夏の空港

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 ぼんやりと前を向くと、すぐ目の前を人々が忙しなく行きかっていた。  どこだろう、ここは。そして僕は誰だ。  冗談のように聞こえるかもしれない。だけど、僕は気が付くと一人でふかふかの椅子に座っていた。なぜだか記憶がないのだ。僕というからには男性なのだろうけれど。  ピンポンパンポーン  ぼんやりしているとチャイム音が鳴る。 「234便神戸行きのお客様にお知らせいたします。天候不良のため当便は出発が遅れています」  女性の上品な声が大きな空間に響き渡った。  このアナウンスは聞き覚えがある。僕の前を急ぎ足で歩いていく人々はスーツケースやボストンバッグなど大きな荷物を抱えている。チェックインカウンターには長蛇の列が並び、込み合っていた。案内板には行先と時刻が書かれ、空席状況はほとんどがバツ印だ。  間違いない。ここは空港の出発ロビーだ。  だけど、記憶のない僕はどうして空港の出発ロビーなんかにいるのだろう。記憶を無くす前に、どこかに行こうとしていたのだろうか。  分からないけれど、立ち上がってどこかに行こうとは思わなかった。行くべき場所が分からなければどこに行きようもない。  近くにある時計の長針が一周した。 「ごめん、出発遅れそうなんだ。うん。だから迎えに来てくれるなら待たせることになるけれど」  隣に座ったお腹の出た中年男性が電話の向こう側の相手に説明している。さっきアナウンスがあった神戸に行く人なのだろう。  ただ僕は彼の通話を耳にして何かモヤモヤとした。 「お土産買って帰るから」  それを聞いて思い出した。  そうだ! お土産を買ってくるように頼まれたんだった!  僕は走り出す。混雑する人々の間を上手く縫って、お土産コーナーにたどりついた。クッキーにゼリーに羊かん。たくさんのブースにすでにお土産を抱えた人たちが群がっている。 「お父さんには羊かんでしょ。お母さんはイチゴのスイーツが好きだから……。どれがいいかしら」  子供の手を引きながらお土産ブースをさ迷う女性。  そういえば、僕は誰にお土産を頼まれたんだ。お菓子なら何でもいいのだろうか。  お土産のブースを一通り見回って、僕は人の邪魔にならない壁際にはけた。目の前には家族連れが大荷物で固まって立っている。 「おばあちゃんちの川で今年も遊ぶんだ!」 「あら、水着は入れたかしら」 「水着なんていらないよ。Tシャツで充分」 「僕はカブトムシを取るんだ」  そうかと、いまさら思う。今は夏なんだ。だから、みんな半そでで、どこかはしゃいでいる。空港もいつにも増して込み合っている。  僕もどこかに帰るところだったのだろうか。それとも旅行に出る所だったのだろうか。 「あら? あなた、どうしたの?」  声がした方を向くと一人の女性が立っていた。その姿を見て少しぎょっとする。黒いサングラスをかけ、暑いだろうに真っ黒な長そでの服を着て、黒い布を被っている。紫色の口紅を塗っていた。  他の人々もその姿をどこか異様に感じるのか、彼女を避けて歩いていく。僕はどうもしないですと言ってその場を去ろうとした。 「まあ、私はそれでもいいんだけど。あなた、早く帰りなさいね」  まるで迷子の子供に向けるように言って怪しげな女性は僕とは反対側に歩いていった。僕はピカピカに磨かれた床を見つめながらぼんやり考える。  帰れるものなら帰りたい。でも、どこに帰るのかも、僕自身が誰なのかも分からない。分かっているのはお土産を買って帰るべき場所があるということだけ。
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