秘密の霊柩

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 見えない大きな絵描きさんが、この丘を写生していたわ。青かった空に、ヘザーの花の紫色が滲み出て、垂れ込めた雲は、岩のように黒く変わって。絵筆は風ね。一吹き一()き、空気をしっとり濡らしてたわ。  だから嵐になるのは分かってた。ほかの蝶や蜂たちも、雨よけを探し始めたわ。私は当てがあったので、ヘザーの茂みも、岩場の窪みも譲ってあげたの。花に夢中の子がいれば注意して、街道近くでは、道から離れるように言ったのよ。遠くに人と馬車の影が見えたから。あの大きな車輪が傍を通る時、道がぬかるんでいたら、どうなると思う? 跳ね飛ぶ重たい泥――考えるのも嫌ね。  そのうちに、(ひづめ)と車輪の音が近くなって、私も街道を離れたわ。この丘の上まではね、茂みの中の獣道を通って来たの。昨日、虹が出たでしょう? あの端っこを探していた時、(つた)と葉っぱで着飾ったお屋敷を見つけて、憶えていたのよ。いつか休む場所をお借りするつもりでね。  獣道は、街道と一緒でこのお屋敷に続いていたけれど、上手く私を馬車と反対に導いてくれたわ。雨粒が落ちて来るのと同時に、蔦を(くぐ)って葉っぱに隠れたの。ほっとして触覚を垂らしちゃった。 だけど風が吹いた瞬間、揺れが酷くて驚いたわ。地面にしっかり根を張った、ヘザーとは違うのね。この丘に吹く風は、晴れた日でさえ強いんだから、嵐のときは尚更だわ。心許(こころもと)なくて蔦の間を探ってみたの。そしたら壁から、私のために(あつら)えたような、小さな屋根が突き出てるじゃない! ほら、降り出してみれば、私なんか叩き落とされそうな、こんな乱暴な雨でしょう。心から、幸運に感謝したわ。  まさかこうして、真っ暗闇に押し込まれるなんて、思いもしなかった。  僕も心が躍ったよ、綺麗な蝶のお嬢さん。君が飛んでくるのは見えてたんだ。雲の目隠しをすり抜けた僅かな光に、羽が白く輝いて、月の欠片みたいに美しかった。しかも僕の下で雨宿りをしてくれるなんて、僕も幸運に感謝したよ。  まさか君をこの身に閉じ込めてしまうだなんて、思いもしなかったがね。  でも、どうかあの子を責めないで。彼女はこの雨の中、手紙を濡らさずに投函(とうかん)しようと懸命だったんだ。傘もささずにここまで来たのだからね。濡れていないのは、しっかり包まれた手紙だけだった。目に流れる水を拭っていて、僕の(ひさし)に隠れた君には、気が付かなかったのさ。だから手紙と共に、君を僕の中に押し込んでしまった。  ここは貴方の、中? 貴方は誰? 人間が、虫を食べる植物を鉢で飼い始めたなんて噂があるけど、まさか――いえ、失礼だわ、ごめんなさい。  素直にお話するとね、私、怖いの。泣き声みたいな雨風の音。なのにここは乾いていて、鱗粉(りんぷん)が吹き散らされそうなほど、羽を揺すられもしないなんて。それって快適なはずなのに、私だけ、世界から切り離されてしまったみたいで不安なの。ここは夜よりも闇が深いし……。  こちらこそ、怖がらせて申し訳ない。僕は君を食べたりしないよ。さっき、君と一緒に手紙が入ったって言ったろう。僕は郵便受けなんだ。壁の中に埋まっているから、そうは見えなかったよね。僕の主人が、わざとそうして付けたんだ。  あら、このお屋敷の郵便受けは、表の方に見えたけど。馬車が向かった門のところに、堂々と立っていたわよ。  貴方のような紳士を、どうして隠してしまったの? あの女の子はなぜ、貴方を知っていて、ここに手紙を届けたの?  あ、いけない。私ったら、お行儀の悪い。  いいさ、君の不安が紛れるなら、話をしよう。この壁の向うが主人の部屋で、僕から手紙を取り出す扉はその室内にあるんでね、中で起きたことなら知っているんだ。とはいえ、その部屋と裏庭の出来事しか見たことがない世間知らずだ、期待はしないで。  まず僕の主人はレスリーという、画家の青年だ。若いが、名は売れているらしくてね、よく肖像画の依頼が来ていたよ。彼は使用人から手紙の山を受け取るたび、差出人や封蝋の紋章を一瞥(いちべつ)して、ため息を吐いたものさ。 彼が待っているのは、僕の中に届く、リリアと拙いサインのされた手紙だけだった。さっき来てくれた彼女の名前だ。  二人がどうして知り合ったのかは分からない。僕が取り付けられたのは、ほかでもない、リリアのためだからね。当然、彼女は僕が来るより前から、レスリーと懇意だった。  でも展覧会が出会いの場だったのには違いないよ。