先輩とバイト君

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先輩とバイト君

「じゃあキー君とディープキスとかどう?」 「はい?」 「へ?」 仕事終わり、唐突に放たれたロイさんの一声にアッシュだけでなくキイトも一緒になって目が点になった。 ちょうど閉店時間を迎え、今正にcloseの看板を掛けようとしていたところだった。 キイトがロイさんにどういうことかと食ってかかっている横で、アッシュはとりあえず看板をひっくり返そうと扉に近づいた。 ひょいと看板を裏返すと、外のボードも中へと仕舞う。 黒板ボードには白のチョーク調で店舗情報が書かれていた。 Cafe&Bar Ranunculus(ラナンキュラス) 営業日 火木土日 定休日 月水金 営業時間 OPEN…15:00 CLOSE…深夜1:00 住所 東京都〇〇東葉町××―― 電話番号 ×××―― ボードを無事仕舞い終え、入り口に鍵をかける。これでもうお客が入ってくることは無い。 さて片付けを再開するかとアッシュは店内を振り返ったが、キイトとロイさんは未だよく分からない話を続けていた。というより、キイトが一方的に食ってかかっている。 よく行われるペナルティというか罰ゲームというか。 ロイさんはその日の気分でよく罰ゲームと称してアッシュに無理難題を押し付けてくる。 困っているのを見るのが面白いとこぼしていた事があるので、多分単純に困らせたいだけなんだろう。 今日はたまたまキイトにまで飛び火して犠牲になったというわけだ。 「何で俺!?」 「だってみんな帰っちゃったじゃない?あと僕しかいないし」 突然名前を呼ばれ驚いたキイトが抗議の声を上げるがロイさんはどこ吹く風である。 「それにキイト君今日花瓶割っちゃったし」 「……うぐ!」 ロイさんの言う通り、今日キイトは花瓶を割ったらしいのだ。それも二つ。 この店は出勤時間が二つに分かれている。先行は14時からのカフェタイム組だ。 こちらはその殆どをキイトともう1人、料理人のコテツさんが担当している。 そして夜をメインにした6時からはアッシュやロイさん、その他のメンバーが揃って出勤していた。 そして今回キイトがやらかしたのが先行のカフェタイムでの話らしい。 置いてあった荷物に引っかかり、キイトが盛大にこけた。その時目の前のテーブルを巻き込み花瓶二つが無残にも粉々になったそうだ。 成る程、これはキイトにとっても罰ゲームであるらしい。 しかし何故にディープキスなのか。 そこでよくよく思い返してみる。そういえば終わり際、ロイさんが接客していたお客と彼がそんな話をしていたような気がする。 アッシュやキイトはウェイター役だ。フロア全体が担当なのでひとつの所には留まらない。なのでうろ覚えではあるがそんな事を話しているのを小耳に挟んだ気がするのだ。 どちらにせよ単なる思いつきで言っているに違いない。 現になんて返事を返してくるのか、ロイさんはニコニコしながらカウンターの前で頬杖をついて待っている。 目が合うと楽しそうに目を細めた。 ――あまりまともに取らなくても良いだろう アッシュは呑気に構えていたが、ロイさんと話していたキイトはアッシュに向かい合った。 「……ん?」 肩がぶつかりそうになってアッシュは一歩後ろへと下がる。予想以上の至近距離だ。 キイトは元々パーソナルスペースが狭いというか近いというか。スキンシップも好きなので割とべったりとくっ付いてくることが多い。 特に彼女と別れた後などはお気に入りの髪をセットするのも忘れてアッシュに引っ付いている。 他のメンバーからは億劫がられているようだが、昔から年下の面倒を見てきたアッシュにとってはまあ良くあることだ。そんなわけで面倒をみているうちに随分と懐いてくれた。 しかし今キイトがこんなに近づいてくる意味が分からなかった。 「ちょ、キイト?」 嫌な予感を感じ取ったアッシュは慌ててキイトの肩を押し退け後ろへと下がる。それに合わせるようにキイトは更に前進してきた。足が密着してちょうどアッシュの足の間にキイトの足が割り込んでくる。 身長が近い分、顔の距離も近かった。 