートの日を思い出した。観覧車に乗る前に、心配顔になってペットボトルのイオン水をくれたことを。 「佑生は内定もらった?」  単刀直入に聞かれ、佑生は苦笑した。とりあえず就活の話題になるのは仕方ない。挨拶みたいなものだ。 「まだもらってない。悠真は?」 「俺は内々定、もらった。就活は終わってる」 「そうなんだ、良かった」  素直に嬉しい。自分も頑張らなくては。 「佑生が内定をもらったら、また会ってくれないかな」 「え」 「落ち着いてからで良いから。今だから冷静に話せることってあると思うんだ」  前を向いていた悠真が、佑生の方に体を向けた。二人の間には、人が一人座れるぐらいのスペースがあった。  悠真の目に、必死な色が浮かんでいる。 「話って、どんな?」 「佑生が帰省してたときのこととか」  悠真が視線を逸らさずに話す。 「ちゃんと話して謝りたいんだ」 「もういいよ、そのことは。嫉妬する権利なんて俺にはなかったんだし」  急にまた、卑屈な自分がよみがえってくる。色々と勘違いしていた自分が痛い。 「なんでそう思うの」  その声は寂しそうに沈んでいる。俯きそうになっていた顔を、思わず上げていた。 「嫉妬する権利がないって、どうしてそう思う?」  ――だってお前は、皆のアイドルみたいな存在で。俺なんかが独り占めできるような相手じゃない。 「決めつけないで」  いつもの柔和な眼差しではなく、怖いぐらい真剣な目で訴えられる。 「決めつけないで欲しいんだ」  切実な声でもう一度言われ、佑生は自然と頷いていた。そうしないと、彼を傷つけそうで。 「ありがとう。連絡待ってる」  ホッとしたように笑ったあと、悠真はベンチから腰を上げ、大学の一号棟に向かって歩いていく。  佑生は彼の背中を眺めながら、ぼんやり考える。  悠真は自分とどうなりたいのか。自分は悠真とどういう関係でいたいのか。  一人で考えたって、答えは明確に出てこない。でもこれだけは感じ取っている。  悠真が佑生に向けている好意、そして自分が彼に抱いている気持ちはやっぱり恋なのだと。  七月の初旬、佑生は新宿駅のコンコースで、リクルートスーツを着た彩佳と偶然会った。 佑生は新卒向けの三次面接に挑んだあとだった。彼女も他の会社の面接を受けていたようで、なんとなく仲間意識が芽生えた。 駅構内にあるカフェに入って、話すことになった。 「久しぶりだね。会うの」 「そうだね。四年になって授業も減ったし、就活も忙しいしね」  彩佳が手で顔を扇ぎながら、アイスコーヒーをストローで吸い上げた。  相変わらず彼女は綺麗だった。大学で会うときみたいに派手なメイクはしていないのに。  店内は、あまり空調が効いていなかった。弱冷房といった感じで、きっちり長袖のスーツを着ている身としては、かなり暑い。  佑生は鞄から扇子を取り出した。二年近く使っているキャラクターものの扇子だ。  彩佳の顔に風が行くように、スナップを利かせて扇子を振る。 「あ、その扇子、悠真も持ってたよ。お揃い?」 「え?」  思わず手を止めた。扇子を見つめる。  扇面にはディズニーの人気キャラクターが描かれている。赤とオレンジを基調としたポップな色使いだ。中骨は安っぽい。白いプラスティックの棒が五本のみ。ひと夏使えれば良いと思えるような、安っぽい扇子。 「去年も今年も使ってたよ、教室で」 「近くに座ってないのに、よく覚えてるね」 「んーやっぱり目の保養にはなるからね、悠真って」  開き直ったように彩佳が笑う。 「その扇子で事件も起こったしね」  くすくす笑いながら、彩佳が佑生の顔を見る。 「事件?」 「そう、事件。去年の十月だったかな。珍しく暑い日で、悠真が扇子を扇いでたのね。そのときに近くの子がちょっかい出したの。紙の部分を指で摘まんで一緒に扇ぐ感じ?」 「それでどう事件になるの」 「紙がくちゃってなったんだよね。大したことないんだけど、悠真が珍しく怒ったんだ。『触るな』って」 「悠真が? そんなことで?」  俄かには信じられない。あの大らかな悠真が。 「って、渡瀬くんも教室にいなかった? けっこう大きい声だったから周りに聞こえたと思うけど」  そんな現場、見た覚えがない。もしかしたらそのとき、居眠りをしていたのかもしれない。バイト漬けで、ろくに寝ていなかったから。 「それだけ思い入れがあったってことじゃない?」  この扇子に、と彩佳が佑生の手元を指さす。  ――俺も思い入れがある。  二年愛用している割に、状態が良い。丁寧に扱っているからだ。  大学二年の九月だった。佑生から誘って実現した恋人みたいなデートだった。コスモランドのアトラクションで絶叫ランク一位になってゲットした景品。  悠真も大事にしていてくれたのだ。そう思ったら胸が一杯になった。 「そろそろ悠真と仲直りしたら?」  彩佳がまた一口、アイスコーヒーをストローで飲む。 「なんか勿体ない気がするよ。渡瀬くん、かなり悠真に好かれてるのに」 「でも、俺一人じゃないんだろうし」 「そんなの分からないじゃん。前は確かに、女癖悪かったけど。渡瀬くんに冷たくされて改心したかもよ」  いたずらっぽく笑って、彩佳が席を立った。 「どうせ自分には無理だって決めつけてたら可能性を狭めちゃうよ。就活も一緒だよなあ」  独り言のように呟いてから、彩佳は手を振って去っていく。
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