水仙が春を告げる頃、この屋敷の人たちは、街の舞踏会にレスリーを誘った。街に別邸があるらしくて、そこで秋まで過ごそうとね。だけど彼は応じなかった。体調が優れないと言って。彼は痩せて青白い肌をしていたから、事実だったかもしれない。けど「人付き合いなんか」って独り言からして、そっちが本音だろう。使用人たちも大半出払ってしまうのに、留守番組の手伝いを買って出てまでこの屋敷に(こも)るのが、レスリーという人間なんだよ。  彼が帽子を頭に、ステッキを手に、トランクを使用人に持たせて出て行くのは、「個展に間に合わない」とか(うめ)く日が続いた後だけ。そんな男が、女性と知り合う機会なんて、限られているだろう?   ましてや裕福な彼が……紙と鉛筆を買えば傘に手が届かないほどの、貧しい女性と知り合う機会なんてね。  それで彼女、ずぶ濡れで歩いて来たのね。街からは随分遠いのに。私、網で追い回されてから人間って好きじゃないけれど、リリアにはこの羽を貸してもいいわ。  だけどせっかく来たのに、レスリーと会わないのはなぜ? 彼女の足音、すぐ遠ざかっていったわ。玄関へ行くはずないわよね、わざわざ、表の郵便受けを避けるくらいだもの。  短い夏の終盤、この丘のヘザーが満開になる直前かな。別邸から家族が帰って来るまでは、レスリーが彼女を部屋に入れていたよ。君は、茂みの中の獣道を通って来たのだったね。おそらくリリアが作った道だ。人目を忍んでこの裏庭に来る彼女を、レスリーは窓辺で待っていた。彼女の姿を見るとね、部屋のドアに鍵をかけ、髪を整え、胸を叩いて一息吐いてから、窓を開く。そこからリリアを引っ張り上げてあげるんだ。  窓の下、僕の扉のすぐ横には、いつも椅子と部屋履きが用意してあった。ぼろぼろの汚れた靴を、リリアが気にするからね。靴を履きかえた彼女は、壁に掛けてある絵に近寄って、熱心に見上げていたよ。レスリーが描きかけの絵を見せることもあった。彼はいつも、製作途中は、使用人すら中に入れなかったのにね。  レスリーにとって、リリアは特別だったのね。それなのに、ほかの人がいたら会えないの? リリアは玄関から入れないの? 靴が汚れているから?  僕も詳しくはないんだが……。人にとって馬は外を走らせるもので、部屋に招いてお茶を淹れてやる相手じゃない、というのは想像できるかな? どうもレスリーの家族は、貧しい人たちにもそんな処遇が妥当だと思っているようだね。  馬と人とは……別の生き物だから、仕方ないわ。馬が紅茶を好むかどうか、確かめようがないもの。  でも人間同士ならおかしいわ。あのぎょろぎょろした目には、見えてないのかしら。お金持ちか貧乏かなんて、体の外にくっ付けている物が違うだけで、裸になったら一緒じゃない。あの大きな頭は一体、何を考えるためにあるの? 喜ばれることと嫌がられることの、区別くらいできそうなものなのに。人間同士でそんな調子じゃ、蝶は虫取り網が嫌いだろうってことなんか、想像してもらう余地がないわね。  郵便受けも散歩がしてみたいってのは、レスリーでさえ考えつかないことだったんだな。彼は、お金持ちも貧乏人も同じ人間だっていうことには、気づいていたみたいだけどね。  リリアが涙ぐんで、こう言ったことがあるんだ。「私、貴方から与えられすぎているわ。髪を売ったお金は、あの個展の入場料で終わりだったのに」って。  僕は勝手に、こう思ってる。彼女は個展の広告を街で拾い、本物の絵が見たいあまり、髪を売ってお金にした。入場料には足りたが、綺麗な服と靴は買えず、身なりを整えて来いと門前払いされ、個展の会場には入れずじまい。立ち去ろうとしたら、レスリーが出てきて、彼女を呼び止めた。「君が僕の絵を見たいと思ってくれたことが嬉しい。ここは貴族ばかりで肩身が狭いだろう、君さえよければ、うちに来てじっくり作品を見てほしい」とか何とか。そうして彼女はこの屋敷に来るようになったけど、レスリーの家族は良い顔をしないし、リリアも気(おく)れする。だからこっそり会うようにしたんじゃないか……とね。  なるほど、きっとそうね。すごいわ、本当にその場で見ていたみたい。   まあ、壁に埋まっている僕としては、気になることがあっても確かめようがないのが常だからね。想像を(たくま)しくするしかないんだ。  さてお嬢さん、そろそろ休んだ方がいい。天井にくっついていられるかい。リリアは明日も来るだろう。手紙の下敷きにされちゃいけないからね。  話の続きはまた、明日。
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