「……考えるよりしちゃった方が早いっス」 「待て待て待て!もっと考えて!思考を放棄するな!」 こう言ってはなんだが、キイトはあまり難しいことを考えるのが苦手だ。 小難しい話をされるとピタリと固まった後で首を傾げていることが多い。今もロイさんに色々言われ良くわかんないけどとりあえずしとけばいいやと思ったに違いない。 面倒だからと後輩にキスされたのでは堪らない。 慌てて止めに入るがキイトは聞く耳を持たなかった。というか、既にする態勢に入っている。 顎と一緒に反対の手で首の後ろを掴まれた。 「冷た…」 思ってもみなかった冷たい感触にビクつく。どうやらキイトがいつもつけている指輪が当たっているらしい。 そんなことお構い無しにグッと身体を近づけられ思わずアッシュは怖気付いた。顔を後ろへと引くがそれを押さえ込まれるように体を寄せられる。 首だけ後ろに沿ったせいで仰け反るような態勢になってしまった。正直苦しい。 それに無理に首を引っ張られるからか指輪が当たるところが痛い。 スリ、と唇を撫でられ本格的にヤバいと早鐘が鳴る。 「キイトま、」 待て、と抗議の声を出そうとしたのと唇が重なったのはほぼ同時だった。 身長はアッシュよりキイトの方が僅かに低い。が、キイトの方が力は強いのだ。 抗うことも出来ず、せめてと後ろに下がろうとするが直ぐ頭が壁がぶつかる。これだけがっちりと抱き込まれると横には動けない。 男同士なので腰を寄せられると際どいのだがキイトは気にする様子がない。 というか何故にこいつはその気になったんだ。普通もう少し躊躇しないのか。5つくらいしか違わない筈だが、キイトの思考はよく分からない。 「ん゛、ぅ」 するりと舌が差し込まれる。びっくりして口を閉じるがもう遅かった。 ぬるりとした感触に嫌悪感を抱くよりも早く、せり上がって来たのは吐き気の方だった。 アッシュはもともと大口を開けてものを食べる習慣がない。物をたくさん詰め込むのも苦手だ。 ちまちま食べて腹が膨れてしまい、残してはよく怒られる。 そんなタイプの人間なので口の中に自分のものじゃない、いわば異物が侵入してきて反射的にえずきそうになるのだ。 「……ん゛ぅ」 「アッシュさん下手っスね」 「う、るさい」 正直ディープキスにはろくな思い出がない。 昔いた彼女とそういう雰囲気になった時も、相手がキスを求めて来たので応じればそのまま深くされた。 結果、盛大にえずいてしまいその場で思いっきり引っ叩かれたのだった。 あれは本気のビンタだった……結構痛かったなぁ。 元々淡白でなかなかその気にならない彼氏を振り向かせようと頑張ったのに吐かれたのではそら怒るわけだ。 今思えば相手の子には可哀想なことをした気がする。 Q.現実逃避でしょうか A.はいそうです。 思わずそんな事を思い出して気をやらないとどうにかなりそうだ(吐きそう) しかも変に吹っ切れたキイトは遠慮がない。 その分色々とせり上がってくるのが早かった。 あ、無理吐くかも。 物理的な気持ち悪さに勝てず何度もえずいては我慢するを繰り返す。最早男同士だと気にするとかそういう次元の問題ではなかった。 今問題なのはここで吐くかどうか、それだけだ。 状況が違うにしても二の轍は踏まない。 いやむしろこの場合は踏んだ方が良いのか? でもこんな所で吐いたらロイさんに何を言われるか分からない。 そこで気づいたキイトがぎょっとした雰囲気を醸し出すが、やめる気は無いらしい。 いやここまで反応があればむしろ止めろよ。 半泣きになりながらも止めてくれとロイさんの方を見るが、キョトンとした顔をした後にっこりと笑われた。 とてもいい笑顔である。 意訳するならば〝ホントにすると思わなかったけど面白そうだから続けろ〟という顔だろうか。 完全に面白がって傍観を決め込んでいる。 「アッシュ君」 「……?」 首は動かせないので視線だけでロイさんの方を向くと、彼はじぃーっと此方を見たあとで爽やかに言い放った。 「吐いちゃダメだよ」 顔は笑ってるけど目が笑ってない。 あ、これ吐いたら終わるやつだ。 さぁーっと血の気が引くのが自分でも分かる。 「ん゛……はぁ、」 吐くわけにはいかないとせり上がって来たものを無理矢理飲み下した。 