逢いに行きたい

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逢いに行きたい

帰宅すると父がリビングでソファーに座り新聞を広げていた。 後ろを擦り抜けようとした僕に貫禄を醸し出す低音で視線も寄越さずに 父が発する。 「帰りの挨拶くらいしたらどうだ」 「ただいま……」  フンと鼻息を鳴らして父は別室へと向かう。  小中学校の頃、僕は親の期待に全て応える勉強もスポーツも 常にトップの品行方正な優等生だった。 父は大病院の医院長で跡取りに相応しいと誇らしげだった。 僕は医学にはまるで興味がなかったが、 それでも病院の跡を継ぐというレールから逃れようとはしなかった。 良い成績を収めると母が喜んで頭を撫でてくれたからだ。 それが嬉しくて、ただそのためだけに 好きな絵を描くのも我慢して必死に勉強に励んでいた。 中学三年のとき、その母が脳内出血で倒れた。 何日も意識不明で、たまたま僕一人が病室に居たときに 一瞬意識を取り戻した。 彷徨うように右手を動かす母に「母さん!」と叫びながらその手を握ろうとすると、僕の手を払いのけて弟の名を呼び母はそのまま息を引き取った。 それから僕は不登校になった。 私室にこもり窓から見える冬の木々の絵ばかりを描いて過ごすようになった僕を父はお払い箱にして弟一筋に期待をかけた。 弟は待ってましたと言わんばかりにやる気を出し、 みるみる成績を伸ばした。 両親の期待を一身に背負って輝いていた僕の転落が愉快で堪らないようで、チヤホヤされる自分を見せつけながら嬉々として勉学に励んだ。 もうこの家の中に僕の居場所はなかった。 最初から、なかったのかもしれない。 生きる指針をなくした僕は最早なにもやる気が起きなかった。 しかし父に無理やり入学させられた高校で麻里子と出会った。 部活なんて入部する気はなかったが、入学して間もなくの美術の授業中、 とある生徒が失敗したと絵を消しゴムで消そうとしたとき、 美術教師が「消さなくていい。それはもしかしたら物凄い名作かもしれないから」と止めた。 こんなことを言う人をはじめて見た。 それが気になって彼女が顧問をしている美術部に入部した。 麻里子は一見幼顔でふざけた冗談ばかり言う子供っぽい性格の女性だが、 知れば知るほど厭世的でどこか達観しているような、 世間の印象とは真逆の女性だった。 長い黒髪がつやつやと輝いて、時折見せる気の強そうな眼差しに惹き込まれていった。不思議な魅力だった。最後まで、結局僕は彼女をつかまえられなかった。 「麻里子……」 「気持ち悪ぃな」  振り返ると進学塾から帰ってきた弟が立っていた。 「お前最低だな!頭おかしいんだよ。恥ずかしいことすんなよな!」  思わず目を伏せると弟は舌打ちをして私室へと入っていった。 はるか昔、この国では心中は犯罪だったという。 成功しても死体を全裸で晒し刑にされて罪人として処理される。 片方が生き残ってしまったらもう片方を殺したものと判断されて 結局死刑になったそうだ。 心中は決して現代に伝わるお芝居の様にロマンチックなものではない。 最初から居場所なんてなかったこの家で心中事件まで起こしたいま、 僕は一家のお荷物だった。  ――わかってもらおうとするな  高層マンションの窓から見える空は、やはりいつもと変わらない。 もう麻里子の墓の納骨は済んでいるだろう。 四十九枚の絵を仕上げて僕の使命は終わった。 逢いに行ってはいけないだろうか。
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