「うん、いい子」 それを見たロイさんは満足気に目を細めて笑う。 片目が見えない分だろうか、とてもミステリアスな笑みだ。美形は本当に得だな。 顔がいいと何でも許しそうになるがそもそもの原因はこの人である。 このやろうと思ったのが伝わったのか、ふわりと艶のある笑みをたたえたかと思うと――パシャリ カメラのシャッター音が響いた。 「ん゛ぅー!!!」 「えー?何聞こえなぁい」 ニコニコしながら手を振られる。 何とか手を伸ばそうともがくが届かない。 とりあえず画像は後でどうにかするとしてだ。目下の問題はキイトである。 諦めて後輩の方をどうにかすべく胸を押し返してみるが全くどいてくれなかった。 そういえばあの花瓶、ロイさんがお客から貰った高級メーカーのヤツだったはずだ。 下手に請求されたらアッシュやキイトの給料など吹っ飛んでしまうだろう。 それでこんなに必死なのか。 納得はするが現状は変わらない。 最終手段で噛み付いてやろうと顔の向きを変えるが、上手い具合に避けられる。 「――っふ……アッシュさ、」 それどころか何を思ったのか口付けが更に深くなった。 性急な様子が少し怖い。 「ふ、ぁ゛」 くちゅり、と卑猥な音が響く。 ――苦しい。 息が上手く吸えなくて押し返すがキイトには分かってもらえない。 ただぐちゅぐちゅと口元の音が強くなるだけだった。 なんだか分からないまま押さえ付けられ息が苦しい。 じわりと目尻の端に涙が溜まる。 それに気づいたのか、キイトは顎を抑えていた手を離すとアッシュの目尻を拭った。 拭うよりも一度口を離してほしい。 苦しくてグイグイとキイトの制服を引っ張るが、手を解かれるとそのままあやすように握られた。 ぬるりとした舌の感触に首元どころか背中までぞわぞわと毛が粟立つ。 ダメ元で今度はキイトの舌ごと押し返してみたがするりと避けられて絡めとられる。 こいつ絶対普段から遊んでやがる。 そう思うくらいには割と上手い部類なのだろうが、されればされる程気持ち悪さ(物理)が勝った。 「んぐ、ぇ」 「ちょ、」 あ、もう無理と思ったところで声が漏れたのかキイトが慌てて口を離した。 「っ、は…ぁ」 離した舌の間に糸が引いて、ぷつりと切れる。 息が上がっているからか、切れた糸が冷たく感じる。 ――やっと終わった。 アッシュは手の甲で口元を押さえてへたり込んだ。 ずっと口を開けていたせいか、顎が痛い。 慣れないことをしてアッシュは疲弊しきっていた。 「吐くほど嫌とかちょっと傷つくんスけど!!」 「………ち、がぅ」 えずいてばかりいたからか、キイトが何やら騒いでいる。 嫌とかそういう問題じゃないと言おうとしたが声にならなかった。今はそれよりも息が苦しい。 アッシュはぜぇぜぇと肩で呼吸を繰り返した。 キイトの方はというと、文句を垂れてはいるが何ともなさそうだ。それが更に腹が立つ。 しかし多少悪いと思っているのか、騒ぎながらも労わるように背中をさすってくれた。 そうしてもらうと少し楽だ。 キイトの方を見れば一緒になってしゃがみ込んでこちらを覗き込んでいる。 その顔には心配とこちらを伺うような色が浮かんでいた。 悪いと思っている時に彼がいつもする表情だ。 「……っふ、」 吐き気から解放された安心感からか、はたまたキイトのいつもの調子に安心したからか。 また目尻に涙が込み上げてきた。 「ちょ、泣かないでくださいっスー!」 「あーぁ、泣ーかせた」 「やれって言ったのロイさんじゃないっスかぁー!」 「いやー、ごちそーさま」 この人は反応を楽しんでるんだから間に受けなくていいと言おうとしたが声にならなかった。 ギャンギャンと騒ぐキイトの声と、とうとう笑い出したロイさんの声がお店の中に響く。 アッシュはへたり込んだまま家に帰りたいと切に思った。 もう、帰っていいですか。いや、その前に画像を消してもらわねば。 あの人がタダで消してくれるとも思えないが。 この後のやりとりを思い、アッシュは遠い目をしたのだった。 おうち帰りたい